弱い部分が必要

イースターおめでとうございます。主イエス様のご復活の恵みと祝福が皆さんと共にありますようにお祈りいたします。
2月の終わりに日本聖公会保育連盟(聖保連)の設置者・園長・主任者研修会が名古屋柳城短大で開催され、「幼児期における発達障害の理解と支援」のテーマで講演を聞きました。

内容は発達障害を持つ幼児への支援についてだったのですが、話を聞いていますとこれは幼児に限った問題ではなく、わたしたち大人にも共通する事柄であることを強く感じました。「空気が読めない」「すぐにキレル」「過去の経験から学ぶことが苦手」「共感性が弱い」「冗談が分からない」「相手を傷つけていることに気づかない」「自分の失敗を他人のせいにする」等々。

講師の先生もこれは幼児だけのことではなく皆さん(保育者)自身のことでもありますよと指摘しておられましたが、教役者としてのわたしたちにも関係することであり、大変身につまされる話でした。

わたしたちは誰でもが何かしら欠けたところと言いますか、弱さを持っているものです。パウロは教会共同体を表現するのに人間の体を例に取り、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのであり、神はそういう部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と言い、弱く見える部分を他の部分が補いつつ体全体の調和を保っているのだと言っています。

「障害ではなく特性」「困った子ではなく困っている子」―幼児をそのように理解することはキリスト教保育の根底をなす重要な要素です。そして、教会という共同体はそこに関わる人たちがお互いに違いを認め合い、受け入れ、配慮しつつ信仰生活を営むことにより調和の取れた交わりへと成長していくのです。

春の異動…期待と不安

ついこの間新しい年を迎えたと思いましたら、もう大斎節も半ばになってしまいました。主イエス様の受難に思いを向け、緊張感を持ちつつご復活へと残りの日々を過ごしてまいりましょう。
さて、この4月には少し大掛かりな教役者の異動があります。異動される教役者にとっても、新しい教役者を受け入れる教会にとっても期待や多少の不安もあることと思います。教役者にとっては新しい任地でどんな働きが待っているのか、どんな信徒の方々がおられるのか。受け入れる教会にとっては、新任者はどんな教役者なのか、自分たちとどう関わってくれるのか、また、どう関わったらいいのか。そんな思いが双方にあることでしょう。
わたしもかつてたくさんそのような経験しましたが、教役者は先入観を持たないで、遣わされた場での人々や働きに一つ一つ丁寧に関わり、受け入れ教会の皆さんはその教役者と一緒になって教会形成をしていくのだという思いを持って協働していただくことを願っています。
そのような中、田中誠司祭が3月末をもって定年退職されます。田中司祭は教職を辞して聖職の道に進まれ15年間教区でお働きくださいました。退職後も主日礼拝へのご協力をいただけます。大変感謝です。健康に留意されご活躍いただきたいと思います。
最後に可児の教会について少し触れます。可児ミッションは現在活動を停止していますが、可児聖三一教会はもちろん礼拝が続けられています。しかし、一昨年以降少し元気がないことも事実です。現在、後藤司祭が管理牧師ですが、教区の皆様、殊に愛岐伝道区の皆様には可児の教会に心を留めていただき、時には礼拝に加わっていただければ可児の皆さんも元気づけられることと思います。皆様のご支援をお願いいたします。

