『クリスマス・カロル 』

幼年期、上田の聖ミカエル保育園で過ごしました。12月に入ると、毎年、チャールズ・ディケンズの「クリスマス・カロル」(クリスマス賛歌)を温もりのある薪ストーブのそばで、林(旧姓花里)梅子先生から読み聞かされました。はな垂れ小僧、ほっぺの赤い女の子達は瞳を輝かし聞き入りました。先生の熱い思いが充分、伝わってきました。

ディケンズのこの作品は、クリスマス・イブからクリスマスにかけての2日間を舞台にしています。主人公は、シェイクスピアの「ベニスの商人」の金貸しシャイロックのような人物で、ケチで金を貯めることしか考えないスクルージと言う老人です。

クリスマス・イブ、スクルージのたった一人の甥が、ケチで結婚もせず、一人で暮らしている伯父を思いクリスマスの夕食にと誘いに来ます。「クリスマスおめでとう、伯父さん」と明るく元気な声がしました。スクルージは言った。「何がクリスマスおめでとうだ。何の権利があってお前がめでたがるのかってことよ。貧乏人のくせに」。スクルージにとっては金があること以外にめでたいことはなく、クリスマスなぞは無関係なのです。そして、「お前にゃいいクリスマスだろうよ。今までにだって相当役にたったことなんだろうからな」と。スクルージと甥とのこの二、三のやりとりの後にディケンズは甥にこう言わせています。「僕はクリスマスがめぐってくるごとに―その名前といわれのありがたさは別としても、……もっとも、それを別にして考えられるかどうかはわからないけれど―とにかくクリスマスはめでたいと思うんですよ。親切な気持ちになって人を赦してやり、情け深くなる楽しい時節ですよ。ですからね、伯父さん、僕はクリスマスで金貨や銀貨の1枚だって儲けたわけじゃありませんが、やっぱり僕のためにはクリスマスは功徳があったと思いますし、これから後も功徳はあると思いますね。そこで僕は神様のお恵みがクリスマスの上に絶えないようにと言いますよ」。その後、スクルージは独りぼっちの冷たい家に帰り、その晩、夢を見ます。その夢の中に4人の幽霊が登場し、3人の幽霊がスクルージを過去、現在、未来へと連れて行きます。第1の夢は、若い時代のこと、彼の過去のクリスマス、そして忘れていた自分の過去の思い出を、反省と後悔と共に夢見ます。次いで楽しい笑いに満ちた現在のクリスマス。そして第3の夢、未来のクリスマスは、スクルージの死と、一切を失う自分の姿を見て彼は恐怖に戦きます。一夜明けて、夢であったことを知ったスクルージは、喜びと感謝で一杯でした。彼は一夜にして変わりました。「私は心からクリスマスを尊び、一年中その気持ちで過ごすようにいたすつもりです。私は過去、現在、未来の教えの中に生きます。この3人の幽霊様がたは、私の心の中で私をはげまして下さいます」と必死に誓い祈ります。そして、クリスマスの日、皆に心からのクリスマスの挨拶をし、喜びをもって善意を示します。

一晩で人が変わることはあり得るでしょうか。スクルージの変化、それは、人は心の深みに達する経験によって大きく変わリ得るものです。クリスマス、それはあの甥が言ったように、「親切な気持ちになって人を赦してやり、情け深くなる楽しい時節ですよ」です。自分たちより困っている人達のことを親身に考えようとする時、普段は忙しくて他人のことなどかまっていられなくても、365日の中の1日、このクリスマスの時だけでも、他の人のことを思おうとする日なのです。

司祭 テモテ 島田 公博

「宣教協議会を終えて…新たな始まり」

去る9月14日~17日、浜松で「2012年日本聖公会宣教協議会」が開催されました。既に”ともしび”10月号に協議会の概要が掲載されておりますのでご覧いただいたことと思います。

この協議会は各教区の主教や常置委員、執行機関の長や女性、青年をはじめとして万遍なく参加者が集いました。大韓聖公会からの参加もありました。そういう意味では日本聖公会全体を網羅した協議会であったと言っていいでしょう。そして、この度、協議会からの提言である「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」が出されました。管区事務所から皆様のもとに届いていることと思います。植松誠首座主教のお願い文も添えられています。

この提言は、二つの講演、東日本大震災の現場及び支援活動からの報告、そしてそれらを受けて話し合われた各グループ討議を最終的にまとめたもので、これから十年の日本聖公会の宣教・牧会の方向を指し示すものです。

