『成長の途上にある可児ミッション』 

可児より平和の挨拶をお送りします。
可児ミッションの活動は発足以来、急速に拡大しています。2008年に中部教区第79(定期)教区会において、可児ミッションの設立が決議され、常駐スタッフが配置されました。そして、2013年には可児聖三一教会が誕生しました。その間、可児ミッションは可児市周辺地域の外国籍住民への支援を大切にし、2012年には可児ミッション「キンダークラス」を開園し、さらに今年に入ってから岐阜市の岐阜聖パウロ教会内に「きぼう教室」、美濃加茂市に「美濃加茂プレスクール」をオープンしました。これらすべてのセンターは、日本で暮らしながらも、地域の幼稚園や学校に通うことが困難な、外国にルーツを持つ子どもたちのための教育活動を行っています。限られた予算の中で、これらのプログラムをどれだけ維持できるかは、未知数です。
教育プログラム以外では、生活全般に関して様々な問題をかかえる在住フィリピン人の相談活動を実施しています。可児、美濃加茂、さらに岐阜県内の様々な地域に住み、困難な状況にある外国籍住民が相談にやってきます。この相談活動がなければ、可児ミッションがすべきことは何かを見出すことはできません。こうした教会の働きを通して、中部教区は地域のフィリピン人から信頼と支持を得ています。スタッフたちが、可児ミッションは今どういう存在であるべきかを検討してきたことが、こうした実りを生みました。神はその民を通して働かれ、その使命を行う人々を選び出すのです。
今や岐阜県内を広くカバーする可児ミッションの活動には、不安をかかえつつも喜びがあります。私たちのすぐ近くで暮らす外国籍住民を支えることを、今、神から強く促されているという心境です。レビ記19章33~34節はこう語ります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」。それゆえ、神の祝福の下、私たちは、教会の愛の奉仕によって実現する神の憐れみと愛、善き行いを携えて、岐阜地域における外国人と日本人に対する教会のミッションをさらに広げていきたいと願っています。
神の導きが私たちと共にありますように、お祈りください。

執事 山下グレン
(可児聖三一教会勤務)

「新館長と森巻耳先生」

 「ともしび」5月号で紹介がありましたように、この4月から教区関連施設の責任者に新たに何人かの方々が就任されました。いろいろ御苦労もあるかと思いますがお働きの上に神様のお導きをお祈りいたします。
 その中で、岐阜アソシア「視覚障害者生活情報センターぎふ」館長に山田智直さんが就任されました。山田さんはご本人も書いておられますが全盲の視覚障がい者です。
 岐阜アソシアの前身である岐阜聖公会訓盲院の初代院長は森巻耳先生(伝道師)です。森先生は岐阜聖パウロ教会の信徒で、眼病のため失明されましたが、当時岐阜で伝道していたA・F・チャペル師と共に岐阜聖公会訓盲院を設立し、視覚障がい者の教育や生活の向上のために尽力されました。
 森先生はご自分の目が見えなくなったのは「これ皆な神の聖旨なり、吾を盲人社会に用いて神の栄を表わさしむなり」と受けとめ、視覚障がい者の教育と福祉のために生涯を捧げられました。山田館長もその遺志を受け継ぎ、彼自身も書いておられるように視覚障がい者の方々の気持ちを共有し、その方々に寄り添った働きをしてくださることを信じています。
 山田館長とはわたしが岐阜聖パウロ教会に赴任してからの関わりですので25年になります。実を言いますと、彼に出会い、彼の明るさと前向きさとバイタリティーにより、わたしの視覚障がい者に対する意識が変えられたのです。彼の言動から、目が見えないことは決してハンディではなく、ただ少し不自由なだけだということ、そして、その不自由さを取り除くことが晴眼者であるわたしたちの務めであり、それが共に生きるということなのだと教えられたのです。山田館長の活躍に期待します。

