抱っこしてごらん

 毎度おなじみの園長室。今日も朝晩と園児たちが園長室へと襲撃してきます。ある日、年少組の園児が「抱っこして」と両手を広げて走り寄ってきました。残念ながら電話対応していたので、「今は抱っこ出来ないな~」と返事をしてしまいました。そして、その日のお迎えの時にお母さんにその話をすると、「子どもが大きくなったので、私があまり抱っこ出来なくなってしまったんです」とポツリ。そうだったのかと思い、じゃぁ今度は抱っこをするぞ!と意気込んでいると、翌朝も両手を広げながら「抱っこしてごらん」と言いながら走ってきました。これには思わず声を上げて笑ってしまいました。そして、抱っこをすると「ほら、抱っこ出来るじゃん」と言って園児も笑顔をみせてくれました。
 上田聖ミカエル及諸天使教会の聖堂内には地元出身の芸術家・中村直人作の赤ちゃんイエスを抱いた母マリアの像が安置されています。この姿を見ているとクリスマスというのは神さまが一人の小さな赤ちゃんとして、私たちに来て下さった日なんだなと思いを馳せます。神さまが赤ちゃんという無防備な姿でこの世においでになり、私たちに抱かれる存在として近づいて下さったことは、クリスマスを通して神さまは「抱っこしてごらん」と私たちに語りかけ、寄り添って下さっているように感じます。イエスさまはこの世に生まれた時、その姿は一人の弱く小さな赤ちゃんでした。私たちは日々の生活の中で仕事や家庭、人間関係の悩み、不安や孤独、時には未来への不確かさが重くのしかかることがあります。忙しい日々の中で、どこか心が張り詰めたまま、抱え込んでしまっているものは何でしょうか。イエスさまは私たちに心を開き信じて委ねておられるのに、私たちはイエスさまを信じて委ねているでしょうか。神さまが人となり、私たちに触れる存在となって下さっているのは、私たちも互いを抱きしめ、寄り添うことができる存在なのだよ、というメッセージなのかもしれません。そして、私たちもイエスさまに「抱っこしてごらん」と祈ってみてもいいのではないでしょうか。私たちの心に湧き上がる恐れや不安、孤独を、神さまの温かな愛に抱きしめられ、自分だけで抱え込まず、神さまの手に委ねてみてもいいのではないでしょうか。人として私たちに会いに来て下さった、このクリスマスの出来事を通して、神さまからの愛に倣い、互いを抱きしめ、共に生きることの大切さ、そして、家族や友人、教会の方々とともに、私たちが一つの信仰の家族として支え合うことのできる恵みの機会にしたいと思います。私たちが互いを温かく抱きしめ、重荷を共有し、愛を持って仕えることで神さまの愛をさらに深く感じたいものです。
 今日も元気に笑顔で「抱っこしてごらん」と言いながら園児は走って園長室へ入ってきます。抱っこ出来なくなるその日まで抱っこをさせて下さい。抱っこしたあなたの温かさを分かち合いたいのです。そして、ひとりでも多くの方が温かなクリスマスを迎えられますように、心からお祈りいたします。

司祭 フランシス 江夏一彰
(上田聖ミカエル及諸天使教会・
軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

