2020年イースター・メッセージ

2020年4月12日
主教被選者 司祭 アシジのフランシス 西原廉太

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[以下動画の内容をテキストで掲載]

 私たちは、主のご復活を祝う復活日、イースターを迎えました。しかしながら、今年、2020年のイースターは、後のキリスト教の歴史においても、異常な事態の中で迎えたと特別に記録されることでしょう。本来は、主のご復活を、日本聖公会、中部教区のすべての教会で、豊かにお祝いするはずでしたが、今般の、新型コロナウイルス感染症の急速な蔓延、世界的なパンデミックという状況の悪化に直面し、教区としても、大変残念なことに、聖週、イースターも含めて、5月24日までの主日及び週日の礼拝は、教役者・信徒が一堂に会して行うことを休止する、という苦渋の決断をすることとなりました。3月28日に予定していました中部教区主教按手式も一度は5月2日に延期したものの、10月24日へと再度延期せざるを得なくなりました。その間は、横浜教区の入江主教さまが、私たち中部教区の管理主教を担ってくださりますので、どうぞご安心ください。

illust-anglican 教会に集うことができず、共に聖餐式や祈りをおささげできないことは、私たち聖職たち、そして信徒の皆さんにとって、これ以上に辛いことはありません。しかし、大切なことは、だからと言って、私たちは教会を閉じているわけではない、ということです。世界の聖公会、アングリカン・コミュニオンの公式ホームページを開きますと、このような素敵なイラストが出てきます。そして、ここに重要なメッセージが記されています。

「教会は閉じているのではありません。ただ、建物だけを閉じているのです。なぜなら、私たちが教会だからです。私たちこそが、主イエス・キリストの生ける<からだ>だからです。そして、私たちはこの世界中、至るところに存在しているからです」

皆さんお一人おひとりが教会なのです。仮に聖堂という建物に集うことができなくても、皆さんお一人おひとりが、それぞれの場で、心を合わせて祈られる時に、そこに、主イエス・キリストの生ける<からだ>が実現しているのです。ですので、ぜひ、この異常な事態の中にあっても、私たちは、主にすべてを委ねて、主を信頼して、共に祈りを合わせたいのです。今、それぞれの場で祈っている教会の仲間たちを覚えて、また、新型コロナウイルス感染症のために苦しんでいる方々、そのご家族、困難の中、治療にあたられている医師や看護師の方々を覚えて、この世界中で、言い知れない不安の内に、心を痛めているすべての方々を覚えて、心を合わせて祈りましょう。

さて、そのような恐れと不安の内にある私たちにとって、本日の復活日の福音は、深い励ましを私たちに与えてくれます。イエスさまが十字架に架けられ、墓に葬られた。その週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアが、墓に行った、とあります。なぜ葬られた直後ではなかったかというと、ちょうど安息日が重なり、彼女は何もできなかったからです。安息日が終わると、まだ夜も明けない暗い内に、彼女はすぐに、いてもたってもいられずに、イエスさまが葬られた墓に駆け出して行きました。

彼女は、少しでも早く、イエスさまの遺体に香油を塗ってあげたかった。イエスが十字架に架けられ絶命し、さらに槍でわき腹を突かれ、血を流されたその姿を、マグダラのマリアは目の当たりにしていました。ヨハネによる福音書第19章25節にはこう記録されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。マグダラのマリアはその場にいながら、ただただ茫然と立ち尽くすしかなかった。彼女は、おそらく言い知れない無力感に打ちのめされたに違いありません。あれほど愛して、つき従っていた主イエスが今、死に行こうとしているのに、何一つすることができないのです。彼女の中には、「なぜ」という言葉が渦巻いていたはずです。「なぜ」私たちの主が、この地上から、私たちのもとから取り去られなければならないのですか。神さまは「なぜ」、私たちの愛する主をお守りくださらないのですか。「なぜ」このような試練を私たちにお与えになるのですか、と。