礼拝堂で継続される祈り

昨年の教区会告示でも触れましたが、昨年、飯山復活教会の礼拝堂が登録有形文化財に指定されました。また、十年ほど前には長野聖救主教会の礼拝堂が同じく指定されています。更に、新生礼拝堂、軽井沢ショー記念礼拝堂も町から貴重な建造物に指定されています。その他、上田、松本、稲荷山、岡谷、高田の聖堂も戦前から存在している礼拝堂です。教区内にはそのように貴重な礼拝堂が数多く存在しますが、いずれもカナダ聖公会からの大切な遺産です。(愛岐伝道区内の戦前の礼拝堂は残念ながら戦災等でほとんど消失しています。)
しかし、言うまでもなくこれらの礼拝堂がすばらしいのは歴史的に価値のある建造物だからではありません。神様に礼拝を献げる場だからすばらしいのです。礼拝堂は法規的に言えば、「聖公会の公祷、聖奠(=サクラメント)およびその他の諸式の執行のために使用」されるところです。
礼拝堂でわたしたちは祈りを通して神様と、そして人々と交わります。礼拝堂ではその初めから祈りが献げられてきました。そして、今も祈り続けられています。礼拝堂には今までに祈られてきたたくさんの祈り―公同(共同)の祈り、個人の祈り―が詰まっているのです。
そのたくさんの祈りが詰まった礼拝堂でわたしたちは今も礼拝を献げていることを覚え、感謝したいのです。たとえ少人数の礼拝であっても、目に見えない多くの人たちの祈りに包まれ、支えられてわたしたちは礼拝を献げているのです。そして、力と励ましを与えられるのです。
礼拝は信仰生活の基本中の基本です。今年もわたしたちに与えられている礼拝堂で「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」(フィリ4・6)てまいりましょう。

会衆席で

先日の主日、大変恥ずかしいことをしてしまいました。午前にG教会で聖餐式・堅信式があり、午後はO教会で聖餐式でした。いずれも管理牧師と夏期実習中の聖職候補生が一緒でした。G教会での礼拝が終わり、食事を皆さんとご一緒し、O教会に向いました。教会に着き、さて、式服などの入った荷物を車から取り出そうと思ったところトランクに荷物がありません。何とG教会に忘れてきてしまったのです。しまったと思いましたが後の祭りです。片道4~50分の距離ですので取りに帰ることもできません。O教会では主に説教が役割でしたが、式服、祈祷書等はもちろん、説教の原稿も荷物の中に入れたままでした。
原稿がなくても説教ができないことはなかったのですが、この際、管理牧師におすがり(?)しようと思い、「説教も含めて聖餐式全部、お願いしてもいい?」と尋ねたところ、二つ返事で「いいですよ!」と言ってくれました。お陰様で助かりました。式服もありませんので、わたしは会衆席で聖餐式をお献げしました。主教になってからはもちろんですが、特別な場合を除いて主日に会衆席で聖餐式を献げたことはありませんでしたので思わぬ体験でした。
自分の注意不足で教会の皆さんに迷惑をかけ、しかも、これから聖職を目指す聖職候補生の前でこういう失態を犯すのは大変恥ずかしいことで大いに反省しなければと思ったことです。ちなみに、管理牧師さんは突然にもかかわらず大変良い説教をしてくれました。もちろん、説教原稿なしでです。感謝です。
蛇足ですが、わたしは時々、〝聖餐式が始まるというのに説教の原稿がなくてうろたえる〟という夢を見ることがあるのですが、それが正夢になってしまったように感じたのでした。

そこにいるということ

先日の巡回の折、しばらくぶりにある退職司祭(故人)のご夫人にお会いしました。前回の訪問時には少し体調が良くなかったようでお会いできませんでしたので、お元気なご様子に安心しました。ご挨拶をさせていただくと、お元気とのこと。「教会のことは何もできませんが…」と言われますので、ご夫人がいてくださるだけで皆さん嬉しいのですと申し上げました。
長く信仰生活を続けておられる方がいつも礼拝に出席しておられるということは何かホッとするものです。そこにおられるというだけで信仰を醸し出してくださるように感じます。
その少し前には別の教会を巡回しました。聖餐式の途中で小さい子供がむずかるためお母さんが気を遣って礼拝堂の外に連れていかれました。わたしは個人的には子供が多少むずかっても聖餐式という空間の中にいるということは大切なことだと思っています(泣き叫んでいる子を放置しておきなさいということではありません)。
小さな子供や赤ちゃんは聖餐式の意味や内容、説教も理解できないでしょう。しかし、理解できなくてもみんなが礼拝している空間にいるということが大切なのです。その場にいて礼拝の空気を全身で感じることにより、神様を知り、イエス様を知り、信仰の成長へとつながっていくのです。
 ところで、今月号をもって「平和の歌」が終了します。足掛け7年にわたり多くの皆様にご投稿いただきましたこと感謝です。
殊に、選者としてご奉仕くださいました黒田淑子さんは歌人としてのお忙しい身にもかかわらず、また、途中体調を崩されたにもかかわらず長い間ご奉仕くださいましたこと本当に感謝です。これからもご健康に留意されご活躍されますよう心よりお祈りしています。

