『雪の下に春を待つ』

2月初めのこの時期、新潟、長野の地域は雪に覆われる日が多くあると思います。前夜からの雪が降り積もった早朝、除雪の道具を手にまっすぐ雪と向かい合うとき、全ての音が雪に吸収されてシーンという音が聞こえそうな感じがする中でひたすら作業にいそしみます。少しずつ明るさが増してくる周囲の中で雪の塊は薄く青い色を見せています。作業をする中で頭の中も雑念のない、澄んだすっきりした感じになっていきます。全てのものが白一色になっていますが、その雪の下には、確かに春が力強く準備を始めています。
教会の暦では、被献日から大斎に向かっていくこの時期、自然の暦もやがて来る節分から立春を待つことになります。雪に閉ざされた自然の摂理の中で全てのものはじっと力を蓄えているのかもしれません。
イエス・キリストは、洗礼を受けられた後、最初の弟子たちに声をかけられます。そして安息日に会堂で力強く教えを述べ始められます。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マコ・1・22)と書かれています。イエス様が洗礼を受けられる前にどのように過ごされていたのかは知る由もありませんが、一旦、福音宣教の道を歩み始められると、ちゅうちょなくまっすぐに進んでおられます。おそらくは、力をためるのにじっと準備をされる時を過ごされたことでしょう。
今の日本は社会全体も冬の時代なのかもしれません。慢性的な経済不況、東日本大震災の被災地の復興、原子力発電所の事故による被災者のこと、沖縄の辺野古問題に代表される基地問題、周辺国との歴史認識問題、こういった社会問題が背景にあって生じる人間関係のゆがみなど、抱えている問題が多くあります。それぞれの問題に、直接向かい合っている人々は、日々努力していますが、全体としての解決にはなかなか向かっていきません。「面倒なことは後回しにする」といった考えに社会全体が陥ってしまうと何ともなりません。先ごろの選挙においても目先の経済問題に終始して、こうした社会的・根本的問題をどのように解決していこうとするのかは問題になりませんでした。一方で問題は長引くほど面倒になってくるわけで「後回しにする」といったことでいいわけがありません。先ごろの原子力発電問題講演会で、講師の岩城聰司祭は「神によって造られたいのち。神によって創造された自然。神によって与えられた平和なくらし」を守る、という2012年の日本聖公会の総会の声明についても触れられましたが、問題を自分の都合の良いように範囲を狭めて考えていいわけではありません。原発問題でいえば、問題が起こっても避難できない動物や植物、自然全体のことを考えていかなければいけません。
一つ一つのことについてきちんと考えていくこと、たとえいくらかの自己犠牲を伴うとしても根本的に解決しなければなりません。社会の問題は、私たちがすぐに解決できるということではありませんが、それに対応するための根本的考えと姿勢は、雪の下の芽のように、やがて来る春を信じて常に変わらないものを持ち続けたいと思います。

司祭 ペテロ 田中 誠
(名古屋聖マタイ教会牧師 飯田聖アンデレ教会管理牧師)