この十字架は重いけど…

福音書にはイエスに出会った多くの人々の事が記されています。その中で、イエスとの「ゆきずりの出会い」がキレネ人シモンに起こりました。イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と教えていました。キレネ人シモンはこの十字架を背負ってイエスに従った文字通り一番最初の人となってしまいました。しかし彼は自らすすんで負ったのでは決してなかったのです。
 シモンにとってイエスは何の関係もない人で、他の人と同様イエスという囚人を見物しに来ていただけにすぎないのに、丁度偶然にも自分の目の前でイエスがつまづき、倒れただけ。ローマ兵の怒声がこのシモンに向けられ、「おい、お前、この十字架を背負っていけ。」「おれは何と運の悪い男だろう。こともあろうに処刑される男の十字架を負わされるとは…」(想像)
 愛知県にも先日、三度目の「緊急事態宣言」が発出されました。私たちの日々の生活、人生は全てが順調に都合よく展開していくこともあれば、地球規模にまん延させたこの新型コロナウイルス感染症、そして感染力がより強く、重症化を引き起こす変異株はまさしく想像もしていなかった未曾有の事態を引き起こしています。年頭から宣言が解除されずに耐え続けている都市や人々もおられます。辛く苦しく、悔しく、我慢しなければならない毎日の生活です。苦しいことのその意味を考える余裕すら無いような不安と恐怖の内にあって、治療を受ける方々、治療も受けられずにいる方々、亡くなられた方々、悲しみと悔しい思いの家族や友人の方々、懸命に治療や介護にたずさわっている方々、感染の故に差別や偏見にさらされている方々、一刻も早く事態が終息し、克服への希望や喜びを見出すことができるよう祈る次第です。
 伝説によれば、後にシモンはイエスの70人の弟子のひとりに数えられ、自らすすんでイエスのために殉教したといわれています。彼にとってはいやいや負わされた十字架ではありますが、それ故にゴルゴタの丘のイエスの死の場面にふれ、そして復活のイエスとの出会いへと導かれ、知らずして負わされた十字架を今度は自らすすんで負う十字架へと、まさしく苦難を経て栄光への道を歩むことになりました。
 パウロも福音伝道の途上、迫害、投獄等の苦難に見舞われながらも、自分が願ったり望んだわけでもない事態、むしろ自分が望んだこととは全く正反対な事態に遭遇する度に、ますます神への感謝と讃美が彼に力をあたえていくことになりました。
 私たちはパウロが伝えたこの信仰を受け継いでいる者であるばかりか伝える者、証しする者とされました。パウロの抱いた確信が、私たちの確信でもあります。この難局の時こそ、克服と終息のため、世界中の全ての人々と国籍や信仰の違いを超えて、思いと力と祈りを合わせて参りましょう。
 私達ひとりひとりが神さまの恵みの内に生かされ、恵みの内に生きる者として強められますように、アーメン。


司祭 エリエゼル 中尾志朗

(一宮聖光教会 牧師)

〝コロナ時代における新しい神学を〟

去る3月20日(土)に開催されたキリスト新聞社主催のオンライン配信イベント「コロナ時代に問う『神学+教育2.0』」に、いずれも畏友の同志社大学の小原克博教授、関西学院大学の中道基夫教授と共に、パネリストとして参加しました。各パネリストが奉仕する大学の現状や、オンラインかリアルかという二者択一の議論を超えて、「ポストコロナ」のキリスト教、学校、教会が生きる道について語り合いました。私も小原先生や中道先生からさまざまな気づきを与えられました。
 中道先生は、「オンラインによって、教会に集まる意味や礼拝の本質が問われることになったと同時に、これまで多忙であった牧師が信徒と共に学ぶ時間が取れるようになり、普段は仕事などで主日に教会に行くことが困難な人々に対しての宣教のチャンスが生まれたのではないか」と指摘されました。小原先生は、「礼拝とは説教を聴いていれば良いというものではなく、教会はキリストの体であり、すべての者がキリストの体につながっていることを再確認する場である。そう考えるとき、本当にオンラインで十分なのか考える必要がある。私たちはあえて自由を放棄して、毎週教会に集っている。不自由で不便な教会には、世の中にはないものが教会にはあるのだということを示し続けなければならない」と問われます。
 私は聖公会の立場から、北海道教区の植松誠主教さまの牧会実践を紹介しながら、一人ひとりへの丁寧な顔と顔を合わせた聖餐を通した具体的なつながりが、私たちにとっていかに重要なものであるかを強調させていただきました。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックという危機を経験した私たちが、社会に通用する言葉で、新しい神学をどのように語っていくのかが、教会の宣教的・社会的責任であるという点で、私たちは一致しました。