この提言を受け、各教区・教会・個人・関連施設など、それぞれの場でそれぞれの仕方で宣教・牧会が更に推進されることが期待されています。中部教区でもこの提言を受け、各教会と連携しつつ、主教書簡などともすり合わせながら教区としての宣教・牧会の方向を改めて定め直していきたいと思います。

そのためにも皆様には、まずじっくりとこの提言をお読みいただき、教区に、また自分の教会に、そして自分の周りにどのようにこの提言を生かしていけるのかをイメージしていただきたいと思います。宣教・牧会の担い手はわたしたち、信徒・教役者”一人一人”です。この”わたし”が宣教者・牧会者であることを覚え、教区のこれからの十年を見据えながら前に進みたいと願っています。

「地の塩として」

今回、100周年のためにおいでくださったヒルツ大主教とフィーリー大執事は、共に日本と日本の教会は全くの初めてということで、すべてが初体験であり、驚きの連続だったようです。わたしは幸いなことにかなりの時間をお二人と過ごすことができました。お二人は大変きさくで、時々、自分がカナダ聖公会の”首座主教”と一緒にいるのだということを忘れるくらいでした。皆様に申し訳ないくらい、大変貴重で素晴しい時間でした。

感謝礼拝での説教、また、祝会でのスピーチを通してもそうでしたが、ヒルツ大主教はわたしたちを励まし、力づけてくださいました。わたしは共に時間を過ごさせていただいたことにより、そのような公式のスピーチ以外でも大主教と大執事の日本の教会に対する思いに接することができました。

とにかく、お二人は日本の教会の信仰者の誠実な姿に驚きと感銘を受けておられました。震災被災地訪問で、また、教区内の各教会・施設訪問で多くの人々に出会い、その信仰の姿に心を動かされたのです。建物も素晴しいが、それ以上に人々に出会い、その信仰に触れたことが大きな収穫であったと言っておられました。日本のクリスチャンが少数でありながら一生懸命に信仰している姿をしっかりと受けとめてくださったのです。今回の訪問は自分たちの魂にとって大きな養いになったとまで言っておられました。大変嬉しいことです。

ヒルツ大主教は日本のクリスチャンは「地の塩」であると言っておられました。「地の塩」とは少しこそばゆい思いがしますが、しかし、「地の塩」であることを自覚し、地の塩としての役割を果たしていくことこそが、教会のあるべき姿であることを改めて教えられました。

「200年に向かって」

去る10月8日の教区成立100周年記念感謝礼拝をたくさんの皆様と共にお捧げすることができまして本当に感謝でした。ヒルツ大主教の説教も大変力強いもので、わたしたち中部教区を大いに励まし、力づけてくださいました。改めて感謝いたします。次号のともしびに説教が掲載されることと思いますが、礼拝に参加できなかった皆様にも是非読んでいただきたいと思います。

わたしたちは幸運です。なぜならば100年に一度の礼拝をお捧げすることができたからです。”何だ、そんなことか”と思われるかもしれませんが、100年目に当たるこの年に信仰者として生かされているということは大変意味のあることです。たまたまそうなのではなく、そこに神様のご意思があると受けとめなければなりません。

わたしたちはなぜ丁度この100年目にここにいるのでしょうか。それはわたしたちがこの中部教区を次の100年に向けて整えて送っていく使命を神様からいただいているからだとわたしは考えます。わたしたちの先輩の信仰者たちが過去100年の中部教区を作ってくださいました。今度はわたしたちが次の100年を作り上げるのです。その基盤を作るのです。それが100年と200年の間に立っているわたしたちの務めなのです。

イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われます。教役者だけが働き手ではありません。わたしたち一人ひとりが働き手であり、宣教の担い手なのです。もっともっとそのことを自覚して101年目のスタートを切りましょう。

200周年の時、100周年の時あの人たちががんばったから今の中部教区があるのだと言ってもらえたらどんなにかすばらしいことでしょう。

『主の平和』 

「平和」本当によく耳にし、また今まさに必要とされる言葉です。

新約聖書で、平和はイエス・キリストの姿であり、イエスは平和の盾であると語られてきました。

マタイによる福音書10章34~36節では、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」と述べられています。

わたしたちが聖書の信仰に従うなら、これが平和だと思えるのでしょうか? このような平和が、アメリカ、イギリス、フィリピンなどのキリスト教国によって支持されてきたので、世界中に戦争があるのでしょうか?