平和を想う時

先日、岐阜市で開催されていた「子どもたちに伝える平和のための資料展」を見てきました。岐阜市は1945年(昭和20)7月9日深夜から10日にかけて米軍の空襲を受け、市の中心部のほとんどが焼かれ、約900人の犠牲者が出ました。
岐阜市は7月9日を「平和の鐘の日」とし、空襲での犠牲者を追悼し、戦争の悲惨さ残酷さを後世に語り継ぎ、平和への祈りを込めて鐘を鳴らします。この資料展もその一環として開催されています。主催は岐阜市ですが、企画・制作は「岐阜空襲を記録する会」が行っており、会の事務局長は岐阜の教会のメンバーが務めておられます。
資料展の規模は小さなものですが、畑を耕している小学生の様子や空襲前と空襲後の市内を写した写真、実際の焼夷弾などが展示されています。アメリカ軍が空襲1ヶ月前に撮影した岐阜市の航空写真は実に鮮明です。
当時の岐阜市中心街は空襲による火災の延焼を防ぐため道路が拡張されましたが―岐阜の教会もその時に強制的に撤去させられました。(戦後、現在の場所に移りました)―いざ空襲になりますと焼夷弾の威力の前には道路の拡張など何の意味もありませんでした。市内は焼け野原と化したのです。
8月は平和を想う(願う)時です。戦争は国と国、人と人とが争い、殺し合うことであり―しかも、無垢な非戦闘員が一番の犠牲になります―、平和な生活がすべて灰燼に帰すことを意味しています。
旧約のイザヤは「剣を打ち直して鍬とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(2・4)と預言していますが、戦争の気配を感じさせるような昨今、武力では決して平和な世界は生まれないということをわたしたちは過去の戦争の経験から学ぶのです。

「共謀罪」の恐ろしさ

去る5月23日、十分な論議がし尽くされたとは思われない状況の中で、衆議院本会議において「共謀罪」法案が政府与党によって強行採決されました。この法律の怖さは何と言っても一般の国民がテロの調査・捜査対象にされ得るということにあります。もちろんテロは絶対に許されるべきではなく、その防止のためには十分な取り締まりが必要であることは言うまでもありません。
政府は、一般市民はテロ捜査の対象にはならないと言っていますが、テロを画策する人(々)は一般の市民と区別のつかない状況の中で、しかも極めて秘密裡にそれを行います。と言うことは一般市民であっても少しでも疑わしいと思われれば―捜査する側がそう判断すれば―いくらでも、誰にでも捜査が及ぶということを意味しているのです。
戦前、「治安維持法」という悪法がありました。当時の司法相は議会で「無辜の民にまで及ぼすことのないよう十分研究考慮した」と言ったそうです。ところが、実際に法律が施行されると全くそうではありませんでした。一般市民はもちろん、宗教団体もその対象とされたことは改めて申し上げるまでもありません。
中部教区主教であった佐々木鎮次主教は―戦争中には東京教区主教に転出しておられましたが―スパイ容疑で憲兵隊に拘禁され、寿命を縮めるほどの厳しい取り調べを受けました。南東京(横浜)教区の須貝止主教もそうでした。他の何人かの司祭たちも同様です。
恐ろしいことは官憲がある人(々)をスパイと特定すれば簡単に拘束することができてしまうということです。「共謀罪」はまさにそのような法律なのです。「治安維持法」の二の舞にならないと一体誰が保証できるでしょうか。

