フランシス江夏一彰師、司祭に叙任

「支持します」。会衆の力強い声が聖堂内に響き渡り、心が震えました。2017年12月16日、フランシス江夏一彰執事の司祭按手式が渋澤一郎主教の司式により長野聖救主教会において温かくも厳粛に執り行われ、中部教区内外より100名を超える参列者が集い、新司祭誕生の喜びを分かち合いました。江夏新司祭の勤務教会である軽井沢ショー記念礼拝堂とゆかりの深い聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂聖歌隊メンバーによるアンセムと、中村勝・千恵子ご夫妻によるビオラとオルガンの演奏が按手式に花を添えました。説教者の中尾志朗司祭は「司祭職は自分の思いだけでは担えない。多くの人々、特に家族の理解と支えに感謝の気持ちを忘れないでほしい。また、今まで以上に苦労や誘惑も多くなると思うが、すべてを一人で抱え込もうとせず他の聖職に相談してほしい。」とユーモアを交えながら励ましの言葉を語られました。

私は推薦司祭として参列しましたが、改めて強く気付かされたことがあります。それは、聖職按手式で主教の問いかけに対して「支持します」と応答するとき、なぜいつも胸が熱くなるのかということです。10年以上にわたり軽井沢で共に歩んできた江夏執事の司祭按手式であったこともあり、特に強く感じたのかも知れません。私たちは何を根拠に聖職に按手される人を支持すると言えるのでしょうか。その人の持つ優れた才能でしょうか。豊かな学識でしょうか。あるいは温かな人柄でしょうか。それらのものはあるに越したことはありません。しかし、それらのものを根拠に支持するのであれば、当然支持しないという応答もあり得るでしょう。そうではなく、私たちが聖職按手式で「支持します」と確信を持って応答できるのは、それらのものを超えて神さまの御心が実現されることを信じるからに他なりません。神さまが今按手される人を用いてご自身を顕そうとされている、その恵みの場に立ち会っている私たちには「支持します」と言う以外の応答は考えられないのです。そこには圧倒的な神さまのご意志と導きがあります。

江夏新司祭は特任聖職(教区・教会から給与を受けないで職務を行う聖職)を志し、2012年9月に執事按手、以来平日は医療者として東奔西走し、日曜(多くの土曜も)は教会や地域において執事の務めを果たしてきました。その有能で誠実な人となりは改めて紹介するまでもないでしょう。何より江夏司祭がその豊かな賜物を用いて、神さまのご栄光をますますこの世界に現すことができますように、そして恵みに溢れた聖職按手に導かれる人が神さまの御心によって増し加えられますように祈り求めて参りたいと思います。

土井宏純(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

礼拝堂で継続される祈り

昨年の教区会告示でも触れましたが、昨年、飯山復活教会の礼拝堂が登録有形文化財に指定されました。また、十年ほど前には長野聖救主教会の礼拝堂が同じく指定されています。更に、新生礼拝堂、軽井沢ショー記念礼拝堂も町から貴重な建造物に指定されています。その他、上田、松本、稲荷山、岡谷、高田の聖堂も戦前から存在している礼拝堂です。教区内にはそのように貴重な礼拝堂が数多く存在しますが、いずれもカナダ聖公会からの大切な遺産です。(愛岐伝道区内の戦前の礼拝堂は残念ながら戦災等でほとんど消失しています。)
しかし、言うまでもなくこれらの礼拝堂がすばらしいのは歴史的に価値のある建造物だからではありません。神様に礼拝を献げる場だからすばらしいのです。礼拝堂は法規的に言えば、「聖公会の公祷、聖奠(=サクラメント)およびその他の諸式の執行のために使用」されるところです。
礼拝堂でわたしたちは祈りを通して神様と、そして人々と交わります。礼拝堂ではその初めから祈りが献げられてきました。そして、今も祈り続けられています。礼拝堂には今までに祈られてきたたくさんの祈り―公同(共同)の祈り、個人の祈り―が詰まっているのです。
そのたくさんの祈りが詰まった礼拝堂でわたしたちは今も礼拝を献げていることを覚え、感謝したいのです。たとえ少人数の礼拝であっても、目に見えない多くの人たちの祈りに包まれ、支えられてわたしたちは礼拝を献げているのです。そして、力と励ましを与えられるのです。
礼拝は信仰生活の基本中の基本です。今年もわたしたちに与えられている礼拝堂で「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」(フィリ4・6)てまいりましょう。