正しい理解のために、10章全体をみていく必要があります。まず、イエスの平和のメッセージは、その宣教活動に示されています。イエスはガリラヤの人々が、平和に過ごし、愛しあい、ゆるしあい、神の国を述べ伝えるようにと、癒しの宣教活動をされました。

10章1~33節に、このことを理解する鍵があります。

イエスは、その眼差しが「イスラエルの家の失われた羊」(6節)まで届くように、12人の弟子たちを派遣されました。イスラエルの家の失われた羊とは、当時の神殿の指導者たちを筆頭に、ユダヤの人々が神への信頼を失っていることを示しています。民衆の中の神の人、イエスを理解できずに、かたくなになっていたのです。ですから、イエスは弟子たちに、人々の中で敵に出会うであろうと警告するのです。

さらに、弟子たちの平和を携えた訪問をも、拒む人があるだろうと述べられ(12~14節)、迫害による苦難も示されます。それ故、イスラエルの民は分裂を余儀なくされるのです。

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(32~33節)

この32~33節に続き、34~36節の家族の分裂が語られます。この言葉は、当時のユダヤ人に向けて語られているのです。

しかし、ユダヤ人でないからといって、分裂の対象でないとは言えません。わたしたちも対象なのです。なぜなら、キリストによって、異邦人すなわち、わたしたちもその福音を受けるものとして認められたからです。

わたしたちは、キリストを信じる神の民ですが、家族の間で、友人、親族、そして教会の中でさえ、分裂を経験するのです。分裂は不調和をもたらします。しかし、わたしたちが真理に目覚めれば、平和を取り戻すことができます。

ヨハネによる福音書14章6節で、主イエスは語られます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエスに従い、イエスを信じることが、世界に平和をもたらす道です。主イエスは、人々に平和、愛、癒し、奉仕、ゆるしをもたらすために、わたしたちを派遣されるのです。わたしたちが携えた平和を拒み、迫害する人もあるかも知れません。そうであっても、わたしたちは教会の業として、主イエス・キリストの宣教の業を、絶え間なく続けていくのです。

わたしたちの心に、思いに、力に、主イエス・キリストの平和がありますように。

執事 山下グレン
(可児伝道所)

「東日本大震災とアンパンマン」

東日本大震災のあと、漫画のアンパンマンのテーマ曲が被災地の人々に元気を与えています。「なんのためにうまれて なにをしていきるのかこたえられないなんて いやだ」というテーマ曲は漫画の主題歌としては少し難しいのではとも感じましたが、親しみやすいメロディーと考えさせる詩とがマッチして子どもにも大人にも元気を与えてくれているのだと思います。

そんなことを考えていましたら、先日、N司祭から「(アンパンマンの作者の)やなせたかしは聖公会ですよ」と教えられました。びっくりしましたが、アンパンマンには何かキリスト教的なメッセージが含まれているような気もしていましたので、胸につかえていたものが取れたような気がしました。

先日の新聞に東日本大震災関連でやなせたかしさんの話が載っていました。アンパンマンはもともと大人向けの物語として書かれ、その後子ども向けの絵本になったそうです。当初、子どもには難解すぎると言われたり、アンパンマンが自分の顔を人に食べさせるのは残酷だという抗議もあったようです。しかし、子どもたちはそういう大人の心配をよそにアンパンマンのファンになっていったのでした。

アンパンマンはイエス様を模しているとも言われます。確かに、自分の体の一部を食べさせるということは、イエス様の「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む」(ヨハネ6・56)というお言葉に通じるものがあります。自分の顔を食べさせてしまったアンパンマンはふらふらになるのですが、『ジャムおじさん』が新しい顔を作ってくれて復活します。ジャムおじさんはさしずめ神様といったところでしょうか。アンパンマンがこれからも被災者の皆さんに力を与えてくれますように。

『神さまの必要』

47歳のときにそれまでのサラリーマン生活に終止符を打ち、牧師への道を歩み始めました。3年間、ウイリアムス神学館で学びましたが、勉強したからといって急に信仰深くなれるわけではありません。神学生としての3年間の生活の中で与えられたことは、自分の頑張りには限界があるという気付きです。もっとも限界まで頑張ったかどうかは疑問ですが。傍目には同じように頑張っているように見えたとしても、その頑張りが、神さまにゆだねた頑張りなのか神不在の頑張りなのかで、大きく違います。自分中心、自分を過信しての頑張りは疲れます。次第に息切れしてきて、もうだめだと倒れかけたときに、神さまからの静かな声に気付かされます。あれから14年…。

