日野原先生から教えられたこと ―「寄り添う」ことの意味―

去る7月18日、聖路加国際病院名誉院長、日野原重明先生が主のもとに召された。実に105歳のご生涯であった。青山葬儀所で営まれた葬送・告別式には、約4千人の人々が、日野原先生との、この地上での別れを惜しんだ。日野原先生には、個人的にも、さまざまなことを教えていただいた。4年ほど前、聖路加の理事会終了後に懇親会があり、たまたまお隣の席が日野原先生だった。日野原先生は、私に、「ところで西原さんはおいくつですか」と尋ねられた。私は、「ちょうど50歳になりました」と答えたところ、日野原先生から、「ああそうですか。あと50年がんばってね」と返されたのも愉快な思い出である。
忘れもしないのは、2013年8月に、聖公会関係学校教職員研修会の主幹校を立教大学が務め、私は、副総長として、同研修会運営の実行委員長に任ぜられ、基調講演の講師を日野原先生にお願いしたことである。日野原先生には、「一人ひとりの存在と共にあること―聖公会学校の原点を確かめる―」という主題で、ご講演いただいた。日野原先生は、ご自身の立教大学との深い繋がりを話された後、このようなことを語ってくださった。
「世界で最初の近代的なホスピス、聖クリストファー・ホスピスが、ロンドンの郊外のシデナムというところにあります。その創立者シシリー・ソンダース先生に、ソンダース先生が長年やってきたホスピスのことを一言で言えば、どういうことかと聞きました。がんの患者で痛みがある患者にモルヒネを与えて、そうして苦しみをとり、死の不安をできるだけとってあげるという、命が制限された患者に何が必要であるかを一言で私に教えてくださいと言ったら、彼女が言ったことは、”Being with the patient”、『患者とともに』。患者がだんだん、だんだん亡くなる時に、
患者がいろいろなことを思い出して語ることを静かに聞いてあげ、ああそう、ああそうということをして、患者が語る言葉を静かに聞きながら、その腕を握ってあげて、そして患者と一緒に死ぬような態度。これがホスピスの中に必要であるということ。死ぬ人と治療する人ではなしに、一緒に死ぬのだ、ともに死ぬのだ。これが『寄り添う』という、”Being with the patient”の一番大切なことであるということだ、と。」
日野原先生のこの言葉は、これからの医学において重要な視点という文脈であったが、私たちの教会にとっての〈宣教・牧会〉の核心とは何かについても、大いに示唆されている。一人ひとりの教会につらなる者に、「寄り添う」こと。この社会、世界で、痛んでいる人々、泣いている者たち、重荷を背負って生きざるをえない一人ひとりに、ていねいに「寄り添う」こと。それは、確かに、主イエス・キリストが、この地上でなされた働きに、倣うことに他ならないのである。
(岡谷聖バルナバ教会牧師)

宣教会議2017

9月17日(日)・18日(月)、名古屋聖マタイ教会にて、宣教会議2017(中部教区ヴィジョン)が開催されました。2022年までの中部教区の宣教と牧会をめぐって、様々な議論が行われました。後日報告書を作成いたします。宣教会議1 宣教会議2 宣教会議3 宣教会議4

そこにいるということ

先日の巡回の折、しばらくぶりにある退職司祭(故人)のご夫人にお会いしました。前回の訪問時には少し体調が良くなかったようでお会いできませんでしたので、お元気なご様子に安心しました。ご挨拶をさせていただくと、お元気とのこと。「教会のことは何もできませんが…」と言われますので、ご夫人がいてくださるだけで皆さん嬉しいのですと申し上げました。
長く信仰生活を続けておられる方がいつも礼拝に出席しておられるということは何かホッとするものです。そこにおられるというだけで信仰を醸し出してくださるように感じます。
その少し前には別の教会を巡回しました。聖餐式の途中で小さい子供がむずかるためお母さんが気を遣って礼拝堂の外に連れていかれました。わたしは個人的には子供が多少むずかっても聖餐式という空間の中にいるということは大切なことだと思っています(泣き叫んでいる子を放置しておきなさいということではありません)。
小さな子供や赤ちゃんは聖餐式の意味や内容、説教も理解できないでしょう。しかし、理解できなくてもみんなが礼拝している空間にいるということが大切なのです。その場にいて礼拝の空気を全身で感じることにより、神様を知り、イエス様を知り、信仰の成長へとつながっていくのです。
 ところで、今月号をもって「平和の歌」が終了します。足掛け7年にわたり多くの皆様にご投稿いただきましたこと感謝です。
殊に、選者としてご奉仕くださいました黒田淑子さんは歌人としてのお忙しい身にもかかわらず、また、途中体調を崩されたにもかかわらず長い間ご奉仕くださいましたこと本当に感謝です。これからもご健康に留意されご活躍されますよう心よりお祈りしています。