見えない光を求めて

今日、降誕劇は教会でもなかなか見られなくなってしまいましたが、クリスマスになると教会の幼稚園では、今でも降誕劇を行うところが多いと思います。年長児のクラスを中心にして主な役を振り分けて演じています。日頃の練習の成果により、見ごたえのある劇となっています。
それを見ていると色々なことを考えさせられます。この1年、社会で起こった様々な出来事、地震や豪雨のため引き起こされた、自然災害により困っている人々、地域紛争や内戦により避難せざるを得ない人、交通事故やその他人々によって起こされる様々な事故や事件による被害者など、世の中には不条理な出来事によって苦しむ人々が多くいることを考えさせられます。
そして原発の事故を考えると動物や植物といった自然そのものについても考えさせられます。そうした出来事は人間の努力で解決できそうなこともあれば、できないこともあります。お互いがもうちょっと協力して、譲り合えば何とかなりそうなこともあります。結局は一つ一つのことを当事者が丁寧に対応していくことになるのでしょうか。
日々伝えられる様々な情報の中で立ち止まってみて改めて考えてみると、「私たちの社会は一体何を目指しているのでしょうか」。目の前の出来事に何かと右往左往しているだけのような思いもします。右往左往する中でいつの間にか何を大事にしているかが見えなくなってしまっていないでしょうか。政治の世界では、好印象を与えるような方向に人が流れ肝心の政策がきちんとしないで人々に不安を与えるようなことになったり、産業社会では、日本を代表するといわれるような大きな会社で基準を満たしていないというようなことが起こったり、社会の基軸そのものが揺らいでいる印象があります。多くの人に、常と変わらないもの、灯台の光のようにあることが安心につながる、そうしたものを求める思いもあります。
私たちは何を目印にして生きようとしているのでしょうか。神様は、人々を救うために御子をこの世に遣わされました。そのことをヨハネは次のように書いています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ1・4)しかし、「暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ1・5)とあります。私たちの混迷する現代社会は「暗闇」の例えそのものの様子とならないでしょうか。物質文明はどんどん発達していく中で、精神性がなおざりにされていて大切にされるべきことが共有されていないと思われます。そうした中で私たちは改めてヨハネがその先に書いた言葉と出会います。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ1・12)
降誕劇を演じる子どもたちの真剣さは、見る人々を引き付けます。そこには世の救い主の降誕を真剣に待ち望み祝う姿があります。改めて私たちも心を澄まして、常に変わらずある光を見つめつつ新しい年の歩みを踏み出したいと思います。

飯山復活教会が紹介されました

飯山復活教会が、『広報飯山』の表紙に掲載されました。子どもたちと一緒です。

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柳城短期大学有志による「黙想の祈りのつどい」

寒さが増してきましたが、みなさまお元気ですか?12月の企画のご案内です。柳城短期大学の学生有志が中心となって、名古屋聖マタイ教会にて、テゼの歌を使った黙想と祈りの集いを行います。アドベントのひと時を、聖なる歌と沈黙のうちに過ごしませんか。ご参加をお待ちしています。

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楽しい!教会問答

教区センターはこの秋、新たに「教会問答と聖書を読む会」を開催します。名古屋聖マタイ教会にて月に2回、主日の夕方に、祈祷書の「教会問答」と、それに関連する聖書箇所を読み、学びと分かち合いを行います。どなたでも、1回のみの参加も可能です。どうぞご参加ください。チラシ_000001

会衆席で

先日の主日、大変恥ずかしいことをしてしまいました。午前にG教会で聖餐式・堅信式があり、午後はO教会で聖餐式でした。いずれも管理牧師と夏期実習中の聖職候補生が一緒でした。G教会での礼拝が終わり、食事を皆さんとご一緒し、O教会に向いました。教会に着き、さて、式服などの入った荷物を車から取り出そうと思ったところトランクに荷物がありません。何とG教会に忘れてきてしまったのです。しまったと思いましたが後の祭りです。片道4~50分の距離ですので取りに帰ることもできません。O教会では主に説教が役割でしたが、式服、祈祷書等はもちろん、説教の原稿も荷物の中に入れたままでした。
原稿がなくても説教ができないことはなかったのですが、この際、管理牧師におすがり(?)しようと思い、「説教も含めて聖餐式全部、お願いしてもいい?」と尋ねたところ、二つ返事で「いいですよ!」と言ってくれました。お陰様で助かりました。式服もありませんので、わたしは会衆席で聖餐式をお献げしました。主教になってからはもちろんですが、特別な場合を除いて主日に会衆席で聖餐式を献げたことはありませんでしたので思わぬ体験でした。
自分の注意不足で教会の皆さんに迷惑をかけ、しかも、これから聖職を目指す聖職候補生の前でこういう失態を犯すのは大変恥ずかしいことで大いに反省しなければと思ったことです。ちなみに、管理牧師さんは突然にもかかわらず大変良い説教をしてくれました。もちろん、説教原稿なしでです。感謝です。
蛇足ですが、わたしは時々、〝聖餐式が始まるというのに説教の原稿がなくてうろたえる〟という夢を見ることがあるのですが、それが正夢になってしまったように感じたのでした。

