信濃毎日新聞2023年10月18日版に軽井沢に関する記事が掲載されました。
ハンセン病患者への支援を行った宣教師ハンナ・リデルとの関わりについてです。
よろしければごらんください。
偶然にも10月18日は中部教区成立記念日でした。
教区の色々な歴史がこれからも発掘されるよう願っています。
ハンセン病患者救済に奔走した宣教師の証し、軽井沢町で発見 「リデル」の名、刻まれた石造物|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト (shinmai.co.jp)
信濃毎日新聞2023年10月18日版に軽井沢に関する記事が掲載されました。
ハンセン病患者への支援を行った宣教師ハンナ・リデルとの関わりについてです。
よろしければごらんください。
偶然にも10月18日は中部教区成立記念日でした。
教区の色々な歴史がこれからも発掘されるよう願っています。
ハンセン病患者救済に奔走した宣教師の証し、軽井沢町で発見 「リデル」の名、刻まれた石造物|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト (shinmai.co.jp)
『日本経済新聞』の文化面に「交遊抄」というコラムがあります。私は著名人でも何でもないのですが、お声をかけていただき、先日9月1日に、掲載されました。タイトルは「やさしいまなざし」。森美術館館長の片岡真実さんとのつながりを紹介しましたが、片岡真実さんのお父さんは、私たち中部教区の先達である菊田謙司祭です。以下に、「交遊抄」で書かせていただいた記事を紹介させていただきます。
約250万の発行部数を誇る日経新聞という全国紙に、日本聖公会中部教区、そしてこの9月にちょうど逝去8周年を迎えた野村潔司祭の名も登場したことは、誠に嬉しいことでもありました。
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森美術館館長の片岡真実さんは飲み友だちであり、同志でもある。その出会いは1980年代後半、私が京都大学工学部を卒業し、英国国教会の流れをくむ日本聖公会中部教区の名古屋学生センター主事として赴任したころに遡る。
片岡さんの父は同教区の司祭を務める牧師だった。キリスト教と身近な環境で育った彼女とは、日雇い労働者への炊き出し、偏見や差別に苦しむ人々への支援を通じて会話をするようになった。
その後、片岡さんは大学を卒業して本格的に美術の世界で活動し、私も神学の道に進んだこともあって交流は途絶えていた。片岡さんがキュレーター(学芸員)として海外で活躍する姿を知ったときなどは、うれしい気持ちになった。
再会のきっかけは2015年、共通の恩師である野村潔司祭の葬送式でのこと。「野村先生は常に社会的に弱い立場にある人々に手を差しのべ一緒に行動した」という私の説教を聞き、深く心に響いたとメールを寄せてくれた。教会の果たす役割に悩んできた私が歩むべき道を確かめることができた言葉でもあった。
縁あって今夏の森美術館での企画展で立教大生や教員が協力している。いまも人へのやさしいまなざしを忘れない片岡さんとの対話を大事にしていきたい。
(にしはら・れんた=立教大学総長)
秋と言えどもまだまだ暑い日が続きますが、礼拝カレンダーは10月号が完成いたしました!