そんな彼女が、最後に主イエスにして差し上げられる唯一のことが、イエスさまのお体に香油を塗ることでした。しかし、マグダラのマリアがイエスさまの葬られた墓に辿りついた時、そこには驚くべきことが起こっていました。墓から石が取りのけてあり、墓の中にあるはずのイエスさまの体がなかったのです。彼女は、急いでペトロのところに駆けつけてこう報告しています。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません」。それを聞いたペトロたちも墓に走って確認しに来ます。この時の様子を伝えるヨハネによる福音書の記述は実に興味深いものです。ペトロたちは、墓の中を検分し、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れたところに丸めてあった」ことを確認し、それで、彼らは「信じた」、納得したというのです。きわめて冷静に墓の中を調べ、それで納得できてしまうものなのか、と正直思います。マグダラのマリアは違いました。20章11節にはこうあります。「マリアは墓の外に立って泣いていた」。彼女は、ペトロたちが納得して帰った後も、ずっと墓の外で泣き続けていたのです。彼女は言葉にもできない、悲しみと不安、恐れの中で、ただひたすらに、ぶるぶると震えながら、墓の外で泣き続けていた。彼女の中には、さらなる「なぜ」が溢れてたはずです。「なぜ」イエスさまのお体さえもが取り去られてしまうのですか。「なぜ」、主のからだに油を塗ることさえも許されないのですか。「なぜ」神さまは、こんな不安と悲しみ、恐れを私たちにお与えになるのですか、と。

そんな彼女のそばに、いつの間にかイエスさまが立たれていました。20章15節をもう一度お読みします。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

主イエスは、マリアにこう語りかけられるのです。「なぜ泣いているのか」と。あなたはなぜ泣いているのか。ここできわめて大切なことは、実は、イエスさまは、マリアが泣いているその理由を尋ねておられるのではない、ということです。彼女が立ち尽くし、打ち震えながら泣いているその理由は、すでにイエスさまご自身が十分に知っておられるのです。イエスさまがマリアに、「なぜ」とこう語りかけられたのは、彼女の涙の理由を知りたいからなどではなく、「あなたは、なぜ泣いているのか、泣く必要など何もないのだ」ということを、彼女に気づかせたいからでありました。私があなたの傍に今もいるのだから、何も恐れることはない、あなたはもう泣かなくてもいい。主はそのことを、彼女に伝えようとされていたのです。

実はこの「なぜ」というのは、マグダラのマリアがずっと抱えていた問いに他なりませんでした。「なぜ」私たちの主が、この地上から、私たちのもとから居なくならなければならないのですか。神さまは「なぜ」、私たちの愛する主をお守りくださらないのですか。「なぜ」このような試練を私たちにお与えになるのですか。「なぜ」イエスさまのお体さえもが取り去られてしまうのですか。「なぜ」、主のからだに油を塗ることさえも許されないのですか。「なぜ」神さまは、こんな不安と悲しみ、恐れを私たちにお与えになるのですか、と。

この「なぜ」という問いは彼女の「無力さ」とも裏表です。私には、十字架に架けられたイエスさまを前にして何もできなかった。ただただ茫然と立ち尽くすのみであった。唯一の彼女ができる最後の主に対する奉仕のはずであった、遺体に香油を塗ることすらも許されなかった。何という無力さでしょうか。

この「なぜ」という問いと「無力さ」は、マリアだけのものではなく、私たち一人ひとりの「なぜ」であり、「無力さ」でもあります。私たちもそれぞれの日常の中で、いつも何かしら、この「なぜ」を神さまに問い、「無力さ」に打ちひしがれる存在です。神さまはなぜ、私に、こんな抱えきれないような重荷を背負わされるのですか。なぜ、あなたは、こんな悲しみや苦しみを私にお与えになるのですか。あるいは、あの時、なぜ、私は、こうしなかったのか。私はなぜ、あの時に、あの人の傍に居てあげられなかったのか。私たちにはそのような「なぜ」もあります。

今、私たちは、新型コロナウイルス感染症の急速な蔓延、多くの方々が治療のかいなく死にゆく事態に直面し、まさしく神さま「なぜ」と叫ばざるを得ません。目には見えない得体の知れないものに対する恐怖と不安の中で、私たちの心も蝕まれています。医療や看護に献身的に、犠牲的に携わる方々は、必要な措置も出来ぬまま、救えなかった命を前にして、絶望と無力さに苛まれておられると聞きます。そのような医療従事者の方々ご自身が、感染されてしまうという事例を耳にする時、私たちには祈る言葉すらも見つからなくなるのです。

イタリア政府は、4月6日の時点で、新型コロナウイルスに感染した方が13万2547人、亡くなった方が1万6523人に至ったと発表しました。そのイタリアで、北部ロンバルディア州ベルガモ県カスニーゴのローマ・カトリック教会司祭長のジュゼッペ・ベラルデッリ神父さまは、新型コロナウイルスに感染され、重篤となられました。しかしながら、報道でもご承知のように、イタリアでは人工呼吸器が圧倒的に足りません。ベラルデッリ神父さまは、ご自分が使用していた人工呼吸器を、若い感染者に譲って欲しいと医師たちに懇願し、人工呼吸器が外されて間もなく、3月15日に、ベルガモ県の病院で息を引き取られ、主のもとに召された、ということです。72歳でした。ベラルデッリ神父が司祭長を務める地域の住民たちは、神父の死を知ると、窓越しから「慈悲の殉教者」と拍手で称えた、と言います。

