万が一じゃなく、二分の一

この表題は「がん検診の受診」を奨励するテレビの広告キャンペーンの文言です。夫婦がテニスをしていて、夫が「万が一、がんになったら」と言うと、妻が「万が一じゃなく、二分の一」ときっぱり言うのです。
今の時代、2人に1人はがんにかかり、3人に1人はがんで亡くなります。そういう意味でがんは普通にだれもがかかる病気と言えないこともないのですが、ではわたしたちが平常心でがんと向き合えるかと言いますとなかなかそうはいきません。また、簡単に治る病気かと言いますとそうでもありません。手術や薬で一応治療が終わっても何年間は様子を見なければならないとか、なかなか気が抜けない病気ではあり、その辺がやっかいなところです。

わたしの身近にも何人かの方々がおられます。皆さん治療を受けながら力強く(頑張って)、前向きに日常生活を送っておられます。そんな皆さんに心からエールを送ります。

誰もが病気にかからなければ本当にいいのですが、人間である以上そうもいきません。先日亡くなられた俳優の樹木希林さんは〝病を悪、健康を善とするだけなら、こんなつまらない人生はないわよ〟と言っておられたそうですが、本当にそうだと思います。病気は悪ではもちろんありませんし、人生のマイナスでもありません。

イエス様は目の見えない人には〝神の業が現れるためである〟と言われ、重い皮膚病の人には自ら触れて癒されました。そのようにイエス様はわたしたちの病に深く、積極的に関わってくださり、励ましと癒しを与えてくださるのです。そんなイエス様が見守っていてくださることを覚えたいと思います。

ただ、「万が一ではなく、二分の一」です。検診はちゃんと受けましょう。

一人の固有な存在として

去る9月8日、横浜教区の主教按手式があり、主教被選者入江修師が横浜教区主教に就任されました。入江主教の教区主教就任によりわたしは管理主教の任を解かれました。5ヶ月ちょっとの管理主教でしたが大変貴重な経験をさせていただき感謝でした。入江主教は中部教区とも深い関わりのあるお方ですのでこれから中部・横浜の協働が何らかの形で進められれば大変嬉しいと思います。横浜教区の新しい始動の上に神様の祝福と導きをお祈りいたします。

話は変わりますが、8月下旬、岐阜アソシア主催の〝かがり火2018〟に出席してきました。視覚障がい者の方々を対象とした結婚研修会で、今年で47回目になります。南は沖縄から北は北海道まで全国から多くの皆さんが参加されました。

来賓として参加された岐阜県視覚障害福祉協会の事務局長さん―女性の方です―の挨拶にはっとさせられました。その方は、特に男性の参加者に対してこれだけはお願いしたいと言われ、〝どうか相手の方に母親の代わりを求めないでください。生涯を共にする一人の女性として見てください〟と言われました。

その場にいた多くの人たちから―特に女性の参加者の方たちから―〝その通りだ〟という声なき声が聞こえたように感じました。そう感じたのはわたしだけかと思いましたら、あとで聞きましたらアソシアの館長も同じように感じたそうです。

性の違いがどうであろうと、障がいがあろうがなかろうが、「生産性」があろうがなかろうが、わたしたちはみんな固有で貴重な一人の人間として存在しています。その人に誰かほかの人を見るのではなく、その人自身を見るのです。その固有性を認め、受け入れるのです。そんなことに改めて気付かされた挨拶でした。

森主教を偲んで

前中部教区主教のフランシス森紀旦主教様が去る7月10日急逝されました。東京教区管理主教の広田勝一主教様から知らせを受けた時、本当にびっくりし、思わず〝本当ですか?〟と聞き返してしまいました。足の調子が良くないとのことで整形外科に行かれ、そこで倒れられたとのことです。救急車で国際医療研究センター病院に運ばれましたが、〝後腹膜出血〟のため逝去されました。満78歳でした。
葬儀は―以前からご本人と奥様の敦子さんで話をしておられたそうで―ご家族だけでということで12日、目白聖公会で執り行われました。後日、敦子さんをお訪ねし、お祈りをさせていただいたとき、葬儀の写真を見せていいただきましたが、非常に簡素でありながら清楚で、森主教様にふさわしい葬儀であったと思いました。

