オルガニスト研修会のお知らせ

礼拝音楽部からオルガニスト研修会のお知らせです。

教区のオルガニスト研修会が、前回の愛岐伝道区に続き、12月16日(土)稲荷山諸聖徒教会を会場に行われます。
添付チラシをご覧いただき、対象の方にご案内いただけますようお願い致します。
(殊に新潟、長野伝道区。各教会へは中部教区センターよりFAXでお知らせ済み)

課題聖歌は、申込みの際にどの曲を弾かれるか希望を伺います。
(シーズンですのでクリスマスの時期の曲となっています)
また、聴講のみの参加も大歓迎とのことです。

今こそ〈裸足の宣教〉を

 9月17日(日)、18日(月・休)の2日間、上田聖ミカエル及諸天使教会を会場にして、中部教区研修会が開催されました。コロナ禍と昨年の台風による延期もあり、実に4年ぶりの対面での教区研修会となりました。私が教区主教に就任してから初めて、信徒、教役者が一同に会しての研修会でもあり、私自身、本当に励まされ、力を与えられた時でした。
 昨年の教区研修会で予定していた、私の「ランベス会議報告」もようやくさせていただくことができました。初日夜の教会ごとのご挨拶も非常に盛り上がり、対面での顔と顔を合わせることの重要性を確信した次第です。
 2日目には、丁胤植司祭、相原太郎司祭、大和玲子司祭、土井宏純司祭が、それぞれ明快なプレゼンテーションをしてくれました。教区が置かれる厳しい現実を前にして、茫然とせざるを得ませんが、しかしながら、私は今回の教区研修会で、私たちの中部教区には間違いなく夢も希望も可能性も満ち溢れているということを確信しました。
 今回のキーワードは「裸足の宣教」でした。この言葉は、2009年に日本聖公会宣教150周年記念聖餐式説教でローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教が語られたものです。「宣教とは、地面の石くれによって、私たちの現実によって、傷つくこと、私たちの足の皮で直に地面を踏むことをも、進んで引き受けるということなのです。キリストの御足は、人間の歩みから生ずる妨げによって汚され傷つけられ、そして最後に拒絶という釘によって傷つけられるのです」(ウィリアムズ大主教)
 「今こそ原点に立ち返り裸足の宣教をしよう!裸足とは貧さを示す〈しるし〉。旅の終わりには必ずや足を洗ってくれる誰かがおられるのだ」
 これこそが、今回の教区研修会で私たちが共に確かめたことなのです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書第14章27節)

 この度、保育士の資格とともに、幼稚園教諭1種免許状をいただくことになりました。これは、昨年、愛知県豊田市にある幼稚園の園長先生をはじめ教職員の皆様のご理解とご指導のもと、保育の仕事をすることのできた賜物です。神様の恵みに感謝するとともに、子どもたちを含め幼稚園の皆様のやさしさに感謝いたします。この経験を活かしまして、いま、新潟市にある公立の病院で入院中の子どもたちの保育のボランティアをしています。しかし、公立ですのでキリスト教の話は一切できませんから、今までとは全く違った環境です。それでも、お母さん、おばあちゃん、子どもから、将来の不安というか、そういうことを「聴く」機会もあり、寄り添うことしかできませんが、言葉ではなく「体」で、「聴く」という態度で、神様からいただいたミッションを果たすということができればと思っています。
 イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という御言葉を、湖の上を歩くイエス様を見て驚く弟子たちに向かって話されました。「イエス様が湖の上を歩く」とはどういう意味があるのでしょうか。私はこれは比喩だと思っています。五千人への食事と同じようにです。
エミール・ブルンナーという神学者はこう言っています。イエス様の復活について、「彼らは嵐の湖で沈みかけているように見える人間になぞらえられる。実際はしかし彼らは、沈むことの出来る湖にいるのでは全然なく、溺れることのない浅い湖にいる、ただ、彼らはそれを知らないだけである」。どうでしょうか。イエス様が十字架にかかって死にそして復活しすべての罪ある人びとに聖霊をお与え下さったという出来事によって、
私たちの世界は、沈むと死んでしまう底の深い湖から、けっして溺れることのない浅い湖に変わったということを示しています。「イエス様が湖の上を歩く」とは、もうこの湖は浅いからおそれることはない、安心しなさいということを、身体をもって示しているのです。イエス様の十字架の死と復活によってこの世界が根本的に変わってしまったということ、イエス様のことを信じていようと信じていなかろうと関係なく、いま私たちが生きているこの世界は、浅い湖だということです。しかし、このことに気づいていない人々が多いのです。私も時々「ここは深い湖ではないか、舟が転覆したら、溺れて死んでしまうのではないか、結局、私は救われないのではないか」と不安と恐れを覚えてしまいます。しかし、本当に私たちすべての人は復活によって救われていますから、安心していいんです。怖れる必要はありません。
 これからもお祈りのうちに、イエス様からの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」の声を聴いていきたいとおもいます。そして、イエス様の復活の意味、この世の湖の底は、イエス様がその上を歩くほど浅い、だから、あなたは、いまここで、ありのままで救われているということを、イエス様のように言葉だけでなく、態度をとおしても、宣べ伝えていきたいと思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新潟聖パウロ教会牧師)


