『「ここにはおられない」マルコ16・6』 

イースターおめでとうございます。

もし、イエス様の生涯が十字架での死で終わり、復活がなかったとしたら、自分自身を含め、今日の世界はどのような世界になっていたでしょう。今、皆様が読んでいる「ともしび」はもちろん存在しなかったでしょうし、少し想像しただけでも、世界の歴史そのものが変容しているであろうと思われます。新約聖書そのものも存在もしないでしょうから、イエスという男の名前さえ、ローマ帝国の一地方植民地でしかないユダヤでのイエスという一介の大工の生涯などは誰も知る由もないことでしょう。当然教会もなく、キリスト教信仰もなく、今ある皆様との交わりも有り得なかったでしょう。「イースターおめでとうございます。」と御挨拶したものの、何がおめでとうなのかを自覚し、改めて心から挨拶を交わすことが出来、大きな力が湧き上がって来るのを感じることが出来れば、これこそ、復活の力のように思うのです。

聖書が語る復活は「復活は可能か」とか「復活された主イエスは、肉体か霊体か」「復活の意味するものは何か」とかではありません。それよりイエス様の復活に接した人々の経験を中心に、この復活された主によって人々はどのように変わったか、造り変えられていったのかに関心を寄せ、信仰が理論ではなく、生活であることを示そうとしています。しかし、「復活」というものは、聞けばすぐ判る、教会に行けば、簡単に信じることが出来る、というものではありません。イエス様の直弟子達でさえもが疑い迷った出来事です。復活が事実かどうかを確かめることも不可能なことです。大切なことは、復活されたイエス様に出会った弟子達、臆病者が勇敢に、無学の凡人が卓越した伝道者へと造り変えられたということなのです。

常識や経験が否と判断する社会に私達は生活しております。単にイエス様の言葉であるという理由で行動に移すことはなかなか困難なことです。そればかりか、私達の経験や知識や真剣な努力さえもが徒労になるような社会です。戦争や災害、事故が一切を無にしてしまうことを知っています。しかしイエス様を復活させられた神は、万物を従わせる力によって、私達の悲しむべき状況や神に敵する現実を変えて下さる、労苦が徒労に終わることがないという約束をイエス様の復活によって保証されたのだと思います。

経験や努力に行き詰まったとき、呟きや嘆くだけでなく、しばし手を止めて、岸に立たれる主の言葉を聴き、網をおろす者とされますよう祈りたいと思うのです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)