主教様は生前、自分は「死ぬ」という表現は好きではない、「召される」ということだと思うと言っておられました。主教様の逝去はわたしたちの思いを越えた神様の深いお心のうちにある「召し」であると受け止めたいと思っています。

森主教様は1998年3月から2009年12月まで教区主教を務められました。その間、中部教区センターの建設、フィリピン聖公会北中央教区との協働関係の締結、可児伝道所(現・可児聖三一教会)の開設、教区成立90周年の記念礼拝、組織の改編等、教区の宣教・牧会における大切な働きを導かれました。

また、日本聖公会における女性の司祭按手第1号として渋川良子執事を司祭に按手されたことは森主教様の記念すべき決断でした。
主教様のお働きに感謝し、魂の平安とご家族へのお慰めをお祈りいたします。

共にいる… お互いを肌で感じる

6月に教役者協議会が松代で開かれました。そこに横浜教区の入江修司祭(横浜教区常置委員長、主教被選者)と片山謙司祭(横浜教区総務主事)が参加されました。
以前、このコラムにも書きましたように中部教区は横浜教区から分かれて出来た教区ですが、最近は少し関係が希薄になっているように感じています。わたしが教役者になってから横浜教区とは2回の合同教役者会が行われています。1回目は植松従爾主教と岩井克彦主教の時代で、1981年6月に軽井沢で開かれています。2回目は2007年11月、清里の清泉寮で行われました。森紀旦主教と遠藤哲主教の時です。
第1回目、第2回目とも両教区の現状を分かち合い、両教区の協働について話し合いました。1回目の後はなかなか具体的な協働には結びつかなかったように記憶していますが、2回目にはできるところから協働しましょうということで横浜教区の礼拝音楽研修会に中部教区からも参加しました。主教や司祭の講壇交換をという話も出ましたがなかなか実現には結びつきませんでした。
今回、横浜教区のお二人の聖職者が教役者協議会に参加してくださったことは、すぐに今後の交流に結びつく、つかないは別にしても、とても良い機会であったと思っています。お二人が中部の教役者と「共にいる」ことにより、肌で中部の雰囲気を感じていただけたと思うからです。わたしも管理主教ということで横浜教区の常置委員会、教役者会等にも参加させていただき、横浜の雰囲気を肌で感じています。その場にいてその雰囲気を肌で感じるということはお互いを理解する上でとても大事なことだと思っています。

悲喜こもごもの月

 5月は悲喜こもごもの月でした。5月1日には教区と協働関係にあるフィリピン聖公会北中央教区の新しい主教さんの按手・就任式に行ってきました。新しく主教に就任されたのはネストール・ポルティック司祭で、第3代目の教区主教になります。前任者のジョエル・パチャオ主教は20年以上にわたって教区主教を務められましたので北中央教区の方々も久しぶりの主教按手式ということで多少の戸惑いもあったようですが、それ以上に感激もひとしおだったようです。

 ポルティック主教は、〝主教になったとは言え自分はまだまだ勉強中の身である〟と謙虚な姿勢をお持ちで、大変初々しい感じがしました。日本にも来たいと希望しておられますので、いずれおいでいただき可児の教会など訪問・激励していただければと願っています。

 実は、フィリピンに行っている間も、その少し前からかなり容体が悪くなっておられた相澤晃司祭のことが気にかかっていました。フィリピンから帰って十日後の5月11日に逝去されました。相澤司祭とは四十数年にわたり同労者として働かせていただき、わたしが主教になってからも礼拝にご協力いただいたり、色々とアドバイスをいただいたりしていただけに残念です。魂の平安を心よりお祈りいたします。

 5月20日には長野聖救主教会聖堂聖別120周年記念の聖餐式が献げられました。礼拝を献げながら120年前の聖堂聖別式に思いを馳せました。日本でも屈指の門前町にまだまだキリスト教への偏見が強い明治の時代に聖堂を建築するというウォーラー司祭のチャレンジ精神に大いに学ぶべきであるとの感を強くしました。また、高名な鍵盤楽器奏者である武久源造さんの伴奏で聖餐式が献げられたことも感謝でした。

