「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書第14章27節)

 この度、保育士の資格とともに、幼稚園教諭1種免許状をいただくことになりました。これは、昨年、愛知県豊田市にある幼稚園の園長先生をはじめ教職員の皆様のご理解とご指導のもと、保育の仕事をすることのできた賜物です。神様の恵みに感謝するとともに、子どもたちを含め幼稚園の皆様のやさしさに感謝いたします。この経験を活かしまして、いま、新潟市にある公立の病院で入院中の子どもたちの保育のボランティアをしています。しかし、公立ですのでキリスト教の話は一切できませんから、今までとは全く違った環境です。それでも、お母さん、おばあちゃん、子どもから、将来の不安というか、そういうことを「聴く」機会もあり、寄り添うことしかできませんが、言葉ではなく「体」で、「聴く」という態度で、神様からいただいたミッションを果たすということができればと思っています。
 イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という御言葉を、湖の上を歩くイエス様を見て驚く弟子たちに向かって話されました。「イエス様が湖の上を歩く」とはどういう意味があるのでしょうか。私はこれは比喩だと思っています。五千人への食事と同じようにです。
エミール・ブルンナーという神学者はこう言っています。イエス様の復活について、「彼らは嵐の湖で沈みかけているように見える人間になぞらえられる。実際はしかし彼らは、沈むことの出来る湖にいるのでは全然なく、溺れることのない浅い湖にいる、ただ、彼らはそれを知らないだけである」。どうでしょうか。イエス様が十字架にかかって死にそして復活しすべての罪ある人びとに聖霊をお与え下さったという出来事によって、
私たちの世界は、沈むと死んでしまう底の深い湖から、けっして溺れることのない浅い湖に変わったということを示しています。「イエス様が湖の上を歩く」とは、もうこの湖は浅いからおそれることはない、安心しなさいということを、身体をもって示しているのです。イエス様の十字架の死と復活によってこの世界が根本的に変わってしまったということ、イエス様のことを信じていようと信じていなかろうと関係なく、いま私たちが生きているこの世界は、浅い湖だということです。しかし、このことに気づいていない人々が多いのです。私も時々「ここは深い湖ではないか、舟が転覆したら、溺れて死んでしまうのではないか、結局、私は救われないのではないか」と不安と恐れを覚えてしまいます。しかし、本当に私たちすべての人は復活によって救われていますから、安心していいんです。怖れる必要はありません。
 これからもお祈りのうちに、イエス様からの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」の声を聴いていきたいとおもいます。そして、イエス様の復活の意味、この世の湖の底は、イエス様がその上を歩くほど浅い、だから、あなたは、いまここで、ありのままで救われているということを、イエス様のように言葉だけでなく、態度をとおしても、宣べ伝えていきたいと思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新潟聖パウロ教会牧師)