『罪人バラバ、その後…』

皆さん、聖書の登場人物の中で、”その後”が気になる人物はいないでしょうか?私は、沢山います。例えば、主イエスの十字架により、自分自身の改心とは全く関係なく、突如として罪を赦され、生かされることとなった罪人バラバ。暴動を扇動し、強盗や殺人まで犯し、死刑を宣告されていた大罪人とも言える罪人バラバの人生は、主イエスの十字架によって、極めて現実的に180度転換し、死から生へと向かっていきます。
皆さん、目を閉じて、少し想像してみてください。
…ある日の明け方、突然始まった狂気に満ちた裁判。その中心にいるのは、威厳に包まれながらも、不思議なまでに何も語らず、ただひたすら群衆に罵声を浴びせ続けられているナザレのイエス。その様子を訳も分からず、ただ興味津々に牢獄から覗き込んでいた罪人バラバ。この時は、まだ、このナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって全くの他人事であり、これまで自分自身も経験し、また、何度も牢獄から垣間見てきた他の罪人の裁判と何ら変わりありません。
しかし、群衆の「バラバを釈放しろ」という叫びによって、ナザレのイエスの裁判は罪人バラバにとって一変します…、自分自身の命をも左右する裁判に。罪人バラバは固唾を呑んで、その裁判の行方を見守っていました。そして、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びが頂点に達した時、罪人バラバは自分の釈放を確認したに違いありません。”これで俺は助かる!! “と。罪人バラバにとって、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びこそが、自分自身の救いを告げ知らせるものでした。”ラッキー!棚からぼた餅”程度の救いの宣言が。
そして、釈放され、ナザレのイエスの十字架上での死を見届けた元罪人バラバは、数日後、何を感じ、何を思ったのでしょうか?
数日間、”棚からぼた餅”の命を生きた元罪人バラバは、こう疑問を感じたのではないでしょうか。”なぜ、自分が生かされたのか?”、”まさに自分の身代わりとなって十字架上で死んだ、あのナザレのイエスとは、一体、何者だったのか?”と。そして、こう望んだのではないでしょうか。”あの時、黙し続けていたナザレのイエスは、かつて何を語り、何を行ったのか”と。この疑問を抱いた瞬間から、”棚からぼた餅”の命を生きていた元罪人バラバの命は、”自分の、今ある命の根源を探る”命へと変わります。求道者バラバの誕生です。その命を生きる中で、群衆の「十字架につけろ」という主イエスへの罵声や叫びに自分の救いの確信を得た自分の誤りに気づき、こう悟ります。”私の真の救いとは、あの時、黙し続けていたナザレのイエスそのものである! 私は、彼の命そのものを受け継いだのだ!! ナザレのイエスこそ、主である”と。
彼は、このように信仰者バラバへと変えられた。私は、そう信じています。そして、同時に、信仰者バラバを羨ましく思います。主イエスの命を名実ともにダイレクトに受け継ぎ、それを確信し、希望と喜びと信仰の中を歩めた彼を。私の命と信仰の中に、そして、皆さんの命と信仰の中に、バラバのような回心と主イエスの命が脈々と受け継がれますように、いつもお祈りしています。

司祭 ヨセフ 下原 太介
(岐阜聖パウロ教会牧師・大垣聖ペテロ教会管理・福島教会管理)