牧師は神さまから特別な恵みをいただいている、と思っています。それは何かというと、苦しみを伴った恵みであり、イエスさまの御苦しみに思いを馳せさせる恵みです。イエスさまは福音を告げ知らせるために、天の父によって地上の世界に遣わされました。イエスさまの福音とは、神はすべての人を愛しておられる、ということでした。たとえ律法(に付随する)戒律が守れなくても、「義人」でなくても、すべての人を神は必要としておられる、愛する対象として。御子イエスさまのまなざし、イエスさまのより多くの関心は「罪人」「病人」に向けられました。苦しみ悩む人びとに、その人間性の回復を告げられました。天の父の御心を地上に於いて具体的に表された御子イエスさまの言動は、当時の宗教的政治的指導者であるファリサイ派の人びと、律法学者、最高法院の議員たちにとっては許し難い、反社会的行為と受け取られました。

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3・6)

実にイエスさまの地上の生涯は、ご自分に向けられた激しい憎しみとの戦いでもありました。誤った律法主義、人間が功績を積むことによって「義人」とされるという考え方は、「罪人」を生み出します。それは「赦し」とは正反対の「裁き」です。赦しは人を生かし、裁きは人を殺します。イエスさまは繰り返し人を裁くなと語り、ひたすら「罪人」を赦されました。「赦し」の行き着くところが十字架であり、愛の勝利である復活でありました。

もう一つ牧師の特別な恵みに「説教」があります。何年経験を積んでも説教を作るのはやはり大変です。苦しみ悩み求め続けて日曜日の早朝、ようやくできあがることがしばしばです。しかも努力と結果は結び付きません。でもこの説教を作るプロセスをとおして大きな恵みを与えられています。聖書熟読によって福音と向き合わされ、イエスさまへの憧れはますます強くなってきました。信仰の道は終わりがありません。命召されるまで迷って行ったり来たりのわたしでしょう。さて、神さまからの静かな声は
「大丈夫だよ、わたしはおまえを愛している。頑張っていようがいまいが、ありのままのおまえをわたしはとてもいとおしく思っている。だから力を抜いて、わたしのほうを向きなさい。わたしの愛を受け入れなさい。わたしにとって今のままのおまえが必要なのだ。」

司祭 イサク 伊藤 幸雄
(高田降臨教会/直江津聖上智教会牧師)

『痛みと喜び』 

3月下旬、「いっしょに歩こう!プロジェクト」のわかめ収穫ボランティアに参加するワークキャンプの引率者として、生徒4名と共に東北を訪れました。ところが、初日に宿舎で入浴中転倒して、歩くこともできなくなったため救急搬送され、骨折と診断されてそのまま入院することになりました。手術が必要ということでしたので、帰京しての治療を希望し、翌日様々な交渉の結果、何とか新幹線に車いすで乗り、東京に戻ってくることができました。

数日後、折損部を固定する手術を受け、その後さらに3週間ほどの入院生活を経て松葉杖での歩行が可能となり、ようやく退院しました。まだ全快というにはほど遠い状況ですが、とりあえず日常生活がおくれる程度には回復しました。

入院はもちろん骨折も初めてでしたので、いろいろと思うことは多くありましたが、特に入院生活と聖週・復活節が重なったことはわたしにとって大きな意味があり、主の受難を自らの身体を通して黙想「させられた」(半ば強制的に!)ことは恵みであったと思っています。

普通ならば、「なぜ風呂場で転んだだけでこんな大事になるのか」(医師もこんな大けがになったことを不思議がっていましたが、「運が悪かった」というのが結論のようです)と落ち込んだりしそうなものですが、幸か不幸か骨折の痛みはそんなことで悩む心の余裕を与えませんでした。骨折してから手術で患部を固定するまでは、とにかく何をしても激痛が走り、夜も一時間おきに起きるような状態で身体的にも肉体的にも疲弊しました。また、手術の準備として足の牽引をするようになってからは、寝返りはおろかベッドから降りることもできなくなり、排泄も看護師さんのお世話にならなければならなかったのは恥ずかしかったし、精神的にも辛くみじめな気持ちでした。始終襲ってくる痛みに加え、徹頭徹尾無力な自分の姿と向き合わされた一週間でした。