うしろ姿のしあわせ

「アっ~、今日も抜かれてしまったァ!!」
職場へは最寄りの駅から歩いて行くことが多いのだが、必ずと言って良いほど、途中で追い抜かれてしまう相手がいる。その相手とは、中学生の女の子である。体は小柄で、手足も細く、一生懸命にその手を振りながら、自分よりも大きなカバンを背負って走り去って行くのである。走らなくては間に合わないのかなぁ、と、お節介なことを思うのだが、その光景が微笑ましくもあるのである。
ある朝のこと、その女の子が歩いていた。と、思ったら走り出し、また、歩いていたのだ。何となく、その走り方も歩き方もぎこちなく、いっぽうの肩も下がっているのに気が付いた。よくよく見ると、膝の辺りに繃帯が巻かれていた。おそらく、何処かで転んだかして怪我をしたのだろうが、その理由を知る由もない。そういえば、この女の子の顔を見たことはなく、辛く悲しくなっていないかと慮ってもしまうのだが、推察でしかない。
こう思うと、自分は沢山の人のうしろ姿を見て歩んできた、また、歩んでいることをあらためて感じた。そのうしろ姿は、若い時には沢山の先輩方である。しかし、そのうしろ姿は小さく、遥か彼方に見えるか見えないかであり、
早くそのうしろ姿が大きくならないかと、願ったものである。勿論、願ってばかりでは大きくはならず、大きくならないかと途切れ途切れに走ったりもした。しかし、そのうしろ姿に追いつくどころか、ちっとも大きくならないのである。また、小さくても見えれば良い方で、どうしても、うしろ姿が見えない方もおられる。
うしろ姿を見て歩いてきたとばかり思っていたが、年を経るとともに見られる側になってもいる。「江夏先生のいる教会へ行ってみたい」と声を掛けられることがある。その相手は、信徒ではない方が多く、また、実際に足を運んで下さる方もおられる。もし、自分のうしろ姿を通して教会への思いがつながるのであれば、身の引き締まる思いである。何故なら、自分が見えないうしろ姿の方が、自分のすぐ横を一緒に歩いて下さっているからである。その方が前を歩いているのではなく、その方が歩んだ道を自分が歩くとき、すぐ横で支えて下さっているからこそ、その方のうしろ姿が見えないことに気付いたのはいつのことだっただろうか。
年を経ると、歩みが遅くなる。必然的に、その横を若い人たちが、スゥっと追い抜いていく。そして、自分は再びうしろ姿を見ながら歩くことになる。この時に見るうしろ姿は、自分は支える側になってもいる。うしろ姿には、顔以上の表情が見える気がする。顔で笑って、背中で泣いている若い人たちを見てきた。顔だけではなく、うしろ姿にも笑顔でいられる世の中になって欲しいと祈り、また、働いていきたいと思う。
小さな女の子は、今日も一生懸命に前を向いて、腕を振りながら走っている。大きなカバンを背負いながら。この頃は、頼もしくさえもある。その小さなうしろ姿の力強さに、自分もしっかりと前を向いて、時には振り返りながら、歩んで行きたい。
(軽井沢ショー記念礼拝堂勤務)

新潟・長野伝道区合同礼拝

新潟・長野伝道区合同礼拝案内 (2017.10.8)_000001 新潟・長野伝道区合同礼拝案内 (2017.10.8)_000002高田降臨教会にて、10月8日(日)11時より、長野・新潟伝道区合同礼拝が行われます。櫻井彪さんによる講演「原子力発電の真実とこれからの世界」も午後に開催されます。みなさまのご参加をお待ちしています。