神の栄光を表すため

 社会福祉法人岐阜アソシア(中部教区の関連法人)は、視覚障害者とともに生きる社会を目指して、点訳・音声訳図書の製作と貸出、点字・歩行・IT機器の訓練、外出支援などを行っています。
 中部教区がこうした働きを開始するきっかけとなったのは濃尾地震でした。1891年10月28日、岐阜県本巣郡(現:本巣市)を震源とするマグニチュード8の地震が起き、死者7273人、全壊・焼失家屋14万2千戸という甚大な被害が発生しました。
 岐阜聖公会(現:岐阜聖パウロ教会)は、この地震から遡ること1年前にアーサー・フレデリック・チャペル司祭によって設立され、会堂も建てられましたが、震災によって焼失しました。地震の後、岐阜聖公会の礼拝は仮設の小屋で継続しつつ、被災者支援活動を開始しました。眼病を患っていた森巻耳伝道師が中心となって被災した視覚障害者の支援に注力することになり、岐阜鍼按練習所を開設します。3年後には岐阜聖公会訓盲院を創設しました。
 1940年になって訓盲院の学校教育機能は岐阜県に移管されることになりました。そして1941年、岐阜聖公会は財団法人岐阜訓盲協会を新たに設立して、訓盲院のその他の社会事業を引き継ぐことになりました。これが現在の岐阜アソシアです。
 このように、岐阜聖公会の設立とほぼ同時に始まった視覚障害者支援の取り組みは、一方では岐阜県立岐阜盲学校となり、もう一方は民間の社会福祉団体となりました。この岐阜アソシアは、現在も教区主教が理事長となり、チャプレンが派遣され、中部教区としてその運営に携わっています。盲学校は公立ですので、組織的には完全に聖公会から離れています。しかし、岐阜聖公会の設立者の想いは、今もしっかりと継承されています。
 盲学校の創設者であった森巻耳先生は、ご自身の失明について、「これ皆神の聖旨なり。吾を盲人社会に用いて、神の栄えを表さしむなり」と受け止めました。そして、全人教育の場として盲学校を設立しました。それは、人は誰もが神の栄光を表す者として堂々と生きるべき存在であり、視覚障害を理由に社会から排除されてはならない、という理解がその根底にあったからでありましょう。
 県立岐阜盲学校の玄関には森先生の銅像があり、その横には、「敬神愛人」の額が掲げられています。これは公立学校である盲学校の現在の校訓です。また、校章には十字架がデザインされています。この校章は岐阜聖公会が盲学校を運営していた頃に制定されたものですが、今もなお大切に用いられています。こうしたことからも、学校設立の源流である岐阜聖公会の設立者たちの想いがいかに大切にされているかが分かります。
 このように、岐阜における聖公会の働きは、時代に応じて形を変えながらも、当時の設立者たちの想いと共に受け継がれています。中部教区は来年(2025年)宣教開始150周年を迎えますが、先人たちの想いを、私たちを取り巻く現在の時代環境を見据えながら、大切に引き継いでまいりたいと思います。

司祭 ヨハネ 相原太郎
(岐阜聖パウロ教会牧師)

