〝このことだけは徹底して親ばかでありたい〟

 2018年2月11日(日)付『岐阜新聞』に、飛騨市長である都竹淳也さんは、このような文章を寄せておられます。
 「私の次男は最重度の知的障がいのある自閉症児である。特別支援学校中学部の1年生。多くの方々のご支援をいただきながら暮らしている。次男の障がいが分かったのは2歳の頃だ。言葉の遅れなどが顕著で、不安に駆られ、医師の診察を受け、自閉症との診断を受けた。今も困難なことも多いが、我が子はかわいい」「次男のいいところはどこだろうと毎日見ているうちに、同じように職場の部下や同僚を見るようになり、強みを伸ばす組織運営をするようになった。弱い立場の人たちを意識するようになり、障がい児者だけでなく、病気や生活困窮、ひとり親家庭など、厳しい状況にいる人たちを助けたいと強く思うようになった。そうした頃、県職員だった私は、願い叶って障がい児者支援の仕事に就くことができ、重症心身障がい児者を医療面から支える仕事に打ち込んだ。
 市長となった今も、弱い立場の方々の支援は市政の最重点だ。こうした分野に取り組むのは、誤解を恐れずに言えば、自分の子どものためである。公職にある自分が支援を充実させれば、多くの方々が救われる。それは次男が私をしてなさしめたことであり、この子が世の中のお役に立てたことになるからだ。このことだけは徹底して親ばかでありたいと思う」
 確かに、主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時に聴いた天からの言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)でした。イエス・キリストも私たち一人ひとりを「愛する子」として徹底して大切にしてくださった。そのような愛をもって、私たちも、私たちの隣り人のために、まるで親ばかのように無条件で愛することが求められているのだと思うのです。

主教座聖堂礼拝休止延長のお知らせ

愛知県の緊急事態宣言が6月20日(日)まで延長されたことを受け、主教座聖堂の礼拝も6月20日(日)まで休止となりました。ご不明な点がございましたら、中部教区センターまでお問い合わせください。

教区間協働!? 再編!? (2)

教区制改革について考えるとき、中部教区に属するわたしたちが記憶にとどめておきたいことがあります。それは2003年に開催された第73(定期)教区会において、管区に「日本聖公会教区区域再編成検討委員会(仮称)」の設置を求め、日本聖公会総会に議案を提出する(総会代議員に付託する)ことを中部教区の意思として決議したことです。その提案理由文には、

「教区区域の再編成については、単なる組織ではなく、これからの日本聖公会の宣教ビジョンを含めた包括的な議論として進められるべきであり、…一刻も早くこの課題に着手することにより、日本聖公会の宣教の活性化を促していかなければならない」

とあり、教区制改革の目的は日本聖公会全体の宣教の活性化であることを明確に示しています。

翌2004年に開催された日本聖公会第55(定期)総会において、中部教区の総会代議員は連名で「教区制改革を推進する機関」設置の件を提出し、可決され、「教区制改革委員会」が管区に設置されました。その後、同委員会を中心に協議、研究が重ねられ、教区間協働の促進、教役者給与支援システム等が実施されるに至りますが、その延長線上に、昨年の総会で決議された「宣教協働区の設置及び伝道教区制の導入」があります。

今や日本聖公会は新たな段階へ入ったと言っても過言ではないでしょう。従来の「教区」という枠を越えて、各々の教区の歴史や伝統、慣習等の違いを尊重し合い、分かち合い、支え合い、祈り合いながら日本聖公会全体のビジョンを描き上げることが求められています。長引くコロナ禍により礼拝や集会などが制限され、疲弊感や閉塞感に押し潰されそうになりますが、このようなときこそ教区制改革について思いを巡らせ、これまで中部教区が積極的に向き合ってきたことを覚えるとともに、その意思を受け継いでいきたいと思います。