中部地方部と南東京地方部

横浜教区の三鍋裕主教様の定年退職を受け、4月1日から横浜教区の管理主教を委嘱されました。中部教区主教が横浜教区管理主教を務めるのは植松従爾主教様以来40年振りになります。次期教区主教が按手・就任されるまでの管理となります。

歴史をご存知の方はお分かりかと思いますが、中部教区は教区(当初は地方部)が成立するまでの間、当時の日本聖公会の宣教の区割りで言いますと南東京地方部(横浜教区の前身)に属しており、英国聖公会主教の管轄のもとにありました。

日本聖公会における英国聖公会の第2代目の主教であったビカステス主教は岐阜や名古屋、大垣に堅信式などのために来ておられます。また、濃尾震災の折には岐阜にも視察に来ておられます。更に、今年、礼拝堂聖別120周年を迎える長野聖救主教会の聖堂はビカステス主教の後任であるオードレー主教によって聖別されました。オードレー主教も教区内の各教会で堅信式を行っています。

その後、1912年(大正元)に中部地方部が設立され、南東京地方部から独立しましたが、どういうわけか中部地方部主教の紋章(印)は南東京地方部主教の紋章とほとんど同じです。南東京地方部主教の紋章にカナダを代表する木である〝かえで〟のマークが入ったものが中部地方部主教の印です。現在まで変わっていません。地方部設立時にどうして新しい紋章にしなかったのかは分かりませんが、中部地方部(カナダ聖公会)が南東京地方部(英国聖公会)から分かれて出来た教区であることを銘記するためだったのかもしれません。

このように中部教区と横浜教区とは様々な点でつながっていることを教区の皆様にも知っていただければと思います。

不携帯電話?

わたしが初めて携帯電話に接したのは岐阜の教会時代でした(1989年頃)。教会委員のお一人が大きな携帯電話を肩にかけて持っていたように記憶しています。立派なものでしたが、感度はそれほど良くはなかったように思います。

携帯電話は日進月歩でどんどんと改良され便利になっています。ちなみにわたしも携帯電話を持っていますが、いわゆる「スマホ」ではなく、少し古い「ガラケー」と呼ばれる携帯電話です。携帯電話は確かに便利で、いつでもどこででも電話がかけられますが、かかってくる時には当然こちらの都合に関係なくかかってきますので、しばしばどきっとさせられることもあります。会議中に携帯が鳴ると即座に「もしもし」と出られる方もおられますが、わたしはそういうことにどうも抵抗感があります。やはり今ここでしている会議に集中したいと思うからです。会議が一区切りしてからかけ直すようにしています。(最近、それも忘れるのですが。)

また、一対一で会話をしている途中に相手の携帯が鳴り、目の前で「もしもし」と出られてしまうと、今あなたとわたしが話しているこの状況は一体何なのかと思わずにはいられません。そう感じるわたしが古い人間なのかもしれませんが。

わたしは携帯電話を常時携帯していないこともあります。もちろんトイレには持って入りません。出かける時でも時々携帯するのを忘れてしまうこともあります。そういう時に限って電話があるものです。妻からはわたしの携帯は携帯の用をなしていないと思われているようですが、確かにそうだなと思います。しかし、自分の生活が携帯中心になってしまったらと思うと恐ろしくなるのです。わたしの携帯に電話をくださる皆様、わたしがすぐに出ないことがあってもどうぞお許しください。

弱い部分が必要

イースターおめでとうございます。主イエス様のご復活の恵みと祝福が皆さんと共にありますようにお祈りいたします。
2月の終わりに日本聖公会保育連盟(聖保連)の設置者・園長・主任者研修会が名古屋柳城短大で開催され、「幼児期における発達障害の理解と支援」のテーマで講演を聞きました。

内容は発達障害を持つ幼児への支援についてだったのですが、話を聞いていますとこれは幼児に限った問題ではなく、わたしたち大人にも共通する事柄であることを強く感じました。「空気が読めない」「すぐにキレル」「過去の経験から学ぶことが苦手」「共感性が弱い」「冗談が分からない」「相手を傷つけていることに気づかない」「自分の失敗を他人のせいにする」等々。

講師の先生もこれは幼児だけのことではなく皆さん(保育者)自身のことでもありますよと指摘しておられましたが、教役者としてのわたしたちにも関係することであり、大変身につまされる話でした。