『愛の絆による復活』 

東日本大震災の前日、2011年3月10日、私は大学時代からの大親友を亡くしました。彼は、突然の病に罹り、体調の異変を感じてから三日も経たないうちに、妻と幼い子ども二人を残して、この世を去りました。35歳の生涯でした。
その一週間後、まだまだ大震災の傷跡と混乱が色濃く残る東京で、彼の通夜の祈りと葬送式が行われました。彼のお母様と妹さんが熱心なクリスチャンであったこと、彼自身も大学時代、聖歌隊に属し、教会へ通っていた時期もあったこと、そして、大親友であった私が司祭であったこともあり、その葬送の儀はキリスト教式で行われることとなり、ご家族が、その一切を私に委ねてくださいました。
私自身、これまで多くの方々の葬送の儀に携わらせていただき、その儀式を通じて、徐々に故人の死を受け入れることができてきました。その意味で、私に限らず、多くの方々にとって、誰かの死を受け入れなければならない時、葬送の儀というものが非常に大きな意味を持ち、大きな節目になっていることに気づかされます。
しかし、大親友であった彼の死は、葬送の儀を終えた後でも、ましてや自分自身がその儀式を執り行った後でさえも受け入れられず、『何かの間違いだ』という思いが心の中に浮かんでは消え、消えては浮かび、『彼の死を受け入れなければならない』と苦悶しながらも、『彼の死を受け入れた自分』になる、ということに拒絶感や嫌悪感を抱き、葛藤している自分自身がいました。
彼の死から三年が経った今、私は彼の死を受け入れることができているのか、できていないのか、正直分かりません。
私はこの三年間、いつも同じ夢を見ます。彼と過ごした大学のキャンパス内にある庭のベンチに私が腰かけていると、遠くから亡くなったはずの彼が姿を現し、大学時代と同じく、当たり前のように私の隣に腰かける。私自身も、それを当たり前のように受け入れ、日常会話をするように、軽くこう言うのです。「あれ?死んだんじゃなかった?」すると、彼は「うん、死んだよ。」と、いつもと変わらない彼らしい語り口で答える。そして、彼は続けて、こう言うのです。「でも、ここにいる。それだけでいいじゃん。そうだろ?」私は夢の中でも、夢見心地になり、心から喜びを感じ、「そうだね!」と返す。
夢は、いつもここで終わります。目を覚まし、『やっぱり夢かぁ…』と心が締め付けられる悲しみを感じながら、ある二文字が心に浮かびます。…「復活」…。
この夢を見るようになってから、私の復活信仰は変わりました。今、私は自分が復活したいから、主イエスの復活を信じているのではありません。心から復活してほしいと願う、愛する存在がいるから、主イエスの復活を信じています。そして、私自身の復活は、いつか私がこの世を去った時、私のことを愛してくれている誰かが、必ず願い、祈ってくれる。このように、「自分自身の復活」を願い、信じるのではなく、「愛する人の復活」を願い、信じることによって、愛の絆のうちに全ての人々が復活する。これが、今の私の復活信仰です。
そう考えると、主イエスは一度も「私は復活したい」とは言われませんでした。主イエスが御自身の復活を語られる時、それは全て、「私は復活する」という、実現することを大前提とした言葉でした。なぜなら、主イエスには御自身と父なる神が愛し愛される絆の中にあり、その絆によって父なる神が御自身を復活させたいと心から願い、そうしないことなどあり得ないという確信があったからです。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この父なる神の御言葉が、常に主イエスの心の中に響いていたに違いありません。
誰の心の中にも愛する存在があり、また、復活してほしくてたまらない愛する存在がいるはずです。その全ての人々にとって、愛の絆による復活が必要なのです。

司祭 ヨセフ 下原太介
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師・福島教会管理牧師・聖ミカエル保育園園長)

