私は、 病院に勤めさせて頂いて、 なおさら強く思うことですが、 聖奠的諸式である 「塗油」 の式の恵みの大きさを思います。
以前は 「抹油 (終油)」 と言い 「葬りの備え」 の強調点があった為、 今でも死を迎える前の祈りとのイメージが信徒・教役者の中に残っており、 積極的にこの式をしない風潮があるように感じるのは、 私だけの誤解でしょうか。
私たちは、 大きな病気にかかり、 その結果 「ことば」 を失ったり、 「認知症」 などの病気故に会話が困難になったり、 あるいは 「死」 を迎える前の重篤な状態の折りに、 話が出来るにしても出来ないにしても、 たいてい不安と孤独を強く感じるということがあります。
そのような折りに、 タイミングよく 「塗油」 の祈りをして、 神さまの癒しのみ手にゆだねることが出来るというのは、 何と素晴らしい大きな霊の恵みでありましょう。
「あなたがたの中に病んでいる者があるか。 その人は、 教会の長老たちを招き、 主のみ名によって、 オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。 信仰による祈りは、 病んでいる人を救い、 そして、 主はその人を立ち上がらせてくださる。 かつ、 その人が罪を犯していたなら、 それも赦される。」
この聖ヤコブの手紙のみことばを聞いて、 祈祷書の指示どおり 「塗油」 の式を行う時、 私は 「癒しのみわざ」 をなさっていらっしゃるイエスさまのお働きのお手伝いをさせて頂いているような感謝とよろこびを覚えます。
私は新生病院に勤めさせて頂いて、 色々学び体験することが出来ましたが、 とても大きな発見がひとつあります。 それは 「病院は、 病気と闘い治す所」 とずーっと思っていましたが、 そうではない、 と知ったことです。
著名なドクター日野原重明氏が 「医療の目的は何か」 という問いに対して、 1500年代にアンブロワーズ・パレというフランスの医師が残したことばを用いて応答しています。 それは 『医療は、 ときに治すことが出来るが、 和めることはしばしば出来る。 でも、 いつでも出来ることは、 慰めを与えることなんだ』 と、 今までの病気を治すことに全力投球してきたことの反省を促し、 治すことより先にやることがある。 病気については16世紀も今も変わらない、 と語っておられます。
新生病院も、 病にある方々が 「いのちの尊厳を意識され、 その人らしく生きることを願っておられる」 時、 その生き方を支え、 お手伝いをさせて頂くことをモットーとしています。
この視点は、 私にとって大切な気づきでした。 そうであるならば、 私たちはイエスさまの様々なお働きの中での 病気癒し のみわざに、 さらにもっと注目すべきであると考えるようになりました。 そして、 そのような流れで 「塗油」 の式の聖奠的恵みを強く意識し始めたのでした。
カトリック教会では、 「世界病者の日」 という日があり、 その日に全てのカトリック教会が、 特に病者の方々やその家族を招き、 ミサの中で関連聖書が読まれ、 「塗油」 の式が行われます。 私たちの教会 (聖公会) でも、 同様のことが出来るといいがなあと思います。
司祭 パウロ 松本 正俊
(新生病院チャプレン)