最近、年のせいか声の出が悪くなって困っています。加齢によって声帯も縮むとどこかに書いてあったような気がしますのでそのせいかもしれません。イースターには聖別祷の途中でおかしくなり往生しました。できるだけしっかりと声を出そうと心掛けている昨今です。
ですから、声が良く出ている方はうらやましく思います。しかし、あまり出すぎるということも時には困ることもあります。殊に、礼拝において一人だけ大きな声で唱えられますと、礼拝がその人に引きずられてしまうということがあり、礼拝の調和が少し乱れることがあります。聖歌も同じです。一人だけが大きな声で歌いますと、やはり礼拝の調和が乱れます。みんなが心を一つにして神様を礼拝するためにはやはり他の会衆と同じテンポや声の高さが求められるでしょう。
そのためには回りの声が聞けなければなりません。かつてある方から、聖歌を歌うときには回りの声を聞きながら歌いなさいと教えられたことがあります。自分が歌っているときに他の人の声も聞くということです。一生懸命すぎると他の声は聞こえません。回りの声が聞けるということは自分の声が図抜けていないということのバロメーターにもなるのです。お祈りも同じです。礼拝は大きな声でというのは間違いではありませんが、大きすぎると礼拝の妨げにもなるのです。少しくらいボリュームを下げても神様はちゃんと聞いてくださいます。
立教大学の名物チャプレンであった竹田鐵三神父さんの遺稿集の中に、「公同の祈りは聖歌で声に自信のあるのがひとりで大声で歌うと全体の気分を壊すようにお祈りも皆と一緒に平凡な声、平凡なアクセントで祈るのが上々」とあったのを思い出しました。
メッセージ
教区報「ともしび」に毎号掲載されている、巻頭メッセージをご覧ください。
『愛を愛でもって応える』
新幹線と在来線を乗り継いで、軽井沢から職場のある東京の西国分寺へと、通勤している。毎日同じ時間の電車に乗るので、相手の方は知らないと思うのだが、此方は勝手に、「おはよう」と心の中で声をかけている顔馴染みさんがいる。新幹線では、ランドセルを背負った小学生の姉妹、いつも本を読んでいる中学生の双子の姉妹、宿題をやっている小学生の男の子、在来線のホームにも、顔馴染みさんがいる。この顔馴染みさん達の姿が見えなくなると、在来線でも座ることが出来る。夏、冬、春休みの時季である。なので、大抵、在来線では立っていることが多く、また、本を読める程に空いてもいない。
しかし、嘆くことはなく、楽しみも見つけている。それは、車窓からの風景である。季節によって色んな表情を見せる風景は、目を楽しませてくれる。そして、車窓からも顔馴染みさんがいる。老人ホームと思しき窓から、外を眺めている車椅子に乗った白髪のご婦人である。今日も、お元気そうだな、膝掛けをする季節になったのだな、また、明日もお姿を見せて下さいと、勝手に話し掛けている。しかし夏前には、そのお姿が見えなくなり、ご自宅に戻られたのか、それとも体調を崩され、臥せっておられるのかと案ずる日々である。
考えてみると、当り前のことなのだが、同じ様な繰り返しの毎日ではあっても、同じ日は一日もなく、時間が過ぎ去って行くこと、同じ所には留まってはいないということを改めて感じたのである。しかし、楽しい時はこのままでいたい、この時間に留まっていたいと変化を望まない。悲しい時、辛い時は早く逃れたいと変化を願うのではないだろうか。
この願いというのは、人の力だけでは、如何することも出来ないことがある。この如何することも出来ないこと、これが苦しみなのかと思う。苦しみの中にある人と向き合い、関わっているのか、また、気付くことが出来ているのだろうか。
私は嘗て、救急救命の講義の中で、声を上げている患者と、静かにしている患者の何方が緊急を要するかという話を聞いたことがある。何れの患者も緊急性はあるのだが、より緊急性があるのか判断を迫られるのは、静かな患者の方である、というのである。つまり、声なき声に耳を傾け、その声を拾い上げることが出来るのかということである。