「平和と日本国憲法」

主イエス様のご復活をお喜び申し上げます。皆様の上にご復活の祝福とお恵みがありますようにお祈りいたします。
ヨハネ福音書によりますと、ご復活されたイエス様の、弟子たちへの第一声は、「あなたがたに平和があるように」(20・19)でした。また、マタイ福音書の山上の説教でイエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(5・9)と教えておられます。
イエス様の福音の中心的なメッセージの一つには間違いなく「平和」があります。イエス様が逮捕されそうになった時、一緒にいた者が剣(つるぎ)を抜き大祭司の手下に打ちかかりましたが、イエス様は、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26・52~54)と言われ、剣や軍隊によっては神様の救いが実現されないことを断言しておられます。それは同時に「平和」も武力によっては実現しないということでもあります。
わたしは現在、管区の「正義と平和委員会」の委員長を仰せつかっていますが、この委員会におりますと「平和」ということをいつも考えさせられます。  「20世紀は戦争の世紀」とよく言われますが、日本のことを考えて見ても明治維新の1868年から太平洋戦争敗戦の1945年までのわずか77年間に、「日清」「日露」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦(太平洋戦争)」と四つの戦争がありました。
しかし、1945年の敗戦から2014年の今日に至るまでの69年間、日本は戦争をしていません。その一番大きな要因は「日本国憲法」にあると言っていいでしょう。日本国憲法第9条は、「日本国民は、…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としています。そして、そのために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるのです。
改めて読み返してみますと何とも崇高な理念です。日本国民は戦争も、武力による威嚇や行使も「永久に」放棄するというのです。わたしはこの理念はまさに、イエス様の「剣をさやに納める」というお考えに通じると思うのです。
ところが、皆様もご承知のように憲法を「改正」しようとする動きが活発になっています。政権与党である自民党の改憲草案では「武力による威嚇や武力の行使は国際紛争を解決する手段としては用いない」となっていますが、「永久に放棄」するとはなっていませんし、「自衛権の発動を妨げるものではない」となっています。さらに、「国防軍を保持する」ことも明記されています。ですから、集団的自衛権の行使も含め、これは自衛権の発動ですよと言えば、「国防軍」が紛争解決のために出動することになるのです。日本が軍隊を持ち、それを行使する国になるということです。
しかも、その憲法「改正」をよりしやすくするために憲法96条を「改正」しようとしています。憲法改正のためには両院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票によって改正の手続きに入ります。しかし、自民党草案では両院の過半数の賛成で発議できるとなっておりその基準を引き下げているのです。ということは、政権与党が両院で過半数の議席を占めていると簡単に憲法が変えられるということになるのです。
現憲法の規定に基づき、なおかつ国民の多くの議論を経て憲法改正が行われることを否定するものではありませんが、拙速な方法で日本国の原理・原則である憲法が変えられることは許されることではないのです。
現日本国憲法は「平和」憲法です。この憲法を大切に守っていくことはキリスト者として平和を守るということなのです。5月3日の憲法記念日を迎えるにあたり、わたしたちはあらためて日本国憲法の尊さを認識し、平和を考えなければならないのです。