主教補佐
司祭 テモテ 土井宏純

中部教区報『ともしび551号』(2021年5・6月号)より

この十字架は重いけど…

福音書にはイエスに出会った多くの人々の事が記されています。その中で、イエスとの「ゆきずりの出会い」がキレネ人シモンに起こりました。イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と教えていました。キレネ人シモンはこの十字架を背負ってイエスに従った文字通り一番最初の人となってしまいました。しかし彼は自らすすんで負ったのでは決してなかったのです。
 シモンにとってイエスは何の関係もない人で、他の人と同様イエスという囚人を見物しに来ていただけにすぎないのに、丁度偶然にも自分の目の前でイエスがつまづき、倒れただけ。ローマ兵の怒声がこのシモンに向けられ、「おい、お前、この十字架を背負っていけ。」「おれは何と運の悪い男だろう。こともあろうに処刑される男の十字架を負わされるとは…」(想像)
 愛知県にも先日、三度目の「緊急事態宣言」が発出されました。私たちの日々の生活、人生は全てが順調に都合よく展開していくこともあれば、地球規模にまん延させたこの新型コロナウイルス感染症、そして感染力がより強く、重症化を引き起こす変異株はまさしく想像もしていなかった未曾有の事態を引き起こしています。年頭から宣言が解除されずに耐え続けている都市や人々もおられます。辛く苦しく、悔しく、我慢しなければならない毎日の生活です。苦しいことのその意味を考える余裕すら無いような不安と恐怖の内にあって、治療を受ける方々、治療も受けられずにいる方々、亡くなられた方々、悲しみと悔しい思いの家族や友人の方々、懸命に治療や介護にたずさわっている方々、感染の故に差別や偏見にさらされている方々、一刻も早く事態が終息し、克服への希望や喜びを見出すことができるよう祈る次第です。
 伝説によれば、後にシモンはイエスの70人の弟子のひとりに数えられ、自らすすんでイエスのために殉教したといわれています。彼にとってはいやいや負わされた十字架ではありますが、それ故にゴルゴタの丘のイエスの死の場面にふれ、そして復活のイエスとの出会いへと導かれ、知らずして負わされた十字架を今度は自らすすんで負う十字架へと、まさしく苦難を経て栄光への道を歩むことになりました。
 パウロも福音伝道の途上、迫害、投獄等の苦難に見舞われながらも、自分が願ったり望んだわけでもない事態、むしろ自分が望んだこととは全く正反対な事態に遭遇する度に、ますます神への感謝と讃美が彼に力をあたえていくことになりました。
 私たちはパウロが伝えたこの信仰を受け継いでいる者であるばかりか伝える者、証しする者とされました。パウロの抱いた確信が、私たちの確信でもあります。この難局の時こそ、克服と終息のため、世界中の全ての人々と国籍や信仰の違いを超えて、思いと力と祈りを合わせて参りましょう。
 私達ひとりひとりが神さまの恵みの内に生かされ、恵みの内に生きる者として強められますように、アーメン。


司祭 エリエゼル 中尾志朗

(一宮聖光教会 牧師)

〝コロナ時代における新しい神学を〟

去る3月20日(土)に開催されたキリスト新聞社主催のオンライン配信イベント「コロナ時代に問う『神学+教育2.0』」に、いずれも畏友の同志社大学の小原克博教授、関西学院大学の中道基夫教授と共に、パネリストとして参加しました。各パネリストが奉仕する大学の現状や、オンラインかリアルかという二者択一の議論を超えて、「ポストコロナ」のキリスト教、学校、教会が生きる道について語り合いました。私も小原先生や中道先生からさまざまな気づきを与えられました。
 中道先生は、「オンラインによって、教会に集まる意味や礼拝の本質が問われることになったと同時に、これまで多忙であった牧師が信徒と共に学ぶ時間が取れるようになり、普段は仕事などで主日に教会に行くことが困難な人々に対しての宣教のチャンスが生まれたのではないか」と指摘されました。小原先生は、「礼拝とは説教を聴いていれば良いというものではなく、教会はキリストの体であり、すべての者がキリストの体につながっていることを再確認する場である。そう考えるとき、本当にオンラインで十分なのか考える必要がある。私たちはあえて自由を放棄して、毎週教会に集っている。不自由で不便な教会には、世の中にはないものが教会にはあるのだということを示し続けなければならない」と問われます。
 私は聖公会の立場から、北海道教区の植松誠主教さまの牧会実践を紹介しながら、一人ひとりへの丁寧な顔と顔を合わせた聖餐を通した具体的なつながりが、私たちにとっていかに重要なものであるかを強調させていただきました。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックという危機を経験した私たちが、社会に通用する言葉で、新しい神学をどのように語っていくのかが、教会の宣教的・社会的責任であるという点で、私たちは一致しました。

