祈祷書の「特祷」とは?

 「特祷」は、英語では「コレクト(collect)」と呼ばれ、カトリックでは「集会祈願」、ルーテル教会では「つどいの祈り」などと呼ばれており、広くキリスト教諸教派で用いられている短い祈りです。もともとは「祈りを一つに集める」という意味を持ち、司式者が会衆を祈りへと導くための祈りとして位置づけられています。とくに聖餐式では、式の最初の部分(「開式」)を締めくくる重要な祈りです。司式者は、「祈りましょう」という招きの言葉に続きその日に固有の特祷を唱え、会衆は最後に「アーメン」と唱えることで、これをともに祈ります。こうして、その日の礼拝に参加者皆が「集められる」のです。
 第一祈祷書を編集したクランマーは、当時イングランドで用いられていたセーラム典礼からラテン語の特祷を英訳して採り入れたほか、いくつかの新しい祈りも加えました。その流れは今に続き、世界各地の聖公会で独自の特祷が用意されており、総数は千を超えると言われます。
 かつての祈祷書には、特祷と共にその日の使徒書と福音書も記されており、これらのつながりが明確でした。しかし、現在世界の聖公会で主流となっており、日本聖公会でも90年祈祷書から採用されている3年周期の聖書日課では、各年の日課ごとのつながりが薄く、すべてを特祷と重ね合わせることは原理的に困難です。大韓聖公会など、各サイクルごとに毎主日3種類の特祷を用意している例もありますが、今回の祈祷書改正では、これは今後の課題とし、従来通り1主日1特祷を基本としています。
 今回の改正案では、降臨節第1主日から三位一体主日までの特祷は、福音書の主題や期節の信仰的意味が反映されるよう配慮しました。一方で、聖霊降臨後の期節、いわゆる「特定」の期間は、日課が準継続朗読の原則で選択され、明確なテーマが設定しづらいため、聖餐式の導入部分を締めくくる祈りとしての機能に重きを置いています。
 内容面では、長年親しまれてきた伝統的な祈りも残しつつ、一方では助けや危難からの救いを願う内容の祈りが多く見られたところに、現代社会に応答する視点から、宣教・創造・命・平和と和解といったテーマを取り入れた新しい祈りを、バランスに配慮しつつ加えています。たとえば、8月には平和に関する祈りを、11月には聖徒の交わりや逝去者を覚える祈りを置き、期節の流れと信仰生活とをつなぐ構成としています。
 言葉の面では、堅い感じを与える漢語表現を可能な限り和語に改め、また神学用語を直接祈りの中で用いることも極力避けました。読みやすさを大切にする一方で、祈りとしての豊かさを損なわないよう慎重に言葉を選んだつもりですが、このあたりは試用してみてのフィードバックをお待ちしたいところです。
 特祷ひとつ取っても、それが形となって新祈祷書に収録されるまでには厖大な労力が必要です。また、祈祷書に記された言葉は、それが私たちの口を通して祈られてこそ、「生きた祈り」となります。新しい祈祷書を形にする働きのためにお祈りをお願いしつつ、それを実際に試用してみることを通して、私たちの信仰と礼拝が豊かにされることを願っています。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(松本聖十字教会管理牧師 東京教区主教座聖堂出向中)

長嶋茂雄さんとチャペル

 長嶋茂雄さんが6月3日に逝去されました。どの世代の者たちにとっても、まさにスーパースターでした。長嶋さんは、1954年立教大学に入学すると同時に野球部に入部。東京六大学野球で大活躍されました。2017年、立教大学が優勝した際には神宮球場で応援くださり、大いに喜んでくださいました。
 昨年の立教学院創立150周年記念に、立教大学のキャンパスに設置された長嶋さんの記念碑のために、このようなメッセージを寄せてくださいました。
 「立教の後輩たちへ。自分の持っているもの、そのすべてを出し切ったら、悔いのない一生になるはずです。そのために社会に出たら自分をどう表現したらいいのか。僕はそれを学ぶのが学生生活だと思います。自分を甘やかさないで、何事にも積極的に取り組んで、社会に出たら示すものをたくさん蓄えてください。2024年5月11日 長嶋茂雄」
 2021年12月に、私は長嶋さんとお食事を共にする機会を与えられました。幼い頃からテレビで見ていた長嶋さんとご一緒させていただくのは光栄でしたが、その謙虚かつ温かいお人柄にあらためて感服しました。立教大学への深い愛情も伺うことができ、感謝でした。
 その際に、長嶋さんが、自分にとって立教大学で最も懐かしい場所は実はチャペルだとおっしゃったのを忘れられません。チャペルで祈る時間と空間が、
何よりもお好きだったとのことでした。80歳を超え、お体の不自由さと共に生きる中で、ますますチャペルへの思いが深くなっていったそうです。
 学生時代に撒かれた「祈りの種」は、こうして60年以上の歳月を経て、実をつけ、花を開かせるのだということを、あらためて確認することができた瞬間でもありました。
 立教大学ではこの9月に、長嶋さんが大好きだったチャペルで、長嶋さんの逝去者記念の祈りの時を持つことを決めました。

礼拝カレンダー2025年8月号

7月も後半に入り、高温の日々が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
8月号のセンターニュースが完成しましたので、お知らせいたします。