子どものように~新たに生まれ、神の国を見る~

 立教小学校のチャプレンとして、日々、子どもたちの姿を見つめる中で、〝果たして、私は年を重ねながら、本当に成長してきたのだろうか?むしろ、退化してきたのではないだろうか…〟と思うことが多々あります。
 純粋無垢な真の優しさ、何の恐れもなく両手を広げ、他者の全てをその身に受け止めることのできる心の広さと大胆さ、思ったこと、感じたことをありのままに表現し、それが正しいもの、優しさに満ちたものと賞賛されれば、全ての人々を幸せにすることができそうな程の笑顔を見せることができる、しかし、その逆に、それが正しくないもの、誰かを傷つけてしまうものと指摘されれば、それを真剣に受け留め、心から後悔し、時に涙を流しながら懺悔の祈りを唱えることができる。そして、何よりも、神の存在を常に身近に感じ、神の息吹の中を、いいや、まさに神の中で生きることができている。
 私は、そのように生きる子どもたちの姿を見ながら、こう思います。〝昔、子どもであった私も、かつては、このように生きることができていたのだろうか。…きっと、できていた。でも、今は、もう…。なら、年を重ねた今の私は、成長したのではなく、それらを失った、退化した私なのでは?〟と。
 主イエスは子どもたちを疎んじた弟子たちに対し、こう宣言し、子どもたちを高く抱き上げ、手を置いて祝福されます。
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10章14節~15節)と。
 ここには、明確に、子どもたちの存在自体の尊さ、そして、神と神の国と子どもたちとの確固たる繋がりが語られているのと同時に、子どもの存在性を理解できず、子どもたちを疎んじ、
更には、かつて自分たちも持ち合わせていた「子供のように」
(子どものような存在性)を失ってしまった大人たちに対し、強い憤りを抱く主イエスの姿があります。
 しかし、教会に集う大人たちは、今でも、子どもたちを一方的に〝小さく、弱い存在だから、主イエスの愛の名の下に、助け、導かなければならない〟と、無意識のうちに見下し、自分たちを、子どもたちの高みに置いてはいないでしょうか?
 一匹の羽化できなかったヤゴの亡骸を本当に大事に抱え、校内の花壇に埋め、皆でアジサイを献花し、心を込めて祈り、黙祷する十数人の子どもたちの傍らに立ち、私は思いました…〝私には、こんな祈りはできない。私の祈りは、この子たちの祈りにはかなわない〟と。
 そして、教えられました。これまで私は、ずっと、無意識のうちに大人の世界の価値基準の中で祈りの対象を選別し、存在に優劣をつけ、命の重さに差をつけ、祈り、また祈らずにいたのだと。
 大人たちの教会は、常に悲しみや苦しみの中にある人々に心を留め、祈りを捧げ、愛を注ぎます。しかし、大人たちの教会は、自分自身が日々、踏みつけて歩く無数の蟻たちに心を留め、祈りを捧げ、愛を注ぐことはしません。できません。むしろ、その事実に気づいていない?気づかぬふり?
 しかし、子どもたちは、その事実に気づき、真剣に向き合い、自分事として悲しみ、苦しみ、祈りを捧げ、愛を注ぐことができる。
 存在に優劣をつけず、命の重さに差をつけず、存在価値を値踏みせず、祈りの対象を選別しない子どもたちは、まさに主イエスの似姿なのです。だからこそ、子どもたちは神の国に入ることができるのではないでしょうか?
 かつて、主イエスの似姿であった大人たち。大人たちが「子供のように」(子どものような存在性)なれるのは、また、「新たに生まれ、神の国を見る」(参照、ヨハネ3章3節)ことができるのは、いつなのでしょうか。

司祭 ヨセフ 下原太介
(立教学院出向)