本の紹介「キリスト者として生きる」

中部教区の西原廉太主教が監訳をおこなった「キリスト者として生きる」がこの度教文館より出版されました。西原主教からの本の紹介と、「[月刊]キリスト教書評誌『本のひろば』」に掲載された東京教区笹森田鶴司祭の書評とあわせてご紹介いたします。

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西原主教からのコメント

ローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教の深い神学とスピリチュアリティが溢れる素晴らしい書です。黙想の手がかりとしても、お勧めいたします。

「人々が最も危険にさらされている場所、人々が最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところに、キリスト者の姿をきっと見いだせるのです」「もし洗礼を受けることがイエスのいるところに導かれることであれば、洗礼を受けた人は目的を見失った人々のその混沌と貧しさへと導かれます」

ローワン・ウィリアムズ<著>『キリスト者として生きる ―洗礼、聖書、聖餐、祈り― 』ネルソン橋本ジョシュア諒<訳>・西原廉太<監訳>(教文館、2021年)

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「イエスと共に歩み出す勇気をくれる一書」 <評者>笹森田鶴

わたしは霊的に飢え渇いていました。同様に身体的にも疲れ果てていました。そのことを周囲に気づかれないように振る舞うために、できるだけ沈み込まないで日々を送る努力を無意識にし続けていました。そのような時に本著に出会うことになり、わたしは自身の信仰の根本を問われ、チャレンジと同時に深い慰めを受けることになりました。むしろ、沈み込むことの意義とそのままでも立ち上がっていく力を与えられたのです。

本著は、前カンタベリー大主教(イングランド聖公会の最高責任者)ローワン・ウィリアムズ師の、カンタベリー大主教退任後に同大聖堂で行われた聖週の定例公開講座の講演に基づいています。タイトルにあるように「キリスト者として生きる」上で必要不可欠で根本的な4つの要素−洗礼、聖書、聖餐、祈り−について、読者がそれぞれ思い巡らすことに招いてくれる著作です。聖書と教父たちの言葉に基づいた幅広い見識と深い洞察力をもって、しかも読者が理解しやすい語りかけによって構成されています。すばらしい人生を送るための考察でも指南書でもなく、あくまでも混沌としたこの世界の中でキリスト者として生きることの意義といのちの本質について語ります。

たとえば洗礼の項目において、著者はイエスのいのちと死にあずかるということの具体的な生き様を提示します。洗礼によってキリスト者が真の人間への回復への道のりを歩むことができるために、イエスはわたしたち人間の混沌の世界−人びとが最も危険にさらされている場所、最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところ−に降りてこなければならなかったと言います。そしてそのような無防備なイエスに従うということは、キリスト者が自身の人生の混沌に気づき、同時に他者の壊れた人間性に巻き込まれ、「貧しく、汚染され、壊れた世界の中心に置かれている意味」を受け止めることだと繰り返します。そのような世界に身を置き、リスクを追う時、聖霊を受ける準備が整えられるというのです。

これらは、著者が前職に就いていた折の世界中の危機や困難の中に生きる人びととの出会いを通して確信をもって語られる言葉です。その意味でコロナ禍を経験する以前の講座であるにもかかわらず、現代の混沌の状況の中にあるキリスト者にとって根源的な問いかけや示唆を与えてくれます。

