礼拝カレンダー2023年7月号

あっという間に1年の折り返し時期となりました。今年の梅雨はしっかり雨が降っている印象の東海地方ですが、コロナ禍が明け、イベントなども再開されつつあり、どのような夏になるのか、ワクワク(ハラハラ?)しています。

皆さま体調に気を付けてお過ごしください。

※6/28修正…7/30の名古屋聖ヨハネ、松本聖十字

宣教部:ヒューマンライブラリーのご案内

中部教区宣教部では、教区内でのヒューマンライブラリーのシリーズ第1回として、教役者、特に退職先生方より、ご自分の召命(個人的信仰の背景や教役者の道を歩むようになったきっかけなど)について語って頂くオンラインでの集いを企画しました。説教ではなかなか伺えない、主教様、司祭様方の個人的な物語、またそこに響いている神様の呼びかけに耳を傾ける良きトキとして交わって頂ければ幸いです。多くの皆様のご参加をお待ちしております。

祈りを唱えながら…

 新年度が始まって一ヶ月が経ました。この一ヶ月間、多くの幼稚園、保育園、子ども園でも同様かと思いますが、
にこにこ顔で登園する子もいれば、母親との別れが悲しくて門の前に来ると一段と泣き叫ぶ子、必死に悲しみをこらえてうるうる顔で教師に手を繋がれて部屋に向かう子と、個性様々です。加えて、子どもばかりか母親や父親の個性も感じる時です。各家庭の様子も何となく想像できるような時でもあるのです。でも、昨日は泣き叫んでいたのに今朝は全く様子が違って、親も教師も覚悟が拍子抜けするほど毅然と部屋に向かったり、
そんな一日の始まりですが、次第に泣き声も少なくなり、ひとり一人のその子なりの成長を感じさせてくれます。
 さて大人も子どもも皆が楽しみにしている黄金週間がやってきました。保育者の立場からすると、折角なじんできた園での生活が(全く)白紙に戻るような恨めしい連続休日でもありますが、今度の登園時にはどんな顔を見せてくれるのか楽しみにしています。
 この春、新社会人となった方々はいかがですか?
 近年、五月病という言葉は耳にしませんが、新しい環境や人間関係の緊張が緩み、疲れも滲み出してくる中で、以前のようなやる気も意欲も湧いてこず、進む方向や道を違えたか、己の資質の問題なのかと不安や自問が湧いてきますが、年齢や経験年数に関係なく誰もが一度や二度ならず問い続けているようにも思います。この際、思い切って自分がしたくない事、避けたいこと、行きたくないところを挙げてみると良いかと思います。義務感や責任感で行っている事や思っている事を含めて、自分の本心を正直に見つめ、吐き出すことは精神衛生上とても重要なことです。

 「マイカルの祈り」
主よ、あなたが行かせたいところに連れていってください。
あなたが会わせたい人に会わせてください。
あなたが語りたいことを示してください。
私があなたの道をさえぎることがありませんように。

 この祈りはニューヨーク同時多発テロで犠牲となった、マイカル・ジャッジ神父(カトリック司祭)がニューヨーク消防署のチャプレンとして、事故や火災で家族を失った人々、ホームレス、エイズ患者、LGBTQの人達のために働きながら、子どもや大人、どのような人に対しても彼が人と出会う時、そして「現場」に行く時に必ず唱えていた祈りとのことでした。そして彼は2001年9月11日(火)その日にも、この祈りを唱えながら世界貿易センタービルへと向かい殉職されたのでした。やがてこの祈りは同僚の消防士達の現場へ向かう祈りだけでなく、更に多くの「現場」に向かう人達の祈りへと広まりました。このマイカル神父が遺された祈りの言葉に、癒やされるような、救われるような…励まされ、支えられます。めげそうになる時、自ずと力が湧いてくるような祈りのように思います。
 自分の「現場」を「現場」として受けとめ、思いを新たに今日も出かけて行けるといいですね。

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師)

「牧師任命式」の恵み

 主教職を担う上でのお恵みは数多くありますが、私にとって「牧師任命式」はとりわけ大切な機会となっています。先月も名古屋聖マルコ教会の牧師として任じた丁胤植司祭と、新潟聖パウロ教会に派遣した石田雅嗣司祭の牧師任命式を執り行わせていただきました。
 主教は聖所の入り口に立ち、新任牧師は教会委員代表に伴われて主教の前に立ちます。司祭は会衆の前で、この地での新しいミッションを果たすことを約束し、この司祭を牧師とすることを支持するかとの主教の問いかけに、声を合わせて「支持します」と応答します。続いてみな、神の前に跪き、司祭按手の際の嘆願を唱えます。
 そして主教は、新任牧師に聖書、祈祷書、法憲法規を渡し、この人が、み言葉を宣べ、人々の中で祈る者となり、教会を牧し、整える者となることを切に願い求めます。さらには、教会委員が全会衆を代表して聖堂の鍵を委ね、すべての人に教会の扉を開くように促します。
 今秋には宣教協議会が予定されていますが、10年前の宣教協議会で提示された〈ていねいな牧会と宣教〉とは、まさしくそれぞれの牧師が「牧師任命式」での誓いを誠実に果たし、会衆信徒がその牧師を全力で支え、共に宣教・牧会を担うことに尽きるのです。
 丁胤植司祭のお父さまは、癌のため、今年1月に残念ながら主のもとに召されました。丁先生は、末期診断を受けられたお父さまと最後の時を過ごすために昨年12月に韓国に戻られました。自宅の玄関で丁先生を見送られたお父さまは、突然、息子が日本での宣教の働きをしっかりと担い切ることができますようにと、丁司祭のために祈り、祝福されたとのことです。
 丁胤植司祭の牧師任命式の時に、そこには間違いなく、お父さまの祈り、励ましもありました。まさしく感謝と感動に満たされた時であったのです。

礼拝カレンダー2023年6月号

いつも教区Webサイトをご覧いただきありがとうございます。

6月から礼拝カレンダーを教区Webサイトにてお知らせすることになりました。
お気に入り登録をされている方は、変更をお願いいたします。

※6/13修正…大垣聖ペテロ教会備考欄に追記しました。

『聖パウロ祭』のお知らせ

2023年5月17日

主の平和   

 新緑の候 益々ご健勝のことと存じます

 6月18日(日)午前10時半からの聖餐式の後、お食事会をはさんで、午後の集まりでは、「福音を証しするために」というテーマで、ナタナエル植松誠主教様を囲んで、講話と何曲か皆で歌いたいと思います。新潟聖パウロ教会の教会創立を記念する『聖