自らが否定されることを恐れてはならない

立教新座中学校・高等学校のチャプレンとして遣わされて半年以上が経ちます。中部教区の皆さまとお会いする機会が少なくなり、本当に寂しく思いますが、近況をご報告させていただければと思います。

立教新座中学校・高等学校の「わたしたちの学校とキリスト教」というハンドブックに、立教新座中学校・高等学校学則第1条(目的)の「本校はキリスト教に基づく人格の陶冶を旨とし」について解説がされています。そこでは、「キリスト教の教えに基づいて教育を行うことを目的にし、キリスト教の信仰を強要する学校ではありません」と記載されています。どうも、立教新座中学校・高等学校のチャプレンの働きは、安易に「生徒を一人でも多く洗礼に導く」というものではなさそうです。例えば、西原廉太先生が『聖公会が大切にしてきたもの』で、聖公会の学校は、国教会である聖公会の伝統により、パリッシュに住む全地域住民に対する牧会的配慮という視点から建学されたのであって、信徒を増やすための伝道のツールとして建学されたのではないと書いておられますが、立教新座中学校・高等学校も同じであると思っています。そこで、私は、生徒や保護者の皆さまに、立教建学の精神を引き継いでいる「キリスト教の教えに基づいて教育を行うことを目的にし、キリスト教の信仰を強要する学校ではありません」を引き合いに出して、立教新座中学校・高等学校における「信教の自由」を積極的に伝えています。

このようなことを言っていますと、「甘い」「仕事をしていない」とご指摘いただくことになるかもしれません。しかし、決してそうではありません。フランク・グリズウォルド元米国聖公会総裁主教は、「聖公会学校とは真理を味わう場であり、学生、教員とは、真理を探究する旅人だ。聖公会学校は真理を探究するために常に開かれていなければならない。閉じられてはならない。自らが試される、自らが否定されることを恐れてはならない。ことにキリスト教を規範とする聖公会学校はそのような意味で〈危険な場〉でならなければならないのだ」と語っておられます。「信教の自由」すなわち「お家の宗教が仏教や神道であったら、あるいは無宗教でもいいですが、それを大切にしてくださいね」と宣言することは、キリスト教「自らが試される、自らが否定されること」でもあり、とても〈危険な場〉となることです。しかし、これを「恐れてはならない」のだと思います。この道は逆にとても厳しい道ですが、「私たちは真理を知っていますと断言しない」VIA MEDIAの教会、聖公会の学校として当然の道でもあると考えています。このような生徒たちとの真理を探究する旅のなかで、生徒たちがイエス様の愛の教えの素晴らしさを知り、そのうえで受洗者が神様から与えられるというのが、本来の姿であると感じています。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(立教新座中高チャプレン・立教学院聖パウロ礼拝堂勤務)