2005年5月のメッセージ
マタイによる福音書で有名な「山上の説教」は、ルカによる福音書では「平地の説教」となる。実は、私は「平地の説教」の方が好きだ。平地に集まった人々には、一つの目的があった。それは、「病を癒していただくため」。そのために主に触れることであった。「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。」「癒される」経験というのは、イエスと直接に触れることによって、イエスの力が、弱く、苦しむ人々の中に入り、力を与えるという出来事である。最近良く使われる言葉に、”empowerment”(エンパワーメント)というものがある。力無き人に力を注入することだけではなく、その人が本来持っている力をむしろ引き出すこと。力だけではなく、その人自身気がつかなかったり、あるいは外的な条件によって覆い隠されている、その人のそもそもの存在や価値を引き出すことを意味するものである。私は、主イエスの癒しの業とは、まさにこの”empowerment”ではないかと考えたい。イエスに触れる。それがたとえ小さな接触であったとしても、生きているイエスに直接触れることができた者は、自分の存在や意味を回復することができる。失われていた尊厳を取り戻すことができる。それこそが、主イエスの癒しの働きであり、奇跡の行為が意味するところなのである。
同時に、主イエスは、人々にご自身の力を”empower”されることによって、ご自分の力を消費し続けられた、という事実を私たちは忘れてはならない。イエスにとって、他者と出会い、触れ、癒すということは、ご自分の力を与えることと同時に、力を使い果たすことであった。主イエスは、ついに十字架の死に至るまで、力を使い果たされる。これがイエスにとって、人と出会うことであり、人を愛するということであった。
さて、この平地において、人々に言葉を与えられ、癒されたイエスは、弟子たちに向き直り、非常に大切な主の教えを伝えられる。「いま、泣いている人々は、幸い」と。「平地の説教」の中で繰り返し使われているのは、実は『いま』という言葉である。これほどの能力があるから幸いなのではない。これほどまでに努力しているから幸いなのではない。イエスが言われるのはこういうことである。「いま、そのままのあなたが幸いだ」。『いま』、貧しさの内にあるあなたそのままを主は祝福してくださる。貧しき者であるがゆえに、主はあなたを祝福される。それゆえにあなたは満たされる。『いま』、泣いているあなたのその涙そのものを主は祝福される。それゆえに、あなたは笑うようになる。
「いま、そのままのあなたが幸いなのだ」。『いま』重荷を背負う者、破れの内にある者、悲しみの中に生きる者。そのような者こそが、『いま』神さまを本当に必要としている。そして、神さまも『いま』、そのような者こそを探し求められている。それゆえに幸いなのである。これこそが、主イエス・キリストの福音の本質に他ならない。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)
西原廉太
中部教区報「ともしび」に掲載された西原廉太主教による連載エッセイや巻頭メッセージ、関連するお知らせなどを掲載しています。バックナンバーもご覧いただけます。(肩書きは執筆当時のものです)
『あなたがたに平和があるように』
聖霊降臨の出来事を伝えるヨハネによる福音書には、このような言葉がある。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼らは、本当に恐ろしかった。不安と絶望に打ちのめされていた。ところがその時、驚くべきことが起こる。イエスが弟子たちの真ん中に立ち、こう声をかける。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。そしてイエスは、「聖霊を受けなさい」と、弟子たちに息を吹きかけられた。「聖霊」とは、主イエスの「息」なのであった。主イエスの息、聖霊を受けた弟子たちは、この瞬間から、生きる力を回復する。希望を取り戻す。あれほどまでにも、不安と絶望の内に震えていた彼らが、死んだようになっていた彼らが、命を回復したのである。そして、弟子たちは、大胆に主イエスをキリストとして証ししてゆく。この力こそが聖霊である。イエスの十字架上での死によって絶えたはずの主イエスの福音は、こうしてよみがえった。聖霊は、打ちのめされた者、絶望の淵にある者、痛み、苦しみにある者、疲れた者に与えられる生きる力である。
聖霊降臨日の福音には、もう一つ非常に大切なことが記されている。それは、イエスが「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」という箇所である。イエスは手とわき腹を見せられた。すなわち、十字架上で釘を打ち抜かれた手とわき腹の傷跡をお見せになった。すぐあとには、トマスがこのイエスのわき腹の傷に直接手を当てて、主を信じる物語が置かれている。イエスは、トマスにこう言われる。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」。トマスはうめくように、振り絞るように言葉を発した。「わたしの主、わたしの神よ」。
トマスに声をかけられたイエスは、栄光のイエスではなかった。復活されたイエスとは、光り輝く天の衣をまとい、金の王冠をかぶったイエスではなかった。トマスと弟子たちの前によみがえられた主とは、手に傷を負い、わき腹から血を流し、荊の冠をかぶらされたままの姿であったのである。おそらくトマスは実際に、その主の傷に、自らの手で触れたのであろう。
主イエス・キリストは、傷を負われたまま、よみがえられた。その傷とはいったい何か。その傷とは、私たちのこの世界、社会にあって、叫びをあげる無数の人々の傷でもある。不当な戦争によって命を奪われた者たちの傷であり、虐げられた人々、病める人々、体の不自由な人々、捨て置かれた人々の痛みである。その無数の痛みと傷を担われたまま、主イエスはよみがえられる。まさに、この事実に、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」という、この世で、最も短く、同時に最も完全な信仰告白の言葉を発することができる。私たちは、この「傷」を忘れてはならない。この「傷」を私たちのこの手に感じながら、決して忘れないことこそが、「私たちに平和がある」ことの、主イエスに示された〈必要条件〉なのである。
司祭 アシジのフランシス 西原 廉太
(立教大学教員・岡谷聖バルナバ教会管理牧師)