今、私たちも不安でいっぱいです。また、無力さに打ちのめされています。本当は、こうして人々が極限の苦難に遭っている時にこそ、皆で教会に集い、祈り、そして、苦しんでいる人々のもとに駆け付けて奉仕をしたいのです。しかし、それは叶いません。私たち自身のいのちを守るためだけではなく、私たちが移動することによって感染を拡大し、私たちが教会に集うことによって、いわゆる感染のクラスターを発生させるということがあってはならないからです。私たちキリスト者、教会にとって、本来クリスマス以上に大切な最大の聖日である「復活日」すらも教会に集わない、集えないという、誠に苦渋の決断を、私たちもせざるを得ませんでした。私たちは神さまに問いたいのです。「なぜ」と。なぜ、ご復活日にさえも、教会に集って共に祈ることさえ許されないのですか、と。しかし、この私たちの「なぜ」は、主イエスのお体に油を塗ることさえも許されなかった、マグダラのマリアの「なぜ」とまさしく同じものなのです。

そんなマリアに、イエスさまは、「あなたは、なぜ泣いているのか」と語りかけられるのです。そんな私たち、一人ひとりに、主は語りかけられるのです。「あなたは、なぜ泣いているのか」と。主は、私たちの尽きることのない「なぜ」を取り上げられるのです。そして逆に、私たちに「なぜ」と問いかけられる。主は、私たちがなぜ泣いているのかは、すでに十分に知っておられる。主は、「なぜ」なのかと悲しみ嘆くその私たちの「なぜ」をそのまま引き受けてくださる。そして、こう私たちに語りかけられるのです。「あなたは、なぜ、泣いているのか。あなたはもう、泣く必要はないのだ」と。

この時、私たちは気づかされるのです。本当は、この「なぜ」を問うことができるのは、唯、主のみであることを。私たちが「なぜ」と問う時に、私たち自身の人生の主人公はあくまでも「私」です。けれども、私たちが主から、「あなたは、なぜ、泣いているのか」と問われる時に、「なぜ」を語るのは主のみであり、私たちは、神さまによって、息を与えられ、私たちの人生は主のみによって導かれていることに、あらためて気づかされるのです。「あなたは、なぜ泣いているのか。私を信じ、すべてを私に委ねなさい。私は必ずあなたと共にいる。だから、あなたはもう泣かなくていい」。私たちは、その主の問いかけに、ただひたすらに、ただ一言、「アーメン」と応えて、主につき従うだけでいい。

マリアは、最初、「なぜ泣いているのか」と問われた方が、どなたかは分かりませんでした。聖書には、園丁だと思っていた、とあります。しかし、20章16節には、さらにこう記されています。

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

まだ朝早く暗い中で、「マリア」と呼びかけられたその声は、彼女にとって忘れもしない、あの懐かしく、優しい主の声であったに違いありません。私たちは、それぞれの人生の中で、それぞれの日々を生きる中で、決して答えの出ない「なぜ」という問いに躓き、私たちの無力さに、涙を流します。しかし、「私はよみがえりであり、命である」と宣言されるご復活の主は、そんな私たちを無条件に抱きしめてくださる。迷える子羊を見つけ出して、その両手でしっかりと抱きかかえる羊飼いのように、ご復活の主はどこまでも皆さんお一人おひとりを愛し、包んでくださる。そして、あの優しく懐かしい声で語りかけてくださる。「あなたは、もう泣かなくても良い。私が必ずあなたと共にいるのだから」と。

私たちのあらゆる「なぜ」を引き受けてくださる主に、すべてを委ねましょう。そして、ただひたすらに「アーメン」と応えながら、主のご復活の道を共に歩みましょう。

 

お祈りいたします。いつくしみ深い神さま、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神さま、世界のすべての人々と共に手を携えて、助け合って、この危機を乗り越えることができるよう、お導きください。
ご復活の主なる神さま、あなたは、言い知れない不安と恐れの内にあるマリアに、「あなたは、なぜ泣いているのか」と語りかけられました。「私は必ずあなたと共にいる。だから、あなたはもう泣かなくていいのだ」と招かれる主に、私たちが、ただひたすらに「アーメン」と応え、主につき従うことができますように、どうぞ、強め、導いてください。
この祈りを、ご復活の主イエス・キリストのみ名を通して、み前におささげいたします。

アーメン