世界的な感染症のパンデミックによって全く違う日常の生活や信仰生活を余儀なくされているキリスト者にとって、今この世にキリスト者として生きる意味や自らの柱を再確認するための必読書です。個人でもグループでも読みすすめることを手助けする「振り返りやディスカッションのために」という問いも項目ごとに用意されており、さまざまな使用が可能になっています。

本著は信仰の旅をしている誰にとっても重要な霊的なダイレクションを指し示してくれます。おそらくわたしはこれから何度もこの本を読み返し、それまでの道筋を振り返りながら初心に戻らされる信仰の旅を過ごすことでしょう。

(ささもり・たづ=日本聖公会東京教区司祭)

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尚、購入希望の方は中部教区センターでも若干取り扱いがございます。お問い合わせください。

主教座聖堂の礼拝休止についてのお知らせ

愛知県に緊急事態宣言が発出されることを受け、主教座聖堂の礼拝が下記期間休止になりますことをお知らせいたします。再開のめどが立ちましたら再度お知らせいたします。

新型コロナウイルス感染症への対応について4

中部教区のみなさま

4月13日付の常置委員会より「新型コロナウイルス感染症への対応について4」が発信されましたので、お知らせいたします。

※ライブラリからも見ることができます。

2021年イースター・メッセージ

2021年4月4日
主教 アシジのフランシス 西原廉太

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 主なる神さま、私たちがしばらくの間、主のご復活の意味について思いめぐらすことができますように強め導いてください。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 復活日、イースターは、古代の教会においてはクリスマスよりも重要な祝日でした。洗礼も、復活日の早朝もしくは前日深夜に行われる伝統がありました。洗礼とはその人が新たに主と出会うことによって、新たに生まれることを意味していましたので、洗礼が行われるのは復活日が最も相応しかったのであります。

 イエスさまが十字架につけられ息を引き取られた。死んでしまった。弟子たちにとってこれほどの衝撃はありませんでした。それは、究極の断絶であり、絶望でありました。弟子たちは、混乱の中、散り散りに逃げてしまいました。しかし、マグダラのマリア、サロメたち女性たちは、絶望の中にあっても、ずっとイエスさまのみもとに居続けたのであります。そして、女性たちは、イエスさまに香料を塗るために、イエスが葬られた墓に向かいます。十字架からおろされた時は、安息日が差し迫って香料を塗ることができないまま、大急ぎで埋葬されてしまったのです。油を塗ることは、女性たちにとってイエスさまのためにできる最後の奉仕、精一杯の業でありました。すると、驚くべきことに、墓の石は転がされ、墓は空であった。そこにはある若者がいて、こう告げます。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」

 マルコによる福音書はここで終わります。マルコによる福音書は、4つある福音書の中でも最も古いものです。マタイによる福音書もルカによる福音書も、マルコをもとにしています。そのようなことから、マルコによる福音書は、「原福音」とも呼ばれています。この最古の福音には、実際に主がよみがえられてイエスとマリアや弟子たちが出会う記述はありません。この2000年の教会の歴史の中でも、「復活」そのものへの疑問がたびたび出されますがその根拠の一つが、原福音であるマルコには復活の記録がないことがあげられてきました。

 ここで、原始キリスト教会の最古の伝承について見てみたいと思います。それは、実はパウロの手紙であります、コリントの信徒への手紙一、15:3-5に隠されています。

最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの「罪」のために「死んだ」こと、「葬られた」こと、また、聖書に書いてあるとおり「三日目」に「復活した」こと、ケファに現れ、それから十二人に「現れた」ことです。

(聖書協会共同訳)