※7/24修正…新生礼拝堂、飯山復活教会、直江津聖上智教会に修正がありましたので、赤字部分をご覧ください。

※7/28修正…大垣聖ペテロ教会の第5週に修正がありました。

2025年度長野伝道区合同礼拝につきまして

8月16日(土)10時30分~13時、軽井沢ショー記念礼拝堂で、
長野伝道区合同礼拝が行われます。
長野伝道区内の教会の皆様は、教会単位でお申し込みください。
それ以外で参加をご希望の方は、大和孝明司祭(メールアドレスubicaritasyam@gmail.com)までお問い合わせください。

更生のための拘禁刑へ

 創世記3章の失楽園物語の中で、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり、苦しんで食べ物を得ることになる。」という神さまの言葉が、善悪の知識の木から取って食べたアダムへの罰として記されています。この箇所から、キリスト教では土を耕し食べ物を得るための労働が、神さまからの罰であるように考えられることがあります。
 しかし、人間がその管理を任せられていたエデンの園においては、そもそも労働は神さまが、あらかじめ人間のために計画してくださった賜物であり、神さまを賛美する手段であったことが分かります。そして労働は今もなお、神と隣人とに仕えるための賜物であることは、聖書全体から導き出される考え方でしょう。
 しかし、労働が罰という考え方は肯定しませんが、労働をとおして、罪を自覚し、悔い改めに導かれ、罪を告白し、赦される。この継続的な繰り返しによって、霊的成長と自己変容をともなって、神さまに喜ばれる人生を送るという更生のプロセスがキリスト教の人生の歩みの一つのモデルとしてあるように思います。
 6月1日から、刑法が改正され、懲役と禁錮が一本化され、拘禁刑が導入されました。わたしたち教誨師も、この拘禁刑の導入にあわせて、人権尊重と更生支援の研修を受けて、より良い形で収容者の皆さんへの支援が出来るようにと準備をしてきました。
 従来、懲役の受刑者には刑務作業が義務付けられていた一方で、禁錮の受刑者は刑務作業が任意とされていました。しかし禁錮刑の受刑者も刑務作業を希望することが多く、処遇に差がなくなっているのが実態でした。新設された拘禁刑では、刑務作業を行わせるかどうかは受刑者ごとに決定され、柔軟な処遇が可能となりました。さらに、受刑者の特性に応じて更生プログラムを組むことが出来、再犯予防の効果も大きく期待されているのです。
 そのような目的で拘禁刑が導入されたのですが、わたしたちの住むこの日本は、犯罪件数自体は減少傾向にあるにもかかわらず、再犯者率は高い状況が続いています。
 日本の再犯者率が高い主な理由は、出所後の社会復帰が難しいことです。一度罪を犯してしまうと、いつまでも「前科者」というレッテル張りをされ、社会からの偏見にさらされます。それにより就労機会が不足し、住居の確保が難しくなり、再犯を繰り返す悪循環に陥りやすい状況が続いているのです。
 そもそも人権は神の似姿という存在の尊さが根拠ですので、功績はもちろん罪過も人権には影響しません。たとえ罪を犯してしまった人であっても、その人の人権は尊重されなければなりませんし、罪を償って出所してきたのなら、なおさらです。
 刑務作業が刑罰であることは、失楽園物語のアダムへの神さまの言葉と重なってしまいますが、日本の刑罰もやっと拘禁刑へと移行するにあたり、わたしたち教会も、労働はもちろん、神さまに喜ばれる人生を歩むための営みすべてが賜物であり、神さまを賛美するための交わりを、すべての人の人権を尊重しながら、豊かにして参りたいと思います。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マタイ教会牧師)

「ローマの主教」としての教皇フランシスコ

 4月21日、第266代ローマ教皇フランシスコは復活日を迎えた翌日、主のもとに召されました。88年のご生涯でした。生き辛さ、痛み、悲しみをかかえている人、居場所を見失った人に、主はあなたと共にいると告げ、謙遜さに生きる主教職の模範を示された立派な教皇でした。私も、フランシスコ教皇が2018年6月にジュネーブの世界教会協議会のエキュメニカルセンターを公式訪問くださった際に、親しくお話させていただきました。明確なヴィジョンを持たれ、優しくもユーモア溢れるエキュメニカル・リーダーの姿に感銘を受けました。
 1999年5月に「第2次聖公会―ローマ・カトリック国際委員会」の作業成果の一つとして、報告『権威という賜物』―「教会における権威Ⅲ」が発表されました。これは1968年に、当時のカンタベリー大主教、マイケル・ラムゼーとローマ教皇、パウロ6世の合意に基づき招集された、両教会の可見的一致の可能性を探求するための、実に45年以上にも渉る地道な神学対話の一つの帰結でした。
 この報告がきわめて重要な意味を持ったのは、その中で、「聖公会に属する者は、特定の明確な条件のもとに、ローマの主教による普遍的首位性の行使に対して開かれており、またその回復と再受容を願うものである」と宣言されているからに他なりません。ローマ教皇の首位権の承認問題は、まさに16世紀英国のヘンリー8世時代以降、英国宗教改革の最大の要点としてあり続けてきた問題であり、したがって聖公会神学に本質的に関わる課題でした。
 私たち聖公会につらなる者たちも、ローマ教皇を、地上にあるすべてのキリスト者の一致のしるしである「ローマの主教」(Bishop of Rome)として、その権威を限りなく大切にしているのです。ローマの主教、フランシスコのお働きに感謝しつつ、魂の平安を共に祈りましょう。