本の紹介「キリスト者として生きる」

中部教区の西原廉太主教が監訳をおこなった「キリスト者として生きる」がこの度教文館より出版されました。西原主教からの本の紹介と、「[月刊]キリスト教書評誌『本のひろば』」に掲載された東京教区笹森田鶴司祭の書評とあわせてご紹介いたします。

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西原主教からのコメント

ローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教の深い神学とスピリチュアリティが溢れる素晴らしい書です。黙想の手がかりとしても、お勧めいたします。

「人々が最も危険にさらされている場所、人々が最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところに、キリスト者の姿をきっと見いだせるのです」「もし洗礼を受けることがイエスのいるところに導かれることであれば、洗礼を受けた人は目的を見失った人々のその混沌と貧しさへと導かれます」

ローワン・ウィリアムズ<著>『キリスト者として生きる ―洗礼、聖書、聖餐、祈り― 』ネルソン橋本ジョシュア諒<訳>・西原廉太<監訳>(教文館、2021年)

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「イエスと共に歩み出す勇気をくれる一書」 <評者>笹森田鶴

わたしは霊的に飢え渇いていました。同様に身体的にも疲れ果てていました。そのことを周囲に気づかれないように振る舞うために、できるだけ沈み込まないで日々を送る努力を無意識にし続けていました。そのような時に本著に出会うことになり、わたしは自身の信仰の根本を問われ、チャレンジと同時に深い慰めを受けることになりました。むしろ、沈み込むことの意義とそのままでも立ち上がっていく力を与えられたのです。

本著は、前カンタベリー大主教(イングランド聖公会の最高責任者)ローワン・ウィリアムズ師の、カンタベリー大主教退任後に同大聖堂で行われた聖週の定例公開講座の講演に基づいています。タイトルにあるように「キリスト者として生きる」上で必要不可欠で根本的な4つの要素−洗礼、聖書、聖餐、祈り−について、読者がそれぞれ思い巡らすことに招いてくれる著作です。聖書と教父たちの言葉に基づいた幅広い見識と深い洞察力をもって、しかも読者が理解しやすい語りかけによって構成されています。すばらしい人生を送るための考察でも指南書でもなく、あくまでも混沌としたこの世界の中でキリスト者として生きることの意義といのちの本質について語ります。

たとえば洗礼の項目において、著者はイエスのいのちと死にあずかるということの具体的な生き様を提示します。洗礼によってキリスト者が真の人間への回復への道のりを歩むことができるために、イエスはわたしたち人間の混沌の世界−人びとが最も危険にさらされている場所、最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところ−に降りてこなければならなかったと言います。そしてそのような無防備なイエスに従うということは、キリスト者が自身の人生の混沌に気づき、同時に他者の壊れた人間性に巻き込まれ、「貧しく、汚染され、壊れた世界の中心に置かれている意味」を受け止めることだと繰り返します。そのような世界に身を置き、リスクを追う時、聖霊を受ける準備が整えられるというのです。

これらは、著者が前職に就いていた折の世界中の危機や困難の中に生きる人びととの出会いを通して確信をもって語られる言葉です。その意味でコロナ禍を経験する以前の講座であるにもかかわらず、現代の混沌の状況の中にあるキリスト者にとって根源的な問いかけや示唆を与えてくれます。

世界的な感染症のパンデミックによって全く違う日常の生活や信仰生活を余儀なくされているキリスト者にとって、今この世にキリスト者として生きる意味や自らの柱を再確認するための必読書です。個人でもグループでも読みすすめることを手助けする「振り返りやディスカッションのために」という問いも項目ごとに用意されており、さまざまな使用が可能になっています。

本著は信仰の旅をしている誰にとっても重要な霊的なダイレクションを指し示してくれます。おそらくわたしはこれから何度もこの本を読み返し、それまでの道筋を振り返りながら初心に戻らされる信仰の旅を過ごすことでしょう。

(ささもり・たづ=日本聖公会東京教区司祭)

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尚、購入希望の方は中部教区センターでも若干取り扱いがございます。お問い合わせください。

主教座聖堂の礼拝休止についてのお知らせ

愛知県に緊急事態宣言が発出されることを受け、主教座聖堂の礼拝が下記期間休止になりますことをお知らせいたします。再開のめどが立ちましたら再度お知らせいたします。