 「最も大切なこととして、パウロ自身も受けた」伝承です。それをパウロがコリントの人びとに伝えている記録です。これは「ケリュグマ」(「教え」という意味)と呼ばれるもので、イエスさまの復活についての教えです。このケリュグマが後に発展して、使徒信経やニケヤ信経になりました。このケリュグマが書かれたのは、紀元55年頃と言われていますので、その時点ですでに伝承されていたものですから、イエスの死後相当早い段階でこのケリュグマは形成され、伝承されていました。ギリシャ語原文を直訳しますと、これがはっきりとした韻文で書かれていることがわかります。

 このケリュグマは、「聖書に書いてあるとおり」で始まる2つの文章で構成されています。そして、「、」でそれぞれの文章は分かれます。それぞれの前半の「罪」と「三日目」が対応し、「死んだこと」と「復活したこと」が対応しています。この前半部は、神学的な表現であり、信仰告白の部分です。それに対して、後半で対応する「葬られたこと」「現われたこと」は、純粋に歴史的な出来事、事実起こったことの記録、伝承だと考えられるのです。すなわち、「葬られたこと」「現われたこと」を神学的に、信仰的に理解した結果が、前半部なのです。

 つまり、イエスさまは確かに「葬られた」。それは本日のマルコによる福音書も証言しているところです。そしてさらには、「現われた」と記録せざるを得ないような出来事が起こったのであろうと思うのであります。「現われた」というのは、歴史的な核を持つ歴史的事実なのだろうと言うことができます。確かにそうでなければ、キリスト教はこのように2000年も続き、また世界中に広まることはなかったのでしょう。間違いなく、イエスさまは、マリアたちに、弟子たちに何らかの形で「現われられた」のです。

 私は、以前、東京教区のある教会の主日礼拝をお手伝いしていたことがありました。その教会でNさんという女性の信徒さんと親しくさせていただいておりました。その後、Nさんはお病気のため86歳で主のもとに召されました。Nさんは熱心で、礼拝を欠かしたことがないような方でした。Nさんのお連れ合い、ご主人は40年前に亡くなられ、Nさんは独り身で、老人ホームで暮らされていました。

 私がその教会に伺いはじめてから2年ばかりが経った頃のことですが、Nさんは次第に認知症が進むようになり、教会にもお越しになれなくなりました。それから3年経った年の秋に、私は、Nさんが入っておられる老人ホームを訪問しました。Nさんは椅子にこしかけておられ、その姿は以前のままでしたが、私が声をかけても、表情はまったく動くことがなく、あの優しい笑顔はありませんでした。職員の方のお話によれば、Nさんはここ1年ほど、ほとんど声も出なくなってしまい、誰が訪ねてきても分からず、反応もなくなっているとのことでした。

 私は、Nさんの手をとって、お祈りをしました。すると、最初はまるで力のなかったNさんの手がぎゅっと私の手を握り返してこられたのです。

 そして、Nさんは、小さな声で、しかしはっきりとこう繰り返されたのです。

 「イエスさま、ケンジをお願いします。イエスさま、ケンジをお願いします。」

 そう繰り返されるのです。その時、Nさんはぼろぼろと涙を流されて、その涙がほほを伝っていきました。その場におられた職員の方々も非常に驚いておられました。

 それはほんの一瞬の出来事でした。私が、帰る時には、Nさんはもういつものように固い表情に戻り、一言も言葉を出されることはありませんでした。

 あの時、Nさんが声に出された「ケンジ」とはどなたなのかは謎のままでした。Nさんのご主人の名前ではありませんでしたし、職員の方も心当たりがないということでした。きっと、混濁されていたのだろうと思ったのです。

 Nさんのお葬式に参列した時に、Nさんを良く知る方から大切な話を伺うことができました。実は、Nさんには、一人息子さんがおられたのだけれども、Nさんが26歳の頃、その息子さんがまだ3歳の時に、原因不明の熱病にかかり天に召されてしまった、のだということ。そして、その息子さんのお名前は、「健二」君であったのでした。