これは、今の社会においても同じではないだろうか。声を上げられない人、声を上げることさえ許されない人がいる、この人達に代わって、目を向け耳となり口となって働いているのか、自分自身が隣人となっているのか、マタイ伝22:39を読む度に、問われている気がする。
イエスは、私達の隣人として歩まれた生涯でした。そして、イエスは十字架を通した愛を私達に常に降り注いで下さっているのであり、そして、私達もその愛の内に働きなさいと語りかけても下さっている。作家C・S・ルイスは聖書にある愛は、一方的に与える愛であると本に書いているが、私自身、愛を愛でもって応えられる力を神様が与えて下さることを祈るばかりである。
執事 フランシス 江夏一彰
(軽井沢ショー記念礼拝堂勤務)
「保育園を考える」
このところ教区内の幼稚園・保育園では国の“子ども・子育て支援新制度”の施行が迫り、“施設型給付”制度に移行するのか、従来の“私学助成”に留まるのか、なかなか明確な方向が見い出せず苦慮しています。国の方向がしっかりと定まっていないことにも起因しているようです。いずれにしても、子どもたちにとって、園にとって最良の選択は何なのかを考えながら最終的な結論に向かうことと思われます。
その話し合いの中でふと気になったことがありました。それは保育園(所)に対する理解です。保育園は子どもを預かり、遊ばせ、食べさせ、お昼寝をさせて返すだけと思っている方がおられるようです。保育園は「保育所保育指針」に基づき、養護と教育を一体的に行い、保育に欠ける子どもの保育を行い、その健全な心身の発達を図り、家庭や地域の様々な社会資源とも連携を図りながら、保護者に対する支援や地域の子育て家庭に対する支援等を行う役割を担っている施設です。従いまして、保育園は子ども・家庭・地域の三者と大変深い関わりを持っているのです。なおかつ、女性の積極的な就労推進のための役割も果たしているのです。また、教会の宣教的な働きにも大きく関係していると言っていいでしょう。
保育園は子どもの大切な成長を幼い時から見守り、支援し、合わせて家庭や地域とも連携を取りつつ社会に奉仕する場なのです。0歳で入園した子どもがはいはいをし、言葉をしゃべり、歩きはじめ、友だちと人間関係を作りつつ、成長して卒園していく姿を見ることほど感動的なことはありません。保育園はただ子どもたちを遊ばせているだけではないのです。
かつて保育園に関わった者として一言書かせていただきました。
『東日本大震災を覚えて』
東日本大震災より3年6ヶ月以上になります。この間、余震や台風、津波と聞くたびに、「被災地は大丈夫だろうか」と案じてきました。
犠牲となられた2万人近い方々の魂の平安を祈り、今なお不安な生活を送っておられる被災地の方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今なお盛んに今回の地震、津波、原発事故について科学的現象としてとらえ、「なぜ起きたのか」と原因やメカニズムを究明し、検証しつつあります。やがて、その説明は完全なかたちで私たち国民の前に明らかにされると思います。
特に、原発事故は天災ではなく、「人災」と言われています。重大な過失に対して、「想定外」という言葉で責任をあいまいにしている関係者の姿勢に、いらだちを覚えました。
日本の科学技術は地震の予知ができるし、原子力の制御も可能であるかのように思っていた点があります。しかし今回の震災によって、原子力の利用についても警鐘を鳴らす役割を、唯一の被爆国である日本が皮肉にも担うことになりました。
私たちは、優れた科学技術をもちながら、人間の力や知恵の及ばないことがあることを受けとめ、心の姿勢を正していかなければならないと思います。
復興の要である政治に仕える人々や原発に責任を負う人々に目を向けても、この点が欠落しているように思います。その傲慢な姿勢を改めないかぎり、同じ過ちを繰り返すと思います。
旧約聖書にも天変地異や民族の興亡が記され、それは一見、厳しい神の裁きのように描かれています。しかし、突き詰めて読んでみると、神は民に対して愛と善しか試さず、預言者を遣わして民が悔いて立ち帰ることを求めておられます。日本の真の復興は大いなるお方の前に姿勢を正し、祈ることから始まると思います。