ひさかたの

 この原稿を書いているのは4月、桜が満開の時期です。わたしの勤めている新生病院でも、患者さんが看護師やリハビリスタッフと中庭に出て、お花見をされています。
 主日の礼拝後にも信徒さんのアイデアで、中庭に皆で集まり、お茶とお菓子でお花見の時を持ちました。散歩に来ていた患者さんとも、声をかけあって過ごしました。誰もが嬉しそうに、白やピンクの花々に囲まれてお茶を飲んでいる様子、それは楽園を思わせるような光景でした。
 数日後の昼休み、桜の花びらが空から降り注ぐ中、わたしは礼拝堂への道を歩いていました。長い冬が終わり、春が来たことを感じながら、つれづれなる思いは、聖書のみ言葉に向かっていきます。
 イエス様が生涯でなさったことはたくさんありますが、その中でも「共食」、つまり誰とでも分け隔てなくご一緒に食事をしたことは、大きなことだったと言われています。「開かれた共食」、イエスと共に多様な人々が一堂に会し、食事を楽しむこと、それはユダヤ人と異邦人、豊かな人と貧しい人、健康な人と病の人、また男性と女性など、様々な「区別」によって分けられ、ばらばらに食事をとっていた人々にとって、驚きに満ちた体験だったに違いありません。
 死からよみがえられ、弟子たちの前に姿を現わされたイエス様は、再び皆と食事をされました。それは「いのちそのものを分かち合う」という食事の神秘を私たちに知らせ、「隔てを越えて皆が共に食べる」という経験をすることに、神様の深い思いと願いがあることを示してくださっているのだと、わたしは思います。
 食事はわたしたちの生きる根源です。日々、様々な動植物のいのちをいただいて、わたしたちは生きています。その事実が持っている厳粛さと、ささげられたいのちを無駄にできないという思いを、大切にしていきたいです。
 わたしたちはまた、日曜日ごとに皆で教会に集まって、聖餐式ではご聖体をいただき、身も心もイエス様と結ばれ、養われる経験をします。わたしたちの教会は、実は毎週宴会をしているといってもよいのです。そして聖餐式は、いずれイエス様が再びわたしたちの所にやって来られる時、悩み苦しむすべての人の涙をぬぐってくださり、重荷をおろさせ、共に席に着いてくださるという、新しい宴会の先取りであるともいえます。
 信仰は空想や思い付きではなく、食事のようにわたしたちのいのちや生活に関わる、きわめて具体的な現実の中に形をとってあらわれていくものだと思います。…。
 「チャプレン、患者さんがスタッフと一緒に、今から中庭にお花見に行きますから、お迎えに来てください」。
 そんな看護師からの内線電話で、我に返りました。「神の国は、あなたがたの中にある」(ルカ17章21節)。「ぼんやりしていないで、私と一緒に来なさい」。そのようにイエス様に言われたような気がしました。花を見てうっとりしたり、感傷的になったりしている場合ではありません。神の国、神様の思いの満ちた場所は、出会いと祈りの中で、今ここに、わたしたちの間に実現するのです。
 そこに立ち会わせていただく恵みを、これからも感じさせてもらいながら、日々働いていきたいと思います。

司祭 洗礼者ヨハネ 大和孝明
(新生礼拝堂牧師)

イースター・メッセージ<暗闇の中に輝く〈命の光〉と出会う場所

 聖土曜日の礼拝では、復活のろうそくに火が灯されます。その灯火は眩しいものです。それは、暗闇の中であるからに他なりません。イエスさまが十字架に架けられた。そして十字架の上で息絶えられた。
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ(マルコ15章33節)
 主イエスの時代は、まさに暗闇の時代であったことを、私たちはまず思い起こさなければなりません。
 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。その時、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き、慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから」(マタイ2章16―18節)
 争いと分裂の中、子どもたちの命が奪われていく。そのような暗黒の時代に、主イエスはお生まれになった。イエスさまは、暗闇の中に光として、平和の君としてこの世に遣わされました。洗礼者ヨハネの父、ザカリアは、このように預言します。
 幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く(ルカ1章76―79節)
 暗闇を照らし、平和の道を切り開くこと。それは洗礼者ヨハネが告げていた主イエスの使命でした。イエスさまはガリラヤの地で、辺境とされた地で、さまざまな人々の痛みや苦しみ、叫びがこだまする地で、一筋の光としての働きを担われたのです。
 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った。」その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた(マタイ4章14―17節)
 主イエスは、この暗闇の中に光を灯すために、自らを燃え尽きさせられました。一粒の麦は地に落ちて死に、そして何倍もの実を結ぶ。
 「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)
 主イエス・キリストが十字架の上で息絶えたのは、それは、この世に〈命の光〉を生み出すためでありました。その〈命の光〉こそが、よみがえりの主に他なりません。よみがえりの主と出会える地はどこでありましょうか。福音書には、明確に示されています。それは、「ガリラヤ」でありました。イエスさまが、人々と共に泣き、共に生きた地、「ガリラヤ」に行くことで復活の主と出会える。そこで、一筋の灯、〈命の光〉を見い出すことができる。暗闇の中で、平和への道が備えられる。
 主イエス・キリストは、私たち一人ひとりがガリラヤを目指し、平和への道を歩むよう促されます。そして、ガリラヤの地で、暗闇の中に輝く〈命の光〉が私たちの内に生まれるようにと導いてくださいます。それでは、「私にとってのガリラヤとはどこなのか」。今年の復活節、深く黙想できればと願います。