くるみの木のこと

教区内の幼稚園・保育園がだんだんと認定こども園に移行しつつあります。既に三条、直江津がこども園化され、この4月からは松本、稲荷山も幼保連携型認定こども園に移行しました。それぞれの園が子どもたちへの教育と保育、そして子育て支援に今まで以上に努められますよう願っています。
先日、稲荷山で開園記念式典がありましたが、稲荷山幼稚園は幼保連携型認定こども園「稲荷山くるみこども園」という名称に変わりました。なぜ「くるみ」なのか平部延幸園長が説明しておられました。かつて稲荷山の教会にはたくさんのくるみの木があり、戦前戦後を通じて教会や幼稚園の財政を支えてきたそうです。今はなくなってしまいましたが、そのことを忘れないために「くるみこども園」と名付けたそうです。
そう言われてみますと、長野県の多くの教会には確かにかつて大きなくるみの木がたくさんあったように記憶しています。推測ですが、その背景には教区最初期の宣教師の一人であり、長野の教会で長く牧会されたウォーラー司祭がくるみの木を植えることを奨励したためではないかと思われます。
長野聖救主教会発行の「ウォーラー司祭―その生涯と家庭」にはウォーラー館の庭のくるみを盗みに入った子どもたちが同司祭からこっぴどく叱られたこと、また、くるみは大切に乾燥させ、売却代金は教会会計に入ったことが記されています。神学生のためにも使われたと聞いています。
ですから、単純に教会の庭にくるみの木がたくさんあったということではなく、一本の木にも教会の働きに奉仕するという存在意義があったのです。くるみの木にもそのような歴史があることを稲荷山の開園式典に出席して改めて感じました。

植松主教様を偲んでもう一言

 植松従爾主教様の逝去については先月号でお知らせいたしましたが、もう一言付け加えさせていただきます。主教様が退職された直後の『ともしび』に故・森一郎司祭様が、「主教様の大切な教えは、信徒一人ひとりの重要さということです。『一人の信徒は神さまから十二分に愛され、聖霊が与えられているので、何を考えてもよいし、何をするにも十分に力が与えられている』という主張をなさいました。私たちは十年間、同じ説教を聞かされてきたのです。次の十年間は信徒一人ひとりがこの主教様の教えを、自覚的に、自由に、創造的に生きて、実現したいものだと思います」と書いておられます。
わたしも主教様の「信徒は聖霊を与えられているので何でもできる」というお言葉を良く記憶しています。主教様の信仰の確かさを表しているお言葉であり、聖霊の働きへの確固とした信頼から来るお言葉です。そして、その信頼は―これも主教様の十年間の変わらない教えでしたが―「み言葉」と「祈り」から来るものでした。聖書を読み、お祈りをする。信仰者の基本中の基本を繰り返し教えられました。そして、「クリスチャンにとって最も大事なこの二つのことがもし欠けているとしたら…これはまさに致命的です」と言っておられます。主教様はそのことをご自身の生き方をもってわたしたちに教えてくださいました。
主教様が退職されて30年。この信仰の基本は永遠に変わるものではありません。むしろ、教会に少し元気がなくなってきている今だからこそ、その基本が本当に求められていると強く感じます。わたしたちが自覚的、創造的に信仰を実践するためには「み言葉」と「祈り」を決して欠かすことはできないのです。

”神に信頼をおく”

大斎節も残り少なくなりました。主イエス様の十字架、そして、ご復活を深く黙想しつつ残りの大斎節を過ごしてまいりましょう。
わたしたちの信仰生活はいつも平穏無事というわけには残念ながら行きません。些細なことでも信仰生活を脅かす困難さは必ずあるものです。そんな時、神様は必ず良い道を備えてくださると信じていても、時には神様に弱音を吐いたり、不安になったり、愚痴を言ったり、疑ったりしてしまうのです。それがわたしたちの信仰生活の現実です。
「コリントの信徒への手紙二」の中でパウロは、福音宣教のために被った苦難があまりにも激しかったので、「生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いだった」と記し、「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1・9)と書いています。
パウロがそれまで神様を頼りにしていなかったわけではないでしょうが、彼のような信仰の持ち主でも想像を超えた様々な苦難に遭遇したときには死の不安に駆られてしまうのです。しかし、彼は続けて言います。「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、…これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
パウロは自分たちがいかに大きな危険に晒されてきたか、しかしそんな時でも神様はいつも救ってくださったではないか、これからも救ってくださらないはずがない、と神様への信頼を確認し、福音宣教への思いを強くしているのです。
信仰が揺らぎそうになった時こそ神様に信頼をおいて信仰生活を送ってまいりましょう。神様はどんな時でもわたしたちに最も良い道を備えてくださるのです。
ご復活の祝福をお祈りいたします。