私たちは豊かな大自然の恩恵に浴してきました。その一方で自然災害に遭うたびに己の小さな存在を自覚し、姿勢を正し、野に出でて、畏れと祈りをもって天を見上げて祈る民でした。
人間が人間以上の大いなるお方の存在を仰ぐとき、心は澄み魂は清まっていきます。このような民族の霊性をもって素晴らしい国づくりをしてきたのが日本です。被災地の復興は停滞を許されません。しかし、何よりも、私たち国民の一人ひとりの内の精神的土台、すなわち祈りの土台が据えられなければ、真の復興にはなっていかないと思います。
震災の報道を読んでいると、月日が経つにつれて「宗教」に触れる記事が多くなりました。「宗教の役割は何か。巨額の義援金を集めたり、大勢のボランティアを動員したりすることなのか。それもよいことだが、心痛む被災者に寄り添い、その悲しみ、痛みに耳を傾けることではないか」と。亡くなられた方々の魂の平安を祈り、遺族でもあり、被災者でもある方々の拭いがたい痛みを癒やすことです。
このたびの震災を振り返ると世界からも賞賛される日本人の美徳が発揮されました。それは魂の中に流れている自己犠牲の精神が現われたことです。私たちはこの尊い精神を受け継いで生きてゆきたいと思います。
一方では復興の指導者の欠如や、風評被害、被災地のガレキ受け入れ拒否等、利己的な面もあらわになり、重い課題を残しています。このようなことを含め、日本はもっと精神的に目覚めてゆかなければならないと思います。
私たちは、2万人にも及ぶ犠牲者の死を記憶し、被災地の痛みを心に刻み、これからも震災に向き合い続ける必要があります。そして、一人ひとりが復興の基となるものが何であるかを深め、応えてゆかなければなりません。
この精神的目覚めがなされる限り、今後、日本が大震災に見舞われても必ず真の復興を遂げると思います。また、そのことが災害で苦しむ世界の国々の希望となることを信じ、祈らずにはおられません。
司祭 テモテ 島田公博
(主教座聖堂付)
「喜んでささげる」
一昨年の教区会で「中部教区基金造成のための募金の件」が決議され、2013年4月から募金が開始されております。今年の6月末までに約1、500万円余りの献金が捧げられました。大変感謝です。募金委員の皆様にも各教会へのアピール等、御苦労いただいておりますこと感謝いたします。目標が1億円ですので皆様にはもう少しのご協力をいただかなければなりません。
募金の目標を改めて確認いたしますと、(1)教役者育成のため、(2)教区の新しい宣教活動のため(可児の働きも含めて)、(3)各教会の修改築等のための貸付金造成のため、となっています。改めて申し上げるまでもなく、いずれも現在教区にとって緊急の課題です。
そのような状況を考えますと、どうしても基金の造成は必要になってくるのです。教区としても宣教事業等によって資金の造成・確保を行っていますが、やはり信徒の皆様からの献げものは何といっても教会活動の基本となるものです。
募金項目の一つに「各信徒は一人ひとり主から受けたものを喜んで捧げられる額とする」とあります。この募金は強制でも割り当てでもありません。主から受けたものを喜んで主に捧げるという、献金本来の意義を表すものなのです。
パウロは献金について「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリント二9:7)と言っています。
喜んで与えるということは単に献金を捧げるということではなく、各自の信仰の表現でもあります。不承不承でもなく、強制されてでもなく、自分にできる範囲で喜んで捧げるということが神様に喜ばれることなのです。
引き続き皆様のご協力をお願い申し上げます。
『洗礼から陪餐へ』
洗礼から陪餐へ…洗礼の意義の再確認
去る5月27日から開催された日本聖公会第61(定期)総会において、「日本聖公会祈祷書一部改正の件」が決議(協賛)されました。改正の主たる文言は、「洗礼を受けた者は陪餐できる」です。現在の祈祷書では「堅信を受けた者は陪餐することができる」となっていますので、原則的に堅信を受けなければ陪餐できませんが、今回の決議により「洗礼によって陪餐できる」ということになります。