礼拝カレンダー2023年11月

秋の日は釣瓶落としとよく言ったものですが、
いつの間にか日が短くなり、帰宅する頃には辺りは真っ暗になってきました。
着々と季節は移ろいでいきます。
さて、11月号の礼拝カレンダーが完成しましたのでお知らせいたします。
11月は11年ぶりに日本聖公会宣教協議会が清里で開催されます関係で変更が多くなっていますが、ご確認よろしくお願いいたします。

※10/25修正…11/5のマタイ教会聖餐式は司式・後藤司祭、奨励・柳川信徒宣教者。

名古屋聖マルコ教会からのお知らせ

名古屋聖マルコ教会耐震工事完了感謝礼拝ご案内

主の御名を賛美します。
いよいよ名古屋聖マルコ教会礼拝堂耐震改修工事完了が近づいてきました。

最初は8月を目度としていましたが、過程の一つ一つを慎重に検討・進行し2023年10月末に工事が終わる予定です。工事の期間中、当教会の信徒一同は会館のホールで礼拝を守ってきましたが、11月5日(聖霊降臨後第23主日)からは聖堂で礼拝をお献げ出来るようになりました。それに関連して感謝礼拝や行事のご案内を下記のようにお知らせいたします。ご参列頂ければ幸いと思いです。

2023年11月5日(日、10:30)耐震工事完了感謝礼拝<礼拝後、愛餐会>

<歩こう!文化の道!>関連イベント
11月3日(金、文化の日、10:30~15:30)聖堂見学会
11月4日(土、13:00~15:00)ミニバザー
11月5日(日、聖霊降臨後第23主日)工事完了感謝礼拝
11月19日(日、聖霊降臨後第25主日)チャントで歌う音楽礼拝<礼拝後、茶話会>

礼拝堂の耐震改修工事の流れは、松美建設HPを通していつでもご覧いただけます。
https://www.mwh.co.jp/co_seko_voice/0a425d98fdac46a0b44846380489a026-328.html

なお、名古屋聖マルコ教会の耐震改修工事にあたり献金もお願いしております。
郵便振替 00820-4-58259 となります。
「名古屋聖マルコ教会耐震改修工事」と明記して献金いただきますと幸いに存じます。

軽井沢に関する記事

信濃毎日新聞2023年10月18日版に軽井沢に関する記事が掲載されました。
ハンセン病患者への支援を行った宣教師ハンナ・リデルとの関わりについてです。
よろしければごらんください。
偶然にも10月18日は中部教区成立記念日でした。
教区の色々な歴史がこれからも発掘されるよう願っています。

ハンセン病患者救済に奔走した宣教師の証し、軽井沢町で発見 「リデル」の名、刻まれた石造物|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト (shinmai.co.jp)