 私は、今、きっとあの一瞬、Nさんは60年前に戻られていたのだと思うのです。60年前に、Nさんが本当に経験されたことをあの時に繰り返されたのだと思うのであります。60年前に、きっとNさんは、本当にイエスさまの手を握り締めながら、健二君のことを祈られていたに違いありません。2000年前のマリアや弟子たちが経験したように、イエスさまは、事実、Nさんの前に「現われられ」たのだと思うのであります。

 私たちも、私たちの前にイエスさまが事実現れられる時があるのでありましょう。その時が、いつなのかは分かりませんし、そしてまた、もうすでに現われておられるのかも知れません。エマオの途上でのクレオパたちのように、後から、それが主であったことに気づくのかも知れません。

 空の墓の前で、若者は、マリアたちにこう告げました。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」 私たちにとって、主と出会う場所である「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。みなさんにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。そんなことを、今日、この復活日に黙想できればと思います。

 一言お祈りします。

 主なる神さま。主イエス・キリストは弟子たちに現われられ、そして私たちにも現われてくださいます。どうか、私たち一人ひとりが、そのご復活の主と出会うガリラヤへと辿り着くことができますように、どうぞ強め、導いてください。

 この祈りを尊き主イエス・キリストのみ名を通してみ前におささげいたします。

 アーメン

教区間協働!? 再編!? (1)

日本聖公会は昨秋開催された第65(定期)総会において、教区制改革に関する画期的な決議をしました。具体的には日本聖公会にある11教区を3区域(東日本、中日本、西日本)に分けて宣教協働区とし、協働委員会を設置して区内の運営、宣教・牧会などについて協働を推進し、教区再編についても検討を始めるというものです。中部教区は、横浜・京都・大阪各教区と共に中日本宣教協働区に属します。また、教区主教を置かずに(選出せずに)、同じ宣教協働区内の主教の一人が管理主教となり、原則として5年以内に他教区との合併等の再編を目指す「伝道教区」への道をも新たに開きました。

そのような中、北関東教区では次期教区主教選挙を行わず、伝道教区になることを同教区会で決議し、先日3月6日に開催された第66(臨時)総会において、本年4月1日より北関東教区が伝道教区になることが正式に承認されました。また、10年以上にわたり合併を視野に入れた協働関係を構築してきた大阪教区と京都教区は、今秋の両教区会において合併の議案が提出されることになっています。

このように日本聖公会は大きな変革期を迎えていますが、そもそも教区区域再編の問題は日本聖公会組織成立時より繰り返し議論され、特に1970年代および2000年代には総会決議により専門の委員会が立てられて積極的な調査、研究が行われました。しかし、これまで「総論賛成・各論反対」の域を超えることは容易ではなく、ようやくここに至って日本聖公会全体の現実的、実践的な課題として受けとめる必要に迫られています。

ともしびの紙面を通して、状況を共有しながら教区制改革について共に考え、意見交換できる機会になることを願っています。

主教補佐
司祭 テモテ 土井宏純

中部教区報『ともしび550号』(2021年3・4月号)より

また、来るね!