幼子と乳飲み子は賛美を歌う(詩編第8編2節・祈祷書訳)

 稲荷山くるみこども園の子どもたちのページェント(聖誕劇)を見るたびに、クリスマスの物語の不思議さを思います。こども園の休み時間、子どもたちが左右斜めに両手を挙げて進みながら、聖歌91番「荒野の果て」(この園でグローリアと呼ばれています)を歌っている姿を目にします。これは天使たちが現れるときの動きで、羊飼いたちに主イエス誕生を知らせる天使たちはこの聖歌と共に登場するのです。
 その時、ベツレヘムの荒野にいた羊飼いを突然天からの光が照らしました。恐れて地に伏せる羊飼いたちに、天使は言います。(以下、稲荷山くるみこども園ページェント台本より)「こわがることはありません。すばらしいお知らせがあります。今日、ベツレヘムの馬小屋で救い主がお生まれになりました。その方こそみんなが待っている主イエスキリストです。」そして、天使たちは告げます。「いと高きところでは神に栄光があるように、地の上では御心に
かなう人に平和があるように。」
 闇から光へドラマチックに転換するこの場面は、人知れない家畜小屋での出来事がどれほど大きな喜びであるのかが世界に示されたシーンです。子どもたちがこの場面を好んで歌うのは、小さな彼ら彼女らがその喜びをしっかりと受け止めているからなのかもしれません。そして、この天からの賛美を聞いた羊飼いたちが、「さあ、急いで救い主に会いに行こう!」と跳びあがって出発するのが私のお気に入りの場面です。
 この天使たちの賛美に似た言葉が、福音書にもう一度出てきます。それは約30年後、子ろばに乗って都エルサレムへと向かわれるイエス様を見て、人々は「天には平和。いと高きところに栄光」と声高らかに神を賛美しました。しかしこの賛美の声を聞いたファリサイ人たちは反発します。主はエルサレムに近づき、都が見えたとき、平和への道をわきまえない都のために泣かれました(ルカ19章41―42節)。主を受け入れない祭司長たちは、神殿で主を賛美する子どもたちにも腹を立てました。イエス様は彼らに、「『幼子と乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」と言われます(マタイ21章16節)。
 イエス様が引用された詩編8編2節は、私に聖歌を教えてくださった桜井房江先生から聞いたみ言葉です。幼い頃、先生のピアノに合わせて小さなクリスマス・キャロルの本を開いて歌った喜びは、今も鮮やかに私の中にあります。そして今、ページェントで白い天使の衣を着た子どもたちが声を合わせて歌うのを聴き、天使役だけでなく子どもたち皆が、神様の喜びの便りを伝えるみ使いのように思えています。賛美とは神様からの賜物であり、神様が幼子に授けられる賛美は、儚いものでなく、地上における闇、まやかしに対抗する天からの砦であるのかもしれません。この声を無視しようとするかたくなな人間たちに、主は今この時も涙を流しておられるのではないでしょうか。新しい年、子どもたちと一緒に主イエスに出会う旅に出発したいと願います。


司祭 マリア 大和玲子
(長野聖救主教会牧師)