初めまして。川島創士さん

 私は今年の4月から、名古屋聖マルコ教会の牧師館に移り住んでいます。聖マルコ教会は現在、聖堂の耐震工事が行われていて、毎日のように建設会社のトラックが駐車場に停まって木材などの建築材料が搬入されたりしています。工事現場である聖堂内には埃をかぶったブルーシートがオルガンや長椅子などを覆っています。入口の鉄門には、「工事関連で危ないため通行の際に注意して欲しい」というようなメッセージの紙が貼られています。確かに落ち着いてない環境です。
 そのような状況ではありますが、初日から私の目に入ったことがありました。それは、教会に入るためには駐車場に面している鉄門を通らなければならないですが、その門は多くの部分で塗料がはがれて、真っ赤にさび付いていたことでした。さらにそこから教会の方をみると牧師館に上がる外付け階段も真っ赤になっていることがまる見えです。
 「先ずあれを綺麗にしなきゃ」と思いましたが私も実施できず5か月が経ってしまいました。その5か月間、毎日階段を昇ったり降りたり、鉄門を開けたり閉めたりしながら言葉と思いにだけとどまっている自分の情けなさが鏡のようにさび付いた鉄門にうつっていたことを感じました。
 耐震工事が終われば今よりはきっと多くの方々が出入りするようになるでしょうし、それを期待して塗料を塗って綺麗にすれば、誰かがきても入口のほうから歓迎される感じを受けることが出来るのではないかと思いました。
 この度、川島創士聖職候補生の教区実習を私が指導することになりました。初日の主日は後藤香織司祭のもとで名古屋聖マタイ教会での実習、そしてその翌日からは、NPO法人ルカ子ども発達支援ルーム「そらのとり」と柳城幼稚園、名古屋学生青年センター、最後の日は愛知聖ルカ教会での奨励実習という計画で日程を組みました。その間に、名古屋聖マルコ教会での勤務を2日間入れました。1日目は「草むしり」、2日目はこの機会にということで「塗装作業」を入れました。単純に労働だけで終わることではなく、信徒さんに声を掛けて一緒に草取りをしてから彼を囲んで昼食の交流会を持ちました。お弁当を買ってきて、簡単なことではあるけれど皆で一緒に野菜を洗ってサラダを作ったり、お湯を沸かしてスープを作ったりデザートを作ってはわいわい楽しい時間を過ごしました。
 「塗装」予定の日は雨が降ったため残念ながら実施は休止としました。個人的には5か月前から思っていたことで、川島さんがいる今がチャンスだと意味づけて鉄門と階段の塗装作業をしようと塗料や道具まで買っておいたけれども、5か月前からの思いは叶いませんでした。その代わりに、川島さんと一緒に信徒さんを訪ねて食事とお茶をしながらリアルな教会の話を聞く時間も持ちました。
 私個人としても、聖職候補生の実習指導をしたことは初めての経験で非常に意味ある時間でした。川島さんとも今回初めてお会いしたので、新しい人に出会って色々なことを一緒にしましたし、彼を囲んで信徒さんとも様々な話し合い・交流会が出来たことなどを通して、交わることの大事さを改めて感じることが出来ました。そして新しい色々なことが見え始めて、新しい動機付けとともに名古屋でのこの5か月間を振り返るきっかけにもなりました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(名古屋聖マルコ教会牧師)

「やさしいまなざし」

 『日本経済新聞』の文化面に「交遊抄」というコラムがあります。私は著名人でも何でもないのですが、お声をかけていただき、先日9月1日に、掲載されました。タイトルは「やさしいまなざし」。森美術館館長の片岡真実さんとのつながりを紹介しましたが、片岡真実さんのお父さんは、私たち中部教区の先達である菊田謙司祭です。以下に、「交遊抄」で書かせていただいた記事を紹介させていただきます。
 約250万の発行部数を誇る日経新聞という全国紙に、日本聖公会中部教区、そしてこの9月にちょうど逝去8周年を迎えた野村潔司祭の名も登場したことは、誠に嬉しいことでもありました。