祈祷書の教会問答には、「キリストがすべての人の救いのために福音のうちに自ら定められた聖奠は何ですか」という問いがあり、答えは、「洗礼と聖餐です」とあります。つまり、すべての人の救いにとって必要な聖奠は「洗礼と聖餐」なのです。ですから、洗礼を受けた人が堅信を経ることなく陪餐できるということは自然なことといえます。
この改正のポイントは堅信の意義を後退させたということではなく、洗礼の意義の重要性を再確認したということです。わたしたちはだれでも洗礼によって神の子とされ、神の民に加えられ、イエス様の聖餐にあずかることができるのです。
堅信の必要性
では堅信は必要ないのでしょうか。全くそうではありません。堅信は改正の文言にもありますように、「聖霊により日々強められ、この世に遣わされる」ために必要な大切な聖奠的な式なのです。「洗礼さえ受けていれば堅信は必要ない」ということでは決してないのです。洗礼を受けたキリスト者はこの世に遣わされて、この世でキリスト者として生き、キリストを証し、宣教の業を行っていきます。そのためには聖霊による強めや促しが必要になってきます。その強めをいただくのが堅信式になるのです。ですから、受けても受けなくてもいいというものではなく、この世界でキリスト者として生きて行くために必要な式なのです。
わたしは「洗礼・陪餐・堅信」を一体のこととして理解する必要があると考えます。ですから、現在もそういう場合が多くありますが、洗礼と堅信が同時に行われ、そして陪餐という形が理想的とも言えるでしょう。もちろん、それが事実上不可能な場合もありますが、仮に、「洗礼→陪餐」の場合でも、洗礼の後、出来るだけ早い時期に堅信式が行われるべきであると考えます。
これからの方向
今回第1回目の決議(協賛)がなされましたが、祈祷書の改正は総会で2回の協賛が必要になります。次の総会までの2年間で様々な課題を解決しなければなりません。たとえば、現在受聖餐者の定義、統計表のこと、幼児の陪餐年齢について、幼児の時に洗礼を受け成人になっている人の陪餐はどうするのか、法規の改正、献金の問題、他教派からの人たちの場合、等々いろいろあります。
それらの課題を整理し、ある一定の方向付けをしてから実際には施行されることになります。主教会でもこの問題に対する教書やガイドラインが必要だと考えています。Q&Aも必要でしょう。この2年間で改正の意義と課題を周知徹底し、皆様にご理解をいただきながら施行へと向かうことになります。
主教 ペテロ 渋澤一郎
「一つの修女会の発展的解消」
日本聖公会第61(定期)総会が先日終わりました。37の決議がなされましたが、その中に「神愛修女会の今までの働きに感謝する件」という決議がありました。
日本には聖公会の修女会が2つありました。「ナザレ修女会」と「神愛修女会」です。その神愛修女会が昨年の11月10日の礼拝をもってその活動を終えたのです。修女さんの減少(お二人だけ)と高齢化のためです。いままでの活動に対して日本聖公会として感謝の意を表しました。とは言え、一つの修女会がなくなってしまったということは大変寂しいことですし、残念なことです。
神愛修女会は、戦後、聖ヨハネ修士会の木村兵三神父を中心に群馬県の榛名で誕生しました。当時、結核保養施設であった「榛名荘」(現在は立派な施設に変貌している。)での看護と、幼児教育を中心にして修道生活が行われました。
その後、南紀(和歌山県上富田町)に活動の場を移し、特別養護老人ホームを設立し社会福祉にも活動を広げました。老人ホームの設立に際して、県関係者からは、「あなたがたのような人が設立してくれたら老人たちは喜ぶでしょう」と勧められたとのこと。地元の人たちも「修女会だから」と言って協力を惜しまなかったそうです。その活動は現在も継続されております。