「あなたの輝き、栄光と威光 驚くべき御業の数々を私は歌います。」詩篇145篇5節

 クリスマスから新年を迎えようとしています。1年があっという間だったということを感じます。生物学者の福岡伸一氏は、『動的平衡』という本の中で、メモリーを書き込むような記憶物質は人の体には存在しないと言います。しかし時間が過ぎた感覚は誰にもあります。同じ1年が、子どもの頃よりも大人になるとあっという間に年末だと感じないでしょうか。私たちの細胞分裂は、タンパク質の分解と合成のサイクルに左右されています。なので加齢とともに新陳代謝の速度が遅くなって、私たちの体内時計の「秒針」である新陳代謝が遅くなっている事に気付かないのです。「まだ1年の3分の2ぐらいしか経っていない」と感じるその時には、実際の1年が過ぎていて「あっという間の1年だ」と感じるのだそうです。時代の変化、身体の変化、さまざまな変化にウロウロするばかりです。パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と私たちに呼びかけます。私たちの1年、生涯を振り返ると、喜びよりも悲しいことの方が多いような気がするのではないでしょうか。そう思うのは、私たちの人生は自分の思い通りにならないからではないでしょうか。自分のいたらなさに加え、思いもよらない病や災害があるかも知れません。喜びがあっても、空しくさせるような現実に人の弱さやもろさを知ります。み子イエスはその中に来られたのです。主イエスの降誕のまわりには、神の訪れを喜びとして受けとめる人々がいます。心の底から自分を満たしてくれるのは神しかいないという渇望する人々です。ヨセフは無力感の中でインマヌエル(神は我々とともにおられる)という名を教えられました。占星術の学者たちは、遠く暗闇の中で行くべき道を求めました。自分自身の弱さを知れば知るほど、神は私たちのところに来てくださいます。み子イエスの降誕を喜べるのです。「主において常に喜ぶ」ことができるのは、絶望の深みの苦しさにありながら、その中で神の愛にゆだねる者が真の喜びにあるのです。クリスマス近くになると書店にはクリスマス向けの絵本が並びはじめます。私が、なかなか好きになれなかった絵本に「アンパンマン」がありました。どこか暗く、寂しげな絵だといつも感じていたからです。でもそれは、私の勝手な思い込みと偏見でした。アンパンマン誕生の経緯やキャラクターについての話をまとめた、『アンパンマン伝説』という本があります。作者のやなせたかしさんは、「アンパンマンをいつ、どうやって思いついたかはわからないくらい、迷い道を歩くような日陰暮らしの中で生まれたのだ」と言います。評論家の評判も悪く、出版社の編集者からも「あれはやなせさんの本質ではない。もう2度と書かないでほしい」とまで言われたそうです。ところが保育園や幼稚園の子どもたちの中からアンパンマン人気が出てきました。子どもたちがアンパンマンを生み出したのかも知れません。私たちが弱さの中にある時、そこは神の救いが与えられる時です。私たちが人生を迷って歩いていても、主イエスはともに歩いてくださるのです。主において喜ぶ事ができるのです。クリスマスの喜びを皆さんとともに、感謝をもって歌いたいと思います。


司祭 マタイ 箭野直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン・軽井沢ショー記念礼拝堂協働)

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書第14章27節)