『神様のシナリオ』 

この冬は異常気象と言われるほど、雪の積もらない地域に積もったり、思ってもいなかった対応に迫られ、思いどおりに進まない復旧に、私たちの思いを超えた気象の変化の厳しさを感じ取ったことでしょう。
今年は3月5日の大斎始日(灰の水曜日)から日曜日を除く四十日間の大斎節を迎えています。古くは復活日に洗礼を受ける準備の期間として守られていましたが、今では主イエス様が荒野で四十日間祈りと断食の後、悪魔の誘惑にあわれ、神様のみ言葉でこの誘惑に打ち勝たれたことを覚え四十日間の大斎節が守られます。この荒野に登場する悪魔は何のために登場したのでしょう。聖書にはイエス様の「あなたの主を試してはならない、また主を拝み、ただ主に仕えよ」との言葉の中にその答えがあるように思います。悪魔のシナリオはイエス様を、神様が本物かどうか試し、神様を神様として礼拝し、神様の愛に応えて歩むことから背かせようとのシナリオを持って立ち向かいましたが、イエス様はそのような誘惑を退けられました。12弟子と呼ばれた最初の使徒たちも自分のシナリオを持ってイエス様とともに歩んだことでしょう。イスカリオテのシモンの子ユダは、イエス様こそ真のメシア、ローマに立ち向かいユダヤを救う救世主として持っていたシナリオが狂い、イエス様を裏切る道に踏み出してしまいます。12弟子を代表するペトロも、十字架にかけられようとするイエス様を「そんな人は知らない」と、自分のシナリオとは違う道を歩み出そうとされるイエス様を受け入れることができませんでした。けれどペトロをはじめ、お弟子さんたちはご復活の主イエス様に出会うことにより、はじめてイエス様が与えてくださる神様のシナリオである愛の道を歩み始めることができました。そしてその後の生涯は弱さや挫折や困難に遭いながら、神様の恵みに包まれ、自分のすべてをささげ、仕え、イエス様を証しする道を歩んでいます。
よくマラソンはシナリオのないドラマだといわれます。昨年の豊橋ハーフマラソンは、ちょうどご復活日と重なり、近所の駐車場がいっぱいで、聖餐式においでになれない信徒の方が何組もいましたが、今年は大丈夫なようです。マラソンに限らず、私たちの人生も自分のシナリオのないドラマです。またそれが人生でしょう。けれど、そこに自分のシナリオを持ち込んだ時、私たちは自分の思いのままに、自分に頼る道を歩み始めてしまい、私たちに命を与えてくださった神様のシナリオから外れた道を歩み始め、サタンのシナリオの道に行くことになるのでしょう。私たちの人生も様々な誘惑に出合い、主イエス様とともに歩む信仰の道から外れてしまいそうです。けれどご復活の主イエス様と出会うことにより、神様のもとに立ち返ることができます。日曜日は、主イエス様のご復活を記念する日で主日です。主日に行われる聖餐式において、聖餐に与かることにより神様の恵みと力をいただいて、すべての人の救いという神様のシナリオに歩み出しましょう。

司祭 マルコ 箭野眞理
(豊橋昇天教会牧師)

「聖堂が再建されて」

去る3月1日、東北教区主教座聖堂仙台基督教会の礼拝堂聖別式に行って来ました。東日本大震災の被害のため取り壊されていた礼拝堂がようやく再建され、聖別式の運びとなったのでした。当日は他教区や海外からの出席者もあり、礼拝堂に入りきれないほど多くの方々が集い、加藤博道教区主教司式により聖別式が執り行われました。
説教者の越山健蔵司祭は、「礼拝堂は出来たが、教会は建物ではない。ここに信徒が集い、礼拝や交わりを通してお互いに愛し合うということがなければ教会は存在しない」と語られ、信徒の一致を強調されたのが印象的でした。
思い起こしますと、震災直後に仙台を訪れたとき、聖堂内部は埃にまみれ、壁には亀裂が入っていました。危険な状態ということで礼拝堂を閉鎖し、会館で礼拝を行っていたのでした。わたしも何度か会館での礼拝に参加させていただきました。
礼拝堂再建にはいろいろな意見があったと聞いています。震災復興がまだまだなのに礼拝堂を建てるのか。復興が先ではないか。時期尚早である…等々です。しかし、主教座聖堂の再建は震災復興の目に見える一つのしるし、また、希望でもあり、教区一致の象徴でもあると思うのです。大きな苦難を経験された東北教区の皆様が祈りと交わりと奉仕の場である主教座聖堂を再建し、その聖堂が震災復興の核となっていくとしたらこれこそ神様が望んでおられることではないでしょうか。そういう意味でも礼拝堂が再建されたということは喜ばしいことです。
どなたかが、これからが大事だと言っておられました。私もそう思います。この立派な聖堂が祈りと交わりと奉仕の“垢”がどんどんつくようになることを願っています。東北教区に祝福がありますように。

『「聖餐式」の初めと終わりと真ん中』 

ヨハネによる福音書20・19以下から引用します。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(後略)」