軽井沢ショー記念礼拝堂コンサート

軽井沢ショー記念礼拝堂に、東京から聖ルカ礼拝堂聖歌隊がやってきます。素敵な歌のひとときをお楽しみください。2017軽井沢コンサート_000001

平和を想う時

先日、岐阜市で開催されていた「子どもたちに伝える平和のための資料展」を見てきました。岐阜市は1945年(昭和20)7月9日深夜から10日にかけて米軍の空襲を受け、市の中心部のほとんどが焼かれ、約900人の犠牲者が出ました。
岐阜市は7月9日を「平和の鐘の日」とし、空襲での犠牲者を追悼し、戦争の悲惨さ残酷さを後世に語り継ぎ、平和への祈りを込めて鐘を鳴らします。この資料展もその一環として開催されています。主催は岐阜市ですが、企画・制作は「岐阜空襲を記録する会」が行っており、会の事務局長は岐阜の教会のメンバーが務めておられます。
資料展の規模は小さなものですが、畑を耕している小学生の様子や空襲前と空襲後の市内を写した写真、実際の焼夷弾などが展示されています。アメリカ軍が空襲1ヶ月前に撮影した岐阜市の航空写真は実に鮮明です。
当時の岐阜市中心街は空襲による火災の延焼を防ぐため道路が拡張されましたが―岐阜の教会もその時に強制的に撤去させられました。(戦後、現在の場所に移りました)―いざ空襲になりますと焼夷弾の威力の前には道路の拡張など何の意味もありませんでした。市内は焼け野原と化したのです。
8月は平和を想う(願う)時です。戦争は国と国、人と人とが争い、殺し合うことであり―しかも、無垢な非戦闘員が一番の犠牲になります―、平和な生活がすべて灰燼に帰すことを意味しています。
旧約のイザヤは「剣を打ち直して鍬とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(2・4)と預言していますが、戦争の気配を感じさせるような昨今、武力では決して平和な世界は生まれないということをわたしたちは過去の戦争の経験から学ぶのです。

直江津聖上智教会

暑中お見舞申し上げます。お体を御自愛ください。
数年前の5月のある夜、突然電話があり、上越市の直江津聖上智教会に行くように命ぜられ、それ以来同教会と関わりを持っている。
その昔、高校時代、担任の教師が青山学院出身の英語の教師であり、ホームルームや英語の時間に、英国事情・米国事情を話してくれた。又、Ernest Hemingwayアーネスト・ヘミングウェイの第一次大戦中のイタリア戦線を題材にしたFarewell to Arms
『武器よさらば』や、For Whom the Bell Tolls『誰がために鐘は鳴る』、メキシコ湾での漁師である老人と海の生き物との葛藤を描いたThe Old Man and the Sea『老人と海』を読まされ、平和について考えさせられた。これらのこともあり、高校3年時に進級する春、祖父が、当教区出身でA大学のチャプレンをしていたB司祭を訪ね、A大学の案内書を持ってきたが、青山学院に親しみを感じ同大学に進学した。
東京大学が入学試験を中止した年であり、大学紛争が激しかった時であった。聖公会の信徒も在学していた。
祖父母から「大学の近くの、大きくもなく、小さな教会に行きなさい」と言われ、門をたたいたのが大学から徒歩20分ほどの場所にあった渋谷聖公会聖ミカエル教会であった。閑静な住宅地にあり近くには広尾高校、実践女子大学、國學院大學、聖心女子大学があった。
聖餐式は歌ミサであり、高校時代まで過ごした上田聖ミカエル及諸天使教会と異なり、ウルトラ・ハイチャーチであり、眼を白黒、ぱちくりして出席していた。
地方出身の青年もいた。その中に、直江津聖上智教会出身のCさんがいた。彼女は、渋谷の広尾にある日本を代表する医療機関の看護大学に在籍していた。直江津に帰省し、上京した折、名物「笹団子」を頂戴した。時々、食事をしながら直江津の教会の事を熱い思いで話してくれた。
戦後、カナダ聖公会の援助のもと、アンダーソン司祭夫妻はじめ、多くの教師、信徒の方々により始められ、開拓伝道により設立されたのが直江津聖上智教会である。あの時から半世紀近くになる。まさか私が、直江津の教会と関わるとは思いもよらなかった。風の便りによればCさんは東北のある看護学校の教師をしているとの事である。
当教会については、時には林てる代先生、遠藤弓子先生の教えを受け、私自身なんとかやっています。
当教会の設立に関し、その取り巻く環境は非常に厳しいものでしたが、それにもかかわらず、その後、創意と工夫により、幼稚園を開園し、今子ども達の声で溢れています。
吉田敏子園長をはじめとして多くの先生方が、将来の日本を背負う子ども達のために熱意を持ち懸命に教育、保育しています。
イースター、クリスマスには、園の先生方も聖餐式に出席し、大きな声で、答唱、唱和し、聖歌を歌い元気が漲ります。今夏、子ども達のためのプログラムもたくさん組まれています。願わくば、直江津聖上智教会、聖上智幼稚園(現・聖上智オリーブこども園)が神の器として用いられますよう、神の栄光が一層増し加わりますよう祈っております。
(長野聖救主教会、直江津聖上智教会主日勤務)