 この度、保育士の資格とともに、幼稚園教諭1種免許状をいただくことになりました。これは、昨年、愛知県豊田市にある幼稚園の園長先生をはじめ教職員の皆様のご理解とご指導のもと、保育の仕事をすることのできた賜物です。神様の恵みに感謝するとともに、子どもたちを含め幼稚園の皆様のやさしさに感謝いたします。この経験を活かしまして、いま、新潟市にある公立の病院で入院中の子どもたちの保育のボランティアをしています。しかし、公立ですのでキリスト教の話は一切できませんから、今までとは全く違った環境です。それでも、お母さん、おばあちゃん、子どもから、将来の不安というか、そういうことを「聴く」機会もあり、寄り添うことしかできませんが、言葉ではなく「体」で、「聴く」という態度で、神様からいただいたミッションを果たすということができればと思っています。
 イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という御言葉を、湖の上を歩くイエス様を見て驚く弟子たちに向かって話されました。「イエス様が湖の上を歩く」とはどういう意味があるのでしょうか。私はこれは比喩だと思っています。五千人への食事と同じようにです。
エミール・ブルンナーという神学者はこう言っています。イエス様の復活について、「彼らは嵐の湖で沈みかけているように見える人間になぞらえられる。実際はしかし彼らは、沈むことの出来る湖にいるのでは全然なく、溺れることのない浅い湖にいる、ただ、彼らはそれを知らないだけである」。どうでしょうか。イエス様が十字架にかかって死にそして復活しすべての罪ある人びとに聖霊をお与え下さったという出来事によって、
私たちの世界は、沈むと死んでしまう底の深い湖から、けっして溺れることのない浅い湖に変わったということを示しています。「イエス様が湖の上を歩く」とは、もうこの湖は浅いからおそれることはない、安心しなさいということを、身体をもって示しているのです。イエス様の十字架の死と復活によってこの世界が根本的に変わってしまったということ、イエス様のことを信じていようと信じていなかろうと関係なく、いま私たちが生きているこの世界は、浅い湖だということです。しかし、このことに気づいていない人々が多いのです。私も時々「ここは深い湖ではないか、舟が転覆したら、溺れて死んでしまうのではないか、結局、私は救われないのではないか」と不安と恐れを覚えてしまいます。しかし、本当に私たちすべての人は復活によって救われていますから、安心していいんです。怖れる必要はありません。
 これからもお祈りのうちに、イエス様からの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」の声を聴いていきたいとおもいます。そして、イエス様の復活の意味、この世の湖の底は、イエス様がその上を歩くほど浅い、だから、あなたは、いまここで、ありのままで救われているということを、イエス様のように言葉だけでなく、態度をとおしても、宣べ伝えていきたいと思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新潟聖パウロ教会牧師)


初めまして。川島創士さん

 私は今年の4月から、名古屋聖マルコ教会の牧師館に移り住んでいます。聖マルコ教会は現在、聖堂の耐震工事が行われていて、毎日のように建設会社のトラックが駐車場に停まって木材などの建築材料が搬入されたりしています。工事現場である聖堂内には埃をかぶったブルーシートがオルガンや長椅子などを覆っています。入口の鉄門には、「工事関連で危ないため通行の際に注意して欲しい」というようなメッセージの紙が貼られています。確かに落ち着いてない環境です。
 そのような状況ではありますが、初日から私の目に入ったことがありました。それは、教会に入るためには駐車場に面している鉄門を通らなければならないですが、その門は多くの部分で塗料がはがれて、真っ赤にさび付いていたことでした。さらにそこから教会の方をみると牧師館に上がる外付け階段も真っ赤になっていることがまる見えです。
 「先ずあれを綺麗にしなきゃ」と思いましたが私も実施できず5か月が経ってしまいました。その5か月間、毎日階段を昇ったり降りたり、鉄門を開けたり閉めたりしながら言葉と思いにだけとどまっている自分の情けなさが鏡のようにさび付いた鉄門にうつっていたことを感じました。
 耐震工事が終われば今よりはきっと多くの方々が出入りするようになるでしょうし、それを期待して塗料を塗って綺麗にすれば、誰かがきても入口のほうから歓迎される感じを受けることが出来るのではないかと思いました。
 この度、川島創士聖職候補生の教区実習を私が指導することになりました。初日の主日は後藤香織司祭のもとで名古屋聖マタイ教会での実習、そしてその翌日からは、NPO法人ルカ子ども発達支援ルーム「そらのとり」と柳城幼稚園、名古屋学生青年センター、最後の日は愛知聖ルカ教会での奨励実習という計画で日程を組みました。その間に、名古屋聖マルコ教会での勤務を2日間入れました。1日目は「草むしり」、2日目はこの機会にということで「塗装作業」を入れました。単純に労働だけで終わることではなく、信徒さんに声を掛けて一緒に草取りをしてから彼を囲んで昼食の交流会を持ちました。お弁当を買ってきて、簡単なことではあるけれど皆で一緒に野菜を洗ってサラダを作ったり、お湯を沸かしてスープを作ったりデザートを作ってはわいわい楽しい時間を過ごしました。
 「塗装」予定の日は雨が降ったため残念ながら実施は休止としました。個人的には5か月前から思っていたことで、川島さんがいる今がチャンスだと意味づけて鉄門と階段の塗装作業をしようと塗料や道具まで買っておいたけれども、5か月前からの思いは叶いませんでした。その代わりに、川島さんと一緒に信徒さんを訪ねて食事とお茶をしながらリアルな教会の話を聞く時間も持ちました。
 私個人としても、聖職候補生の実習指導をしたことは初めての経験で非常に意味ある時間でした。川島さんとも今回初めてお会いしたので、新しい人に出会って色々なことを一緒にしましたし、彼を囲んで信徒さんとも様々な話し合い・交流会が出来たことなどを通して、交わることの大事さを改めて感じることが出来ました。そして新しい色々なことが見え始めて、新しい動機付けとともに名古屋でのこの5か月間を振り返るきっかけにもなりました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(名古屋聖マルコ教会牧師)