この福音書の箇所は、復活節第2主日と聖霊降臨日の福音書で読まれます。教会(礼拝)の信仰にとってとても大切な箇所の一つだと思います。
弟子たちは、主人であり教師でもあったイエスさまが十字架にかけられたということを全く受け容れることが出来ませんでした。恐ろしくて絶望的な気持ちで、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、又自分たちの心を閉ざしてしまっていました。そこへイエスさまが登場、「平和があるように」。弟子たちは主を見て喜んだ、とあります。「主を見て喜んだ」とさらっとしか書かれていませんが、弟子たちはこの時「死から生・いのちへ」「絶望から希望へ」また「苦しみ悲しみから喜び平和へ」と変えられた経験をしたのでした。
こうして弟子たちは、単なる人間イエスではなく復活者・勝利者イエスキリストに出会い、復活されたイエスキリストに接していっぺんに生き返りました。生きる喜び、生きる力、生きる勇気が与えられました。このことがあってから、弟子たちは全く人が変わったように「神の宣教」のみ業に全身全霊をかけて励んだのでした。

「主イエス・キリストよ、おいでください。弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨み下さい」という聖餐式の初めの発声は、まさにこの聖書の記事を意識しています。このエピソードのように私たちの所にも来てください、というわたしたちの願い・信仰が表明されます。
また「ハレルヤ、主とともに行きましょう」「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」という聖餐式の最後は、やはりこの聖書の中のイエスさまの派遣の言葉と「聖霊を受けなさい。」というみ声が響きます。
さらに聖餐式の真ん中〈平和の挨拶〉では文字通りイエスさまが弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」といわれたように象徴的意味で聖餐式のちょうど真ん中に私たちもその光景を想いながら互いに挨拶を交わすのです。
聖餐式は、主イエスさまがお定めになった私たちの〈救いのサクラメント〉です。教会はこれを行うたびに、主が再びこられるまで十字架の犠牲の死と復活、昇天、聖霊降臨を記念し、キリストの命に養われ、主の救いの御業を述べ伝える(祈祷書p159)のだと思います。
聖餐式文はよく整えられています。私たちは式文の意味がよくわかった方が心から「感謝・賛美」の礼拝を行うことが出来ると考えます。

司祭 パウロ 松本正俊
(一宮聖光教会 牧師)

「小さな事に忠実である」

N司祭が昨年末、胆嚢摘出の手術を受けました。医者によると胆嚢はあってもなくてもいいものだそうです。N司祭がその話をある主教にしたところその主教は「神様が創ったものにあってもなくてもいいものはない」と言われたとのこと。
その話を聞いて渡辺和子シスター著『面倒だから、しよう』の中に「この世に雑用という用はない。用を雑にした時に生まれる」という言葉を思い出しました。シスターは修練時代、修道院で食事の時に食器を並べる仕事を知らず知らずのうちに知的な刺激の少ない単純作業と考えてしまい、ある時、修練長から「あなたは時間を無駄にしている」と注意をされ、自分がいつの間にか不遜な人間になってしまっていたことに気付いたそうです。それをきっかけにお皿を並べる時には一人ひとりのシスターを思い浮かべ、愛と祈りを込めて並べるようにしたとのことです。時間の使い方は命の使い方であり、用を雑にした時に、雑用は生まれるのだということを心に叩き込まれた一コマだったと書いておられます。
神様の働きはなかなか結果の見えない単純作業のようなところがあります。礼拝もそうかもしれません。いつの間にか単純だ、マンネリだ、つまらないと思ってしまうこともあるでしょう。しかし、神様がわたしたちに与えていてくださるものはすべて意味のあることであり、必要のないものは何一つないのです。今自分が置かれている状況や与えられている働きを「雑」と捉えるのか、それとも神様が今自分に一番必要なものとして与えていてくれる大切なものと捉えるのか、その違いは大きいのです。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16・10)のです。