しかし、修女さんたちの減少と高齢化はいかんともしがたく、昨年、修女会自体の活動は停止せざるを得なくなったのでした。京都の主教さんは、修女会は解散したが「修女会だから」という精神はその地に残るのであり、「発展的解消」と理解したいと言っておられました。長い間のお祈りと働きに感謝します。いつの日かその精神が復活することを願いつつ…。
『成長の途上にある可児ミッション』
可児より平和の挨拶をお送りします。
可児ミッションの活動は発足以来、急速に拡大しています。2008年に中部教区第79(定期)教区会において、可児ミッションの設立が決議され、常駐スタッフが配置されました。そして、2013年には可児聖三一教会が誕生しました。その間、可児ミッションは可児市周辺地域の外国籍住民への支援を大切にし、2012年には可児ミッション「キンダークラス」を開園し、さらに今年に入ってから岐阜市の岐阜聖パウロ教会内に「きぼう教室」、美濃加茂市に「美濃加茂プレスクール」をオープンしました。これらすべてのセンターは、日本で暮らしながらも、地域の幼稚園や学校に通うことが困難な、外国にルーツを持つ子どもたちのための教育活動を行っています。限られた予算の中で、これらのプログラムをどれだけ維持できるかは、未知数です。
教育プログラム以外では、生活全般に関して様々な問題をかかえる在住フィリピン人の相談活動を実施しています。可児、美濃加茂、さらに岐阜県内の様々な地域に住み、困難な状況にある外国籍住民が相談にやってきます。この相談活動がなければ、可児ミッションがすべきことは何かを見出すことはできません。こうした教会の働きを通して、中部教区は地域のフィリピン人から信頼と支持を得ています。スタッフたちが、可児ミッションは今どういう存在であるべきかを検討してきたことが、こうした実りを生みました。神はその民を通して働かれ、その使命を行う人々を選び出すのです。
今や岐阜県内を広くカバーする可児ミッションの活動には、不安をかかえつつも喜びがあります。私たちのすぐ近くで暮らす外国籍住民を支えることを、今、神から強く促されているという心境です。レビ記19章33~34節はこう語ります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」。それゆえ、神の祝福の下、私たちは、教会の愛の奉仕によって実現する神の憐れみと愛、善き行いを携えて、岐阜地域における外国人と日本人に対する教会のミッションをさらに広げていきたいと願っています。
神の導きが私たちと共にありますように、お祈りください。
執事 山下グレン
(可児聖三一教会勤務)
「新館長と森巻耳先生」
「ともしび」5月号で紹介がありましたように、この4月から教区関連施設の責任者に新たに何人かの方々が就任されました。いろいろ御苦労もあるかと思いますがお働きの上に神様のお導きをお祈りいたします。
その中で、岐阜アソシア「視覚障害者生活情報センターぎふ」館長に山田智直さんが就任されました。山田さんはご本人も書いておられますが全盲の視覚障がい者です。
岐阜アソシアの前身である岐阜聖公会訓盲院の初代院長は森巻耳先生(伝道師)です。森先生は岐阜聖パウロ教会の信徒で、眼病のため失明されましたが、当時岐阜で伝道していたA・F・チャペル師と共に岐阜聖公会訓盲院を設立し、視覚障がい者の教育や生活の向上のために尽力されました。
森先生はご自分の目が見えなくなったのは「これ皆な神の聖旨なり、吾を盲人社会に用いて神の栄を表わさしむなり」と受けとめ、視覚障がい者の教育と福祉のために生涯を捧げられました。山田館長もその遺志を受け継ぎ、彼自身も書いておられるように視覚障がい者の方々の気持ちを共有し、その方々に寄り添った働きをしてくださることを信じています。
山田館長とはわたしが岐阜聖パウロ教会に赴任してからの関わりですので25年になります。実を言いますと、彼に出会い、彼の明るさと前向きさとバイタリティーにより、わたしの視覚障がい者に対する意識が変えられたのです。彼の言動から、目が見えないことは決してハンディではなく、ただ少し不自由なだけだということ、そして、その不自由さを取り除くことが晴眼者であるわたしたちの務めであり、それが共に生きるということなのだと教えられたのです。山田館長の活躍に期待します。
