礼拝カレンダー2024年1月

2023年も残すところあとわずかになりました。
2024年1月の礼拝カレンダーが完成しましたので、お知らせいたします。

皆さまどうぞ良い年末年始をお過ごしください。

1/16修正…1/28の大垣の開始時刻を15:00に修正しました。
12/28修正…1/7の愛知聖ルカ、豊田聖ペテロ聖パウロ、1/14の豊田聖ペテロ聖パウロ、1/28の豊田聖ペテロ聖パウロを修正しました。

「あなたの輝き、栄光と威光 驚くべき御業の数々を私は歌います。」詩篇145篇5節

 クリスマスから新年を迎えようとしています。1年があっという間だったということを感じます。生物学者の福岡伸一氏は、『動的平衡』という本の中で、メモリーを書き込むような記憶物質は人の体には存在しないと言います。しかし時間が過ぎた感覚は誰にもあります。同じ1年が、子どもの頃よりも大人になるとあっという間に年末だと感じないでしょうか。私たちの細胞分裂は、タンパク質の分解と合成のサイクルに左右されています。なので加齢とともに新陳代謝の速度が遅くなって、私たちの体内時計の「秒針」である新陳代謝が遅くなっている事に気付かないのです。「まだ1年の3分の2ぐらいしか経っていない」と感じるその時には、実際の1年が過ぎていて「あっという間の1年だ」と感じるのだそうです。時代の変化、身体の変化、さまざまな変化にウロウロするばかりです。パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と私たちに呼びかけます。私たちの1年、生涯を振り返ると、喜びよりも悲しいことの方が多いような気がするのではないでしょうか。そう思うのは、私たちの人生は自分の思い通りにならないからではないでしょうか。自分のいたらなさに加え、思いもよらない病や災害があるかも知れません。喜びがあっても、空しくさせるような現実に人の弱さやもろさを知ります。み子イエスはその中に来られたのです。主イエスの降誕のまわりには、神の訪れを喜びとして受けとめる人々がいます。心の底から自分を満たしてくれるのは神しかいないという渇望する人々です。ヨセフは無力感の中でインマヌエル(神は我々とともにおられる)という名を教えられました。占星術の学者たちは、遠く暗闇の中で行くべき道を求めました。自分自身の弱さを知れば知るほど、神は私たちのところに来てくださいます。み子イエスの降誕を喜べるのです。「主において常に喜ぶ」ことができるのは、絶望の深みの苦しさにありながら、その中で神の愛にゆだねる者が真の喜びにあるのです。クリスマス近くになると書店にはクリスマス向けの絵本が並びはじめます。私が、なかなか好きになれなかった絵本に「アンパンマン」がありました。どこか暗く、寂しげな絵だといつも感じていたからです。でもそれは、私の勝手な思い込みと偏見でした。アンパンマン誕生の経緯やキャラクターについての話をまとめた、『アンパンマン伝説』という本があります。作者のやなせたかしさんは、「アンパンマンをいつ、どうやって思いついたかはわからないくらい、迷い道を歩くような日陰暮らしの中で生まれたのだ」と言います。評論家の評判も悪く、出版社の編集者からも「あれはやなせさんの本質ではない。もう2度と書かないでほしい」とまで言われたそうです。ところが保育園や幼稚園の子どもたちの中からアンパンマン人気が出てきました。子どもたちがアンパンマンを生み出したのかも知れません。私たちが弱さの中にある時、そこは神の救いが与えられる時です。私たちが人生を迷って歩いていても、主イエスはともに歩いてくださるのです。主において喜ぶ事ができるのです。クリスマスの喜びを皆さんとともに、感謝をもって歌いたいと思います。


司祭 マタイ 箭野直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン・軽井沢ショー記念礼拝堂協働)

礼拝カレンダー2023年12月

教区会も終わり、教会歴もいよいよ降臨節前主日を過ぎ、年末感が漂ってきました。
12月の礼拝カレンダーが完成しましたのでお知らせいたします。コロナ禍で中止していたクリスマス礼拝カレンダーも今年は作成しましたので、合わせてご確認ください。

中部教区ポータルサイト開設のお知らせ

中部教区デジタル部は、デジタル技術を生かして教区の諸課題に取り組むことを目的として、昨年の教区会以降に新設されました。部内で検討した課題の一つに、教区や管区からのお知らせがなかなか信徒に行き届かない、というものがありました。おそらく皆様の教会におきましても、管区などからのニュースレターが受付に置かれていても、なかなか手にとって見ることができない、ということがあると思います。

 そこで、デジタル部では、こうした不便を解消するため、中部教区の信徒向けにポータルサイトを開設することにしました。ポータルサイトとは、インターネット上に広がっている情報に容易にアクセスするための入り口のようなものです。

 中部教区ポータルサイトでは、スマホひとつで、教区報「ともしび」のバックナンバーを読んだり、中部教区に関連する動画を視聴したり、管区のニュースレターを見たりすることができるようになっています。ぜひご活用ください。

http://chubunskk.3rin.net/

 ポータルサイトにはパスワードをかけています。その理由は、検索サイトなどによる不特定多数のアクセスを避けるためです。各教会でのパスワードの共有方法ですが、サイトに掲載されている内容は、「教会の受付に置いてあったり掲示板に貼ってあったりするもの」と理解できますので、たとえば週報などでお知らせいただいても問題ありません。(ウェブサイトへの掲載はご遠慮ください。)

 このポータルサイトは完成形ではありません。皆様が使いやすいように随時更新して改善していきますので、ご要望などがありましたらデジタル部(連絡先:中部教区センター)までご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。

クリスマス礼拝(岐阜)