 教会の働きと共に保育園での働きがある。「おはよう!」「お父さん久し振りだね」「お母さんお迎えご苦労様」と子どもたちの登降園時の風景である。ご家族の方とこの他愛のない会話をするのが楽しみであり、時間を許す限り門に立つようにしている。そのなかで、降園時に少し遅れてお迎えに来るご家庭がある。大体10分くらいの時間ではあるが、その子は「園長先生とのお話タイム!」と言って、園庭のベンチに2人で座ってお喋りをするのがお決まりとなっている。何が好きなのか?というシリーズで、今日は動物、今日は食べ物、今日はテレビや漫画というように好きなものを挙げて、そこから話を広げていくのである。
 その子がある時、「何だかドキドキするよ」と言ったのである。それも、何日か続けて言うのである。そこで、「何でドキドキするの?」と聞いてみたら、「だって、お母さんがもうじき来るから」と答えてくれたのである。その時、あぁこう思うということはこの子は、どんなに遅くなってもお母さんは迎えに来てくれることを信じているんだな。一人でこうやって待っていても、迎えに来ることを信じているから笑って待っていられるのだろうな、って思うのである。携帯やスマートフォンを持っているのが当たり前のような世の中になった。待ち合わせとはいっても、時間も場所も何となく決めておけば会える時代となった。昔はそうはいかなかった。場所も時間も予め確かめ、それでも上手く待ち合わせが出来なかった場合には諦めるか、駅には備え付けの掲示板があった。掲示板の文章の内容も微笑ましいのが多かった。時間が経過すると消される旨も書いてあった。このように、待ち合わせ一つ取っても時代が大きく変わった。しかし、それは、待ち合わせのやり方が変わっただけで、会いたいという思いはいつの時代においても変わりはないだろう。
 教会の暦でも待つ季節がある。クリスマスはもちろんのこと、イースターもある意味イエス様が来られるのを待っている。そして、再びイエス様がこの世に来られるのを待ち続けている。私たちはどんな思いで待ち続けているだろうか。この子のように、ドキドキしながら待ち続けているだろうか、何となく待っていることはないかと省みる自分がいる。小学生のころ、家で留守番をしていたとき、親の帰りが遅いと何となく不安になり落ち着かなかった記憶がよみがえる。年齢を重ねると留守番で待つことがあっても、そのうちに帰ってくるから先に寝ていよう、朝にはいるだろうと思って、先に寝てしまったこともある。寝てしまうのは、不安から逃れるためでもあった。改めて、待つことの楽しさをこの子から教わった気がする。そして、会えることを信じるということも教わった。
 そして、この子は帰るときに、いつも「また、来るね」と言って手を振って、嬉しそうにお母さんと車へ乗り込む。明日の朝には、また保育園で会えることを信じて、「また、来てね」と言って手を振り返す。こちらも自然と笑顔である。イエス様に「また、来てね」という思いにいたる自分があり、ドキドキしながら待ち続ける自分でありたい。

司祭 フランシス 江夏一彰

(上田聖ミカエル及諸天使教会 牧師)

麦畑(「ともしび」3・4月号)

 主教としての働きをはじめて、あらためて感謝なのは、教区の一つひとつの教会を訪問できることです。降臨節には、実に30年ぶりに一宮聖光教会を訪れる機会が与えられました。現在、聖堂の新築中ですが、旧聖堂での主教司式の最後の聖餐式を信徒のみなさまと共におささげすることができました。
 礼拝前、聖堂前の植え込みに、少し錆びた恐竜のオブジェが置かれているのを発見しました。信徒さんに伺うと、それは長い間司牧された菊田謙司祭の娘さんで、かつて私が名古屋学生センターの主事をしていた頃からの青年仲間の片岡真実さんが作られた、大学の卒業制作だとのことでした。
 真実さんは今や世界的なキュレーターとなられ、現在、東京・六本木にある森美術館の館長や国際美術館会議会長を務められています。先日も森美術館の特別展を、片岡館長直々のご案内で鑑賞させていただきました。1月5日付け朝日新聞夕刊にも一面を使って真実さんのインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で印象深かったのは、「名前『真実』は新約聖書の一節に由来する」と記されていたことです。
 昨年末、2022年に開催される国際芸術祭「あいち2022」(旧「あいちトリエンナーレ」)の芸術監督を、真実さんが担われることが発表されました。その記者会見の中で、未来のみならず過去の多様な人類の歴史にも光を当て、新型コロナウイルスや、人種、ジェンダー、民族的な差異に対する差別や不平等などの課題を、現代の問題としてとらえ対峙していくことの大切さを強調された上で、こう語られたのです。
 「生きることは学び続けること。未知の世界、多様な価値観、圧倒的な美しさと出会うこと」
 私は、これはまさに彼女の「祈り」なのではないかと思います。私たち教会が語るべきメッセージのひとつが、ここにあります。