人垣に囲まれて

この4月から、直江津、三条に加え、長岡の教会へも月に1回足を運ぶことになりました。また、従来の聖上智オリーブこども園チャプレンに加え、三条の聖公会聖母こども園へもチャプレンとして月に2回ほど通うことになり、老朽化したマイカーの距離計がどんどん数値を増やしています。最初、このお話をいただいたときには、あっちこっち行けて楽しいな、なんて思いましたが、いざ始まってみたらなかなか…です。帰ってきて駐車場へ車を入れるとき、気が抜けて、壁をこすって車に傷を付けてしまうこともありました。
そうした日々を過ごす中で、癒やされるのは子どもたちや保護者、同じ志をもつ職員たちとの関わりです。人は自分を写す鏡と言いますが、自分が笑顔で心開いて言葉をかけていくとき、応えてくださる相手との出会いは、本当にうれしいものです。相手が幼い子どもであればもっとうれしいです。じっと子どもの様子を見て、子どもの表現を待って、子どものペースに合わせて付き合うように心がけています。そうした中で、次第に仲良しになっていけたら、とってもうれしい気持ちになります。保護者との出会いも手応えがあって、最初は赤の他人どうしが、次第に打ち解けていって、子どもの成長を喜び合ったり、園行事を一緒に楽しんだりすることができるようになってきます。職員とは、とくにうちの幼稚園の職員とは毎日顔をつき合わせていますので、非常に濃厚な関係になります。おそらく私の本心は見抜かれていることでしょう。幼稚園の仕事に共に携わり、職員集団に支えられて園長職をさせていただいているありがたさを思います。
初めて出会った子どもたち、最初は硬い表情を見せていたのが、次第に打ち解けてきて、そばまで寄ってきてくれたり、笑ってくれたり、「園長先生」「牧師先生」「チャプレン」と呼びかけてくれたりするようになってきます。目には見えない心の中で、少しずつ関係性の糸が結ばれていく、うれしい時です。
私は牧師として幼稚園の仕事をさせていただいていますが、一体何のためか、教会に幼稚園が併設されている意義は何なのか、考えさせられます。幼稚園の営みはイエスさまの教えの具体化、イエスさまの御業の表れです。日々の人間関係に於いてイエスさまの愛が輝きでる。幼稚園に関わる子どもも大人も、お互いの関わりを通してイエスさまの愛に触れることができればすばらしいです。
幼児教育の制度が大きく変わっていく中で、建園の精神を忘れず、言葉だけでなく行いによって、キリスト教主義の幼稚園やこども園、保育園がその営みを続けていくことができるように祈り願います。私は毎日人垣に囲まれて、大変充実した生活を過ごさせていただいています。ありがたいことです。幼い子どもたちのためにも、一人一人が大切にされる社会を築いていく責任を感じます。私たちの国籍は天にあります。唯一の神こそ、私たちが従うべきお方です。
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師、長岡聖ルカ教会・三条聖母マリア教会管理牧師)

「共謀罪」の恐ろしさ

去る5月23日、十分な論議がし尽くされたとは思われない状況の中で、衆議院本会議において「共謀罪」法案が政府与党によって強行採決されました。この法律の怖さは何と言っても一般の国民がテロの調査・捜査対象にされ得るということにあります。もちろんテロは絶対に許されるべきではなく、その防止のためには十分な取り締まりが必要であることは言うまでもありません。
政府は、一般市民はテロ捜査の対象にはならないと言っていますが、テロを画策する人(々)は一般の市民と区別のつかない状況の中で、しかも極めて秘密裡にそれを行います。と言うことは一般市民であっても少しでも疑わしいと思われれば―捜査する側がそう判断すれば―いくらでも、誰にでも捜査が及ぶということを意味しているのです。
戦前、「治安維持法」という悪法がありました。当時の司法相は議会で「無辜の民にまで及ぼすことのないよう十分研究考慮した」と言ったそうです。ところが、実際に法律が施行されると全くそうではありませんでした。一般市民はもちろん、宗教団体もその対象とされたことは改めて申し上げるまでもありません。
中部教区主教であった佐々木鎮次主教は―戦争中には東京教区主教に転出しておられましたが―スパイ容疑で憲兵隊に拘禁され、寿命を縮めるほどの厳しい取り調べを受けました。南東京(横浜)教区の須貝止主教もそうでした。他の何人かの司祭たちも同様です。
恐ろしいことは官憲がある人(々)をスパイと特定すれば簡単に拘束することができてしまうということです。「共謀罪」はまさにそのような法律なのです。「治安維持法」の二の舞にならないと一体誰が保証できるでしょうか。