犬と平和

 3年前、娘の中学入学を機に、我が家に1匹の犬が加わりました。
 近所のペットショップで、ある犬が「特売」になっていました。あとで分かったことですが、本当に子犬だった時期に病気をして売り場に出ることができず、いわば「売り時」を逃してしまったために、同じ犬種の犬の半額以下の値段がつけられていました。そんな人間の勝手な事情など思いもしない、けなげな姿に感情移入してしまい、この犬を我が家に迎えて、新しく家族の一員となりました。
 我が家の犬はペット犬で、いわゆる「生産性」はゼロです。朝夕の散歩に連れて行くなどの手間もかかりますし、犬を置いて旅行に行けないなどの不便もあります。でも、帰宅したら尻尾を振って迎えてくれたり、居間の椅子に座っていたら膝に飛び乗ってきたり、在宅勤務のデスクの隣で気持ちよさそうに寝ていたり。そんな姿が幸せを与えてくれます。
 6月23日の沖縄慰霊の日、追悼式の会場となった平和祈念公園には朝から多くのテレビカメラが入っていましたが、ニュースを伝えるレポーターの背後で、犬を散歩させている人々の姿が印象的でした。多くの人々が犠牲となったまさにその場所を、犬がのんびりと歩いている景色を見て、これこそが平和の姿なのではないかと思いました。イエス様の「空の鳥を見なさい」という言葉が、犬を家族として迎えて以来、「平和を守りなさい」という命令に聞こえてならないのです。
 第二次世界大戦中には、ペットである犬も供出の対象となりました。食糧不足で、軍用犬以外の役に立たない犬は処分してしまえという主張があったほか、毛皮を軍で利用するという目的もあったようです。また、空襲で焼け出された飼い犬が野良化し、狂犬病が流行することを恐れて、当局が犬を強制的に供出させて殺していきました。家族同然だった犬たちとの別れを強いられた人々、特に子どもたちの悲しみを思うと、こんなことを二度とさせてはならないと思うのです。
 戦争の中では、最も弱い、戦争の役に立たないものが、不要であると切り捨てられていきます。多くの犬たちはその犠牲となりました。そして、犬たちに留まらず、かけがえのない多くの人々の命が失われました。出かけていった家族が戦火に倒れ、帰ってこなかったという大きな悲しみを抱く人が、決して現れてはならないと強く思います。
 ウクライナでの戦争は、現代でもこんな悲しみが未だ続いていることを、私たちに突きつけています。我が家の犬の平和な姿を見るにつけ、空の鳥の小さい命をも大切にされたイエス様の思いに今こそ心を合わせ、この平和から遠いところにいる人々のことを決して忘れないように、そんな決意を新たにさせられるのです。
※アジア歴史資料センター「戦争にペットまで動員されたってホント?」
https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa24.html より

司祭 ダビデ 市原信太郎
(松本聖十字教会管理牧師〈東京教区出向〉)