わたしたちは誰でもが何かしら欠けたところと言いますか、弱さを持っているものです。パウロは教会共同体を表現するのに人間の体を例に取り、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのであり、神はそういう部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と言い、弱く見える部分を他の部分が補いつつ体全体の調和を保っているのだと言っています。

「障害ではなく特性」「困った子ではなく困っている子」―幼児をそのように理解することはキリスト教保育の根底をなす重要な要素です。そして、教会という共同体はそこに関わる人たちがお互いに違いを認め合い、受け入れ、配慮しつつ信仰生活を営むことにより調和の取れた交わりへと成長していくのです。

春の異動…期待と不安

ついこの間新しい年を迎えたと思いましたら、もう大斎節も半ばになってしまいました。主イエス様の受難に思いを向け、緊張感を持ちつつご復活へと残りの日々を過ごしてまいりましょう。
さて、この4月には少し大掛かりな教役者の異動があります。異動される教役者にとっても、新しい教役者を受け入れる教会にとっても期待や多少の不安もあることと思います。教役者にとっては新しい任地でどんな働きが待っているのか、どんな信徒の方々がおられるのか。受け入れる教会にとっては、新任者はどんな教役者なのか、自分たちとどう関わってくれるのか、また、どう関わったらいいのか。そんな思いが双方にあることでしょう。
わたしもかつてたくさんそのような経験しましたが、教役者は先入観を持たないで、遣わされた場での人々や働きに一つ一つ丁寧に関わり、受け入れ教会の皆さんはその教役者と一緒になって教会形成をしていくのだという思いを持って協働していただくことを願っています。
そのような中、田中誠司祭が3月末をもって定年退職されます。田中司祭は教職を辞して聖職の道に進まれ15年間教区でお働きくださいました。退職後も主日礼拝へのご協力をいただけます。大変感謝です。健康に留意されご活躍いただきたいと思います。
最後に可児の教会について少し触れます。可児ミッションは現在活動を停止していますが、可児聖三一教会はもちろん礼拝が続けられています。しかし、一昨年以降少し元気がないことも事実です。現在、後藤司祭が管理牧師ですが、教区の皆様、殊に愛岐伝道区の皆様には可児の教会に心を留めていただき、時には礼拝に加わっていただければ可児の皆さんも元気づけられることと思います。皆様のご支援をお願いいたします。

礼拝堂で継続される祈り

昨年の教区会告示でも触れましたが、昨年、飯山復活教会の礼拝堂が登録有形文化財に指定されました。また、十年ほど前には長野聖救主教会の礼拝堂が同じく指定されています。更に、新生礼拝堂、軽井沢ショー記念礼拝堂も町から貴重な建造物に指定されています。その他、上田、松本、稲荷山、岡谷、高田の聖堂も戦前から存在している礼拝堂です。教区内にはそのように貴重な礼拝堂が数多く存在しますが、いずれもカナダ聖公会からの大切な遺産です。(愛岐伝道区内の戦前の礼拝堂は残念ながら戦災等でほとんど消失しています。)
しかし、言うまでもなくこれらの礼拝堂がすばらしいのは歴史的に価値のある建造物だからではありません。神様に礼拝を献げる場だからすばらしいのです。礼拝堂は法規的に言えば、「聖公会の公祷、聖奠(=サクラメント)およびその他の諸式の執行のために使用」されるところです。
礼拝堂でわたしたちは祈りを通して神様と、そして人々と交わります。礼拝堂ではその初めから祈りが献げられてきました。そして、今も祈り続けられています。礼拝堂には今までに祈られてきたたくさんの祈り―公同(共同)の祈り、個人の祈り―が詰まっているのです。
そのたくさんの祈りが詰まった礼拝堂でわたしたちは今も礼拝を献げていることを覚え、感謝したいのです。たとえ少人数の礼拝であっても、目に見えない多くの人たちの祈りに包まれ、支えられてわたしたちは礼拝を献げているのです。そして、力と励ましを与えられるのです。
礼拝は信仰生活の基本中の基本です。今年もわたしたちに与えられている礼拝堂で「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」(フィリ4・6)てまいりましょう。