『愛の絆による復活』
東日本大震災の前日、2011年3月10日、私は大学時代からの大親友を亡くしました。彼は、突然の病に罹り、体調の異変を感じてから三日も経たないうちに、妻と幼い子ども二人を残して、この世を去りました。35歳の生涯でした。
その一週間後、まだまだ大震災の傷跡と混乱が色濃く残る東京で、彼の通夜の祈りと葬送式が行われました。彼のお母様と妹さんが熱心なクリスチャンであったこと、彼自身も大学時代、聖歌隊に属し、教会へ通っていた時期もあったこと、そして、大親友であった私が司祭であったこともあり、その葬送の儀はキリスト教式で行われることとなり、ご家族が、その一切を私に委ねてくださいました。
私自身、これまで多くの方々の葬送の儀に携わらせていただき、その儀式を通じて、徐々に故人の死を受け入れることができてきました。その意味で、私に限らず、多くの方々にとって、誰かの死を受け入れなければならない時、葬送の儀というものが非常に大きな意味を持ち、大きな節目になっていることに気づかされます。
しかし、大親友であった彼の死は、葬送の儀を終えた後でも、ましてや自分自身がその儀式を執り行った後でさえも受け入れられず、『何かの間違いだ』という思いが心の中に浮かんでは消え、消えては浮かび、『彼の死を受け入れなければならない』と苦悶しながらも、『彼の死を受け入れた自分』になる、ということに拒絶感や嫌悪感を抱き、葛藤している自分自身がいました。
彼の死から三年が経った今、私は彼の死を受け入れることができているのか、できていないのか、正直分かりません。
私はこの三年間、いつも同じ夢を見ます。彼と過ごした大学のキャンパス内にある庭のベンチに私が腰かけていると、遠くから亡くなったはずの彼が姿を現し、大学時代と同じく、当たり前のように私の隣に腰かける。私自身も、それを当たり前のように受け入れ、日常会話をするように、軽くこう言うのです。「あれ?死んだんじゃなかった?」すると、彼は「うん、死んだよ。」と、いつもと変わらない彼らしい語り口で答える。そして、彼は続けて、こう言うのです。「でも、ここにいる。それだけでいいじゃん。そうだろ?」私は夢の中でも、夢見心地になり、心から喜びを感じ、「そうだね!」と返す。
夢は、いつもここで終わります。目を覚まし、『やっぱり夢かぁ…』と心が締め付けられる悲しみを感じながら、ある二文字が心に浮かびます。…「復活」…。
この夢を見るようになってから、私の復活信仰は変わりました。今、私は自分が復活したいから、主イエスの復活を信じているのではありません。心から復活してほしいと願う、愛する存在がいるから、主イエスの復活を信じています。そして、私自身の復活は、いつか私がこの世を去った時、私のことを愛してくれている誰かが、必ず願い、祈ってくれる。このように、「自分自身の復活」を願い、信じるのではなく、「愛する人の復活」を願い、信じることによって、愛の絆のうちに全ての人々が復活する。これが、今の私の復活信仰です。
そう考えると、主イエスは一度も「私は復活したい」とは言われませんでした。主イエスが御自身の復活を語られる時、それは全て、「私は復活する」という、実現することを大前提とした言葉でした。なぜなら、主イエスには御自身と父なる神が愛し愛される絆の中にあり、その絆によって父なる神が御自身を復活させたいと心から願い、そうしないことなどあり得ないという確信があったからです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この父なる神の御言葉が、常に主イエスの心の中に響いていたに違いありません。
誰の心の中にも愛する存在があり、また、復活してほしくてたまらない愛する存在がいるはずです。その全ての人々にとって、愛の絆による復活が必要なのです。
司祭 ヨセフ 下原太介
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師・福島教会管理牧師・聖ミカエル保育園園長)