ヨーク大主教ジョン・センタムは、今年の聖金曜日に寄せて次のように言っておられます。「聖金曜日は、深みと向き合う日です。イエスは十字架の苦しみの中で叫びます。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?』その最期の時に、イエスは人間の苦しみの深さを極限まで知り、孤独の焼け付くような喪失感を知ったのです。…しかしイースターの物語の終わりは死ではなく、命であり、そのあらゆる豊かさに満ちあふれる命なのです。」

ベッドの上でわたしが味わった痛みや無力感は、わずかにではあっても確かに主イエスの十字架の端につながっていたのだと思います。「痛い」ということを骨の髄まで思い知らされた時でしたが、しかしその十字架の向こうには、復活の喜びがたたえられていることも確かに知ることができました。病院から車いすに乗って外出し、イースターの聖餐式に出席して教え子の洗礼式に立ち会うことのできた喜び!今年は本当に忘れられない大斎・復活節となりました。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(立教池袋中学校・高等学校チャプレン)

「新生病院…祈りの80年」

中部教区は今年教区成立100周年を迎えましたが、小布施の新生病院は今年の秋に創立80周年を迎えます。長野のウォーラー司祭をはじめとするカナダ聖公会宣教師たちの、日本の結核を何とかしたいという強い願いと祈りが実現し、小布施に新生療養所が開所したのは1932(昭和7)年9月のことでした。
当時の最先端の医療技術と設備を備えた療養所として、全国から多くの結核患者を迎え入れました。院長であるスタート先生やスタッフの献身的な働きは今日に至るまで語り継がれています。スタート先生の在任期間は戦前戦後合わせて10数年と、決して長くはありませんでしたが、「愛と祈り」の医師として多くの人々に大きな影響力を与えたのでした。
しかし、新生病院を支えてきたのはもちろんスタート先生だけではありません。戦中の病院存亡の危機には病院・教区の関係者たちが必死の思いで療養所を守りました。また、戦後しばらくして結核が終焉を迎えるようになってからは徐々に一般病院に移行していきましたが、カナダミッションからの援助停止、医師不足等、難題がたくさんありました。しかし、その都度、関係者が祈りつつ知恵を出し合い難局を乗り越えて来ました。
このように新生病院80年の歴史は祈りの歴史と言えます。病院に関わる人たちの『新生病院を何とかしなければ』、『新生病院を少しでも良い病院に』という強い思いや願いは『祈り』そのものです。そのような祈りがあるところには必ず神様の導きがあるのです。数々の困難を乗り越えて来た新生病院の歴史はそのことを証ししています。これからも新生病院はその『祈り』に支えられて90年、100年へと向かって行くのです。

「『狭山事件』から50年」

先日、管区主催の『新任人権研修』があり、管区の人権担当主教としてわたしも参加してきました。この3月に神学校での学びを終え、4月から教会に出て行かれる新任教役者の人権に関する研修です。
今年は「狭山事件」を中心に研修が行われました。2泊3日の研修でしたが、2日目は狭山に行き、事件の犯人とされている石川一雄さんと、お連れ合いの早智子さんのお話をお聞きし、合わせて事件現場を実際に歩いて事件の概要、経過などの研修をしました。
狭山事件は事件発生から来年で50年を迎えます。石川さんは1963年5月に逮捕され、一審では死刑判決、二審で無期懲役刑を受け服役しましたが、1994年に仮出獄し、現在は第三次再審請求を申し立てているところです。わたしも何度か狭山事件の研修会には参加しましたが、研修をすればするほど石川さんが冤罪であることの確信は強くなります。刑事事件や裁判に詳しくない人でも、今までに明らかにされている証拠や証言、事件現場やその周辺における状況を見れば、石川さんを犯人と断定することには全く無理があることが良く分かります。
にもかかわらず、なかなか再審開始には至りません。最近、やっと検察は裁判所の求めに応じて、まだ明らかにされていない証拠を開示し始めました。しかし、肝心な証拠はまだまだ開示されてはいないのです。開示されれば石川さんの無罪が一目瞭然になってしまうからです。『50年も経つのだから』という心情的なことではなく、隠されている証拠がすべて提示された上で客観的な裁判が求められているのです。「すべて刑事事件においては、被告人は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」(憲法37条)