各地でイベントなども復活し、礼拝時間が変更となっている箇所がありますのでご注意ください。
※9/21修正…名古屋聖ヨハネ教会10/8の礼拝時間を修正しました。
※9/25修正…長野聖救主は朝の礼拝休止。10/22(日)オープンハウスがあります。
BSA(一般社団法人日本聖徒アンデレ同胞会)から「信徒叢書23」として、拙書『キリスト教と科学』が発刊されました。本書で書き記したかったことは、キリスト教と科学の本来的な近接性です。
西欧においては「科学」と「技術」の間に明確な分岐があり、住み分けがなされていました。「科学」(自然哲学)は「知」の領域として「大学」において担われ、工学で扱うような「技術」はむしろギルドなどの職人の人々によって、しっかりと為されていました。日本には、最初から「科学」と「技術」の峻別は存在しませんでした。私たちも「科学技術」とひとかたまりで呼称し、理解することの方が多いのではないでしょうか。それは、まさに日本が、「知」とは何かという問いや、「神学」と「科学」の歴史的な親密性という文脈を抜きに近代化に踏み出したからにほかなりません。なぜ「神学」ぬき、「工学」ありの学校を西欧では「大学」と呼ばないのかを理解できなかったのです。
ニュートンまでの自然科学者たちが目指していたのは、実は神の存在証明でした。それ以降は、「神」を一切介在させずに、自然や宇宙の成立やシステムを合理的に完璧に説明できる、神学から完全に独立した科学の確立という方向性に向かったことは間違いありません。いわゆる「科学万能」の世界です。しかし、ビッグバン理論など、現代科学の一つの結論は、宇宙発生以降、生命発生以降のプロセスについては科学によって説明可能であるけれども、では、そもそもビッグバンがなぜ起こったのか、原初の生命がなぜ発生したのかについては「分からない」と言わざるを得ない、ということです。
現代科学によって、すべてを説明することはできません。そして、そこにおいて、神学が貢献すべき領域と責任は限りなく大きく、深いのです。
礼拝カレンダー9月号が完成しましたのでお知らせいたします。
8月は大型の台風の上陸や猛暑が重なりましたが9月は過ごしやすい気候になることを切に願っています。また、9月17日・18日は教区研修会(於:上田聖ミカエル及諸天使教会)が予定されています。
※9/12修正…9/17長野聖救主教会の8:00の聖餐式はありません。
6月の教区教役者レクイエムで覚える逝去教役者の中に、広瀬鋹子伝道師のお名前を見つけました。教区の資料では、1875年生まれ、1955年6月8日に、79歳で主のもとに召されたとあります。その他、「1902年に伝道師に認可、名古屋聖ヤコブ教会等でミス・トレントと共に働く」という記述がありますが、それ以上の情報はありませんでした。
ただ、ふと以前、カナダ、トロントにあるカナダ聖公会の資料室を調査した際に、カナダ聖公会の機関誌である『リヴィング・メッセージ』の中に、「Miss Trent and Mrs. Hirose」というタイトルがつけられた一枚の写真があったことを思い出しました。それは、1929年にカナダ、ヴァンクーバーで撮影されたもので、花束を持った広瀬伝道師の満面の笑みが輝く、忘れ難い一枚でした。さらに調べると、広瀬伝道師はトレント先生と共に、1929年6月から10月にかけてカナダへの修養の旅に出られていたこと、また帰国後に教区の各教会を訪問し、カナダでの経験を報告されていたことを伝えるトレント先生の手記を発見したのです。松本、新潟、長岡、稲荷山、長野の各地で熱情をもって、貴重な経験を語られる広瀬先生の姿が生き生きと描かれています。中でも、岡谷での報告会の記事には胸を揺さぶられました。
「岡谷には世界最大級のシルク工場があり、3、4万人の若い女性たちが働いています。H.H.コーリー司祭と夫人がこの地を宣教の拠点とし、彼女らのために教会(セント・バルナバス)を建てたのは、この地が必要とすることに応えたからです。夕方の集まりには約40人の工女たちが集まってきました。晩祷の後、広瀬さんは彼女たちに、彼女の幼い頃に経験した困難と、その後いかにしてキリストに召されたか、そして、『救い主のもとに来なさい』と愛情深く訴えたのでした。彼女たちはどれほど心を動かされたことでしょう!」
93年も前の中部教区には、船で海を渡って海外の地で豊かな経験をし、その後、中部教区のそれぞれの地にある者たちに熱い思いで証をし、主の救いを宣べ伝えていた女性の宣教者が確かにいたことを、私たちも覚え、そして倣いたいのです。
暑い暑い夏が来ました!皆さまお元気でお過ごしでしょうか。
礼拝カレンダー8月号も完成しましたのでお知らせいたします。
教区報「ともしび」の発送に合わせて少し早めの発行に変更いたしましたので、ともしびと一緒に各教会へも到着する予定です。
※7/27修正・・・8/6の松本聖十字