********************


 森美術館館長の片岡真実さんは飲み友だちであり、同志でもある。その出会いは1980年代後半、私が京都大学工学部を卒業し、英国国教会の流れをくむ日本聖公会中部教区の名古屋学生センター主事として赴任したころに遡る。
 片岡さんの父は同教区の司祭を務める牧師だった。キリスト教と身近な環境で育った彼女とは、日雇い労働者への炊き出し、偏見や差別に苦しむ人々への支援を通じて会話をするようになった。
 その後、片岡さんは大学を卒業して本格的に美術の世界で活動し、私も神学の道に進んだこともあって交流は途絶えていた。片岡さんがキュレーター(学芸員)として海外で活躍する姿を知ったときなどは、うれしい気持ちになった。
 再会のきっかけは2015年、共通の恩師である野村潔司祭の葬送式でのこと。「野村先生は常に社会的に弱い立場にある人々に手を差しのべ一緒に行動した」という私の説教を聞き、深く心に響いたとメールを寄せてくれた。教会の果たす役割に悩んできた私が歩むべき道を確かめることができた言葉でもあった。
 縁あって今夏の森美術館での企画展で立教大生や教員が協力している。いまも人へのやさしいまなざしを忘れない片岡さんとの対話を大事にしていきたい。

(にしはら・れんた=立教大学総長)

礼拝カレンダー2023年10月

秋と言えどもまだまだ暑い日が続きますが、礼拝カレンダーは10月号が完成いたしました!
各地でイベントなども復活し、礼拝時間が変更となっている箇所がありますのでご注意ください。

※9/21修正…名古屋聖ヨハネ教会10/8の礼拝時間を修正しました。
※9/25修正…長野聖救主は朝の礼拝休止。10/22(日)オープンハウスがあります。

犬と平和

 3年前、娘の中学入学を機に、我が家に1匹の犬が加わりました。
 近所のペットショップで、ある犬が「特売」になっていました。あとで分かったことですが、本当に子犬だった時期に病気をして売り場に出ることができず、いわば「売り時」を逃してしまったために、同じ犬種の犬の半額以下の値段がつけられていました。そんな人間の勝手な事情など思いもしない、けなげな姿に感情移入してしまい、この犬を我が家に迎えて、新しく家族の一員となりました。
 我が家の犬はペット犬で、いわゆる「生産性」はゼロです。朝夕の散歩に連れて行くなどの手間もかかりますし、犬を置いて旅行に行けないなどの不便もあります。でも、帰宅したら尻尾を振って迎えてくれたり、居間の椅子に座っていたら膝に飛び乗ってきたり、在宅勤務のデスクの隣で気持ちよさそうに寝ていたり。そんな姿が幸せを与えてくれます。
 6月23日の沖縄慰霊の日、追悼式の会場となった平和祈念公園には朝から多くのテレビカメラが入っていましたが、ニュースを伝えるレポーターの背後で、犬を散歩させている人々の姿が印象的でした。多くの人々が犠牲となったまさにその場所を、犬がのんびりと歩いている景色を見て、これこそが平和の姿なのではないかと思いました。イエス様の「空の鳥を見なさい」という言葉が、犬を家族として迎えて以来、「平和を守りなさい」という命令に聞こえてならないのです。
 第二次世界大戦中には、ペットである犬も供出の対象となりました。食糧不足で、軍用犬以外の役に立たない犬は処分してしまえという主張があったほか、毛皮を軍で利用するという目的もあったようです。また、空襲で焼け出された飼い犬が野良化し、狂犬病が流行することを恐れて、当局が犬を強制的に供出させて殺していきました。家族同然だった犬たちとの別れを強いられた人々、特に子どもたちの悲しみを思うと、こんなことを二度とさせてはならないと思うのです。
 戦争の中では、最も弱い、戦争の役に立たないものが、不要であると切り捨てられていきます。多くの犬たちはその犠牲となりました。そして、犬たちに留まらず、かけがえのない多くの人々の命が失われました。出かけていった家族が戦火に倒れ、帰ってこなかったという大きな悲しみを抱く人が、決して現れてはならないと強く思います。
 ウクライナでの戦争は、現代でもこんな悲しみが未だ続いていることを、私たちに突きつけています。我が家の犬の平和な姿を見るにつけ、空の鳥の小さい命をも大切にされたイエス様の思いに今こそ心を合わせ、この平和から遠いところにいる人々のことを決して忘れないように、そんな決意を新たにさせられるのです。
※アジア歴史資料センター「戦争にペットまで動員されたってホント?」
https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa24.html より

司祭 ダビデ 市原信太郎
(松本聖十字教会管理牧師〈東京教区出向〉)