12月24日(日)午後7時から
9つの日課と聖歌によるクリスマスイブ礼拝
*キャンドルの光の中での礼拝です。
司式・説教:牧師 司祭 ヨハネ 相原太郎

12月25日(月)午前10時半から
降誕日聖餐式
司式・説教:司祭 ヨハネ 相原太郎

礼拝はどなたでも自由に参加できます。事前連絡も不要です。

オルガニスト研修会のお知らせ

礼拝音楽部からオルガニスト研修会のお知らせです。

教区のオルガニスト研修会が、前回の愛岐伝道区に続き、12月16日(土)稲荷山諸聖徒教会を会場に行われます。
添付チラシをご覧いただき、対象の方にご案内いただけますようお願い致します。
(殊に新潟、長野伝道区。各教会へは中部教区センターよりFAXでお知らせ済み)

課題聖歌は、申込みの際にどの曲を弾かれるか希望を伺います。
(シーズンですのでクリスマスの時期の曲となっています)
また、聴講のみの参加も大歓迎とのことです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書第14章27節)

 この度、保育士の資格とともに、幼稚園教諭1種免許状をいただくことになりました。これは、昨年、愛知県豊田市にある幼稚園の園長先生をはじめ教職員の皆様のご理解とご指導のもと、保育の仕事をすることのできた賜物です。神様の恵みに感謝するとともに、子どもたちを含め幼稚園の皆様のやさしさに感謝いたします。この経験を活かしまして、いま、新潟市にある公立の病院で入院中の子どもたちの保育のボランティアをしています。しかし、公立ですのでキリスト教の話は一切できませんから、今までとは全く違った環境です。それでも、お母さん、おばあちゃん、子どもから、将来の不安というか、そういうことを「聴く」機会もあり、寄り添うことしかできませんが、言葉ではなく「体」で、「聴く」という態度で、神様からいただいたミッションを果たすということができればと思っています。
 イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という御言葉を、湖の上を歩くイエス様を見て驚く弟子たちに向かって話されました。「イエス様が湖の上を歩く」とはどういう意味があるのでしょうか。私はこれは比喩だと思っています。五千人への食事と同じようにです。
エミール・ブルンナーという神学者はこう言っています。イエス様の復活について、「彼らは嵐の湖で沈みかけているように見える人間になぞらえられる。実際はしかし彼らは、沈むことの出来る湖にいるのでは全然なく、溺れることのない浅い湖にいる、ただ、彼らはそれを知らないだけである」。どうでしょうか。イエス様が十字架にかかって死にそして復活しすべての罪ある人びとに聖霊をお与え下さったという出来事によって、
私たちの世界は、沈むと死んでしまう底の深い湖から、けっして溺れることのない浅い湖に変わったということを示しています。「イエス様が湖の上を歩く」とは、もうこの湖は浅いからおそれることはない、安心しなさいということを、身体をもって示しているのです。イエス様の十字架の死と復活によってこの世界が根本的に変わってしまったということ、イエス様のことを信じていようと信じていなかろうと関係なく、いま私たちが生きているこの世界は、浅い湖だということです。しかし、このことに気づいていない人々が多いのです。私も時々「ここは深い湖ではないか、舟が転覆したら、溺れて死んでしまうのではないか、結局、私は救われないのではないか」と不安と恐れを覚えてしまいます。しかし、本当に私たちすべての人は復活によって救われていますから、安心していいんです。怖れる必要はありません。
 これからもお祈りのうちに、イエス様からの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」の声を聴いていきたいとおもいます。そして、イエス様の復活の意味、この世の湖の底は、イエス様がその上を歩くほど浅い、だから、あなたは、いまここで、ありのままで救われているということを、イエス様のように言葉だけでなく、態度をとおしても、宣べ伝えていきたいと思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新潟聖パウロ教会牧師)


今こそ〈裸足の宣教〉を

 9月17日(日)、18日(月・休)の2日間、上田聖ミカエル及諸天使教会を会場にして、中部教区研修会が開催されました。コロナ禍と昨年の台風による延期もあり、実に4年ぶりの対面での教区研修会となりました。私が教区主教に就任してから初めて、信徒、教役者が一同に会しての研修会でもあり、私自身、本当に励まされ、力を与えられた時でした。
 昨年の教区研修会で予定していた、私の「ランベス会議報告」もようやくさせていただくことができました。初日夜の教会ごとのご挨拶も非常に盛り上がり、対面での顔と顔を合わせることの重要性を確信した次第です。
 2日目には、丁胤植司祭、相原太郎司祭、大和玲子司祭、土井宏純司祭が、それぞれ明快なプレゼンテーションをしてくれました。教区が置かれる厳しい現実を前にして、茫然とせざるを得ませんが、しかしながら、私は今回の教区研修会で、私たちの中部教区には間違いなく夢も希望も可能性も満ち溢れているということを確信しました。
 今回のキーワードは「裸足の宣教」でした。この言葉は、2009年に日本聖公会宣教150周年記念聖餐式説教でローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教が語られたものです。「宣教とは、地面の石くれによって、私たちの現実によって、傷つくこと、私たちの足の皮で直に地面を踏むことをも、進んで引き受けるということなのです。キリストの御足は、人間の歩みから生ずる妨げによって汚され傷つけられ、そして最後に拒絶という釘によって傷つけられるのです」(ウィリアムズ大主教)
 「今こそ原点に立ち返り裸足の宣教をしよう!裸足とは貧さを示す〈しるし〉。旅の終わりには必ずや足を洗ってくれる誰かがおられるのだ」
 これこそが、今回の教区研修会で私たちが共に確かめたことなのです。