日野原先生から教えられたこと ―「寄り添う」ことの意味―

去る7月18日、聖路加国際病院名誉院長、日野原重明先生が主のもとに召された。実に105歳のご生涯であった。青山葬儀所で営まれた葬送・告別式には、約4千人の人々が、日野原先生との、この地上での別れを惜しんだ。日野原先生には、個人的にも、さまざまなことを教えていただいた。4年ほど前、聖路加の理事会終了後に懇親会があり、たまたまお隣の席が日野原先生だった。日野原先生は、私に、「ところで西原さんはおいくつですか」と尋ねられた。私は、「ちょうど50歳になりました」と答えたところ、日野原先生から、「ああそうですか。あと50年がんばってね」と返されたのも愉快な思い出である。
忘れもしないのは、2013年8月に、聖公会関係学校教職員研修会の主幹校を立教大学が務め、私は、副総長として、同研修会運営の実行委員長に任ぜられ、基調講演の講師を日野原先生にお願いしたことである。日野原先生には、「一人ひとりの存在と共にあること―聖公会学校の原点を確かめる―」という主題で、ご講演いただいた。日野原先生は、ご自身の立教大学との深い繋がりを話された後、このようなことを語ってくださった。
「世界で最初の近代的なホスピス、聖クリストファー・ホスピスが、ロンドンの郊外のシデナムというところにあります。その創立者シシリー・ソンダース先生に、ソンダース先生が長年やってきたホスピスのことを一言で言えば、どういうことかと聞きました。がんの患者で痛みがある患者にモルヒネを与えて、そうして苦しみをとり、死の不安をできるだけとってあげるという、命が制限された患者に何が必要であるかを一言で私に教えてくださいと言ったら、彼女が言ったことは、”Being with the patient”、『患者とともに』。患者がだんだん、だんだん亡くなる時に、
患者がいろいろなことを思い出して語ることを静かに聞いてあげ、ああそう、ああそうということをして、患者が語る言葉を静かに聞きながら、その腕を握ってあげて、そして患者と一緒に死ぬような態度。これがホスピスの中に必要であるということ。死ぬ人と治療する人ではなしに、一緒に死ぬのだ、ともに死ぬのだ。これが『寄り添う』という、”Being with the patient”の一番大切なことであるということだ、と。」
日野原先生のこの言葉は、これからの医学において重要な視点という文脈であったが、私たちの教会にとっての〈宣教・牧会〉の核心とは何かについても、大いに示唆されている。一人ひとりの教会につらなる者に、「寄り添う」こと。この社会、世界で、痛んでいる人々、泣いている者たち、重荷を背負って生きざるをえない一人ひとりに、ていねいに「寄り添う」こと。それは、確かに、主イエス・キリストが、この地上でなされた働きに、倣うことに他ならないのである。
(岡谷聖バルナバ教会牧師)

宣教会議2017

9月17日(日)・18日(月)、名古屋聖マタイ教会にて、宣教会議2017(中部教区ヴィジョン)が開催されました。2022年までの中部教区の宣教と牧会をめぐって、様々な議論が行われました。後日報告書を作成いたします。宣教会議1 宣教会議2 宣教会議3 宣教会議4

そこにいるということ

先日の巡回の折、しばらくぶりにある退職司祭(故人)のご夫人にお会いしました。前回の訪問時には少し体調が良くなかったようでお会いできませんでしたので、お元気なご様子に安心しました。ご挨拶をさせていただくと、お元気とのこと。「教会のことは何もできませんが…」と言われますので、ご夫人がいてくださるだけで皆さん嬉しいのですと申し上げました。
長く信仰生活を続けておられる方がいつも礼拝に出席しておられるということは何かホッとするものです。そこにおられるというだけで信仰を醸し出してくださるように感じます。
その少し前には別の教会を巡回しました。聖餐式の途中で小さい子供がむずかるためお母さんが気を遣って礼拝堂の外に連れていかれました。わたしは個人的には子供が多少むずかっても聖餐式という空間の中にいるということは大切なことだと思っています(泣き叫んでいる子を放置しておきなさいということではありません)。
小さな子供や赤ちゃんは聖餐式の意味や内容、説教も理解できないでしょう。しかし、理解できなくてもみんなが礼拝している空間にいるということが大切なのです。その場にいて礼拝の空気を全身で感じることにより、神様を知り、イエス様を知り、信仰の成長へとつながっていくのです。
 ところで、今月号をもって「平和の歌」が終了します。足掛け7年にわたり多くの皆様にご投稿いただきましたこと感謝です。
殊に、選者としてご奉仕くださいました黒田淑子さんは歌人としてのお忙しい身にもかかわらず、また、途中体調を崩されたにもかかわらず長い間ご奉仕くださいましたこと本当に感謝です。これからもご健康に留意されご活躍されますよう心よりお祈りしています。