「戦後70年を迎えて」

 寒中お見舞い申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、今年は太平洋戦争の終結(敗戦/終戦)から数えて70年目になります。戦後70年という年を迎え、わたしたちは改めて先の戦争に思いを向けたいと思います。日本聖公会主教会では今年の8月、全主教が沖縄に集結して戦後70年を覚え、平和のために礼拝を献げることになっています。また、広島、長崎における平和記念礼拝、原爆記念礼拝にもできるだけ参加することを申し合わせています。また、管区や教区においても70年を迎えての計画が考えられることと思います。一人でも多くの皆様が何らかの形で関わっていただきたいと願っています。
 1985年5月、当時の西ドイツ大統領であったヴァイツゼッカー大統領が、ドイツの敗戦40周年を記念して「荒れ野の40年」という記憶に残る演説を連邦議会で行いました。同大統領は「5月8日(ドイツ敗戦の日)を心に刻まなければならない」と言い、そして「心に刻む」とは「ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることである」と言っています。
 過去の出来事(歴史)、殊に「負」の出来事を思い浮かべることはつらいことです。しかし、その出来事に誠実に向き合わない限りその後の和解や平和はないのです。
 日本聖公会は1996年の総会において、「日本聖公会の戦争責任に関する宣言を決議する件」を採択し、戦前・戦中における日本国家による植民地支配と侵略戦争を支持・黙認した責任を認め、その罪を告白しました。
 その決議から20年が経とうとしていますが、日本の現状を見るとき、「戦後70年」を今改めて心に刻むことが求められているように思えるのです。

『加齢の恵み』

私は1月が誕生月なので、新年早々50歳を迎えようとしている。周りからは「ついに大台だね」とか「中年真っ盛り」などとからかわれているが、意外にも加齢を楽しんでいる自分がいることに気付かされる。30歳や40歳に達したときは「もうそんな歳になってしまったか」とネガティブな感情にとらわれたものだが、今回は不思議と素直にその事実を受け入れている。ここ数年来、老眼鏡が必要になったり、気持ちに体力が追い付いてこなくなったという身体的衰えも一因と言えるが、それ以上に精神面の変化が大きいように感じている。

私は昔から「お前は八方美人だ」と批判されることが多い。以前はその都度反論していたが、最近では自分も納得するようになった。私の意識の根底には「誰からも嫌われたくない」「良い評判を得たい」といった他人の目を必要以上に気にする心理があるように思う。そのような自分と決別したいと願ってはいるのだが、おそらく自分という存在に根本的に自信が持てないのだろう。ところが、特に40代後半頃から経験してきた仕事や子育ての困難さの中で、あるいは教会内外や被災された方々との様々な出会いを通して、自分の無力さや弱さと共に、自分の中にある驕り、高ぶり、偽善というものをイヤというほど痛感し、本来の小心な自分、大した人間ではないという自分の存在を徐々にではあるが受容できるようになった。極端な言い方をすれば「虚栄心からの解放」と言えるかもしれない。勿論完全に解放されたわけではないが、肩の力が抜けて気持ちが楽になり、以前のように人の目や評価をあまり気にしなくなったように思う。

このような精神面の変化を日頃からお世話になっている方に話したところ、「それは歳をとったということだよ。悪い歳のとり方じゃないと思うけどね…」という言葉が返ってきた。お酒の席ではあったが、何かホッとするのと同時に、歳を重ねるというのは積極的な意味があるのだと改めて気付かされた。考えてみれば、聖書においても長寿は基本的に神様の祝福のしるしと理解されている。むやみに加齢を美化するつもりはないが、それでも歳を重ねることは決して悲観することではなく、むしろ恵みであり人間として成熟することと言える。

そこで思うのだが、私たちの多くは社会でも教会でも、これまで「(少子)高齢化」という言葉を危機意識の中で、マイナスイメージとしてばかり使用してはこなかっただろうか。もしかしたらそれは根本的に間違った認識で、見方を変えれば高齢化は歓迎すべき現象なのかもしれない。

人生の先輩方には「まだ50歳の青二才が」と言われそうだが、教会の衰退が叫ばれる昨今、それを打開する最大のヒントは、高齢化する状況を危機としてではなく、この時代に神様から与えられた恵みとして喜んで受けとめていくことの中に隠されているのではないかと、確信めいたものを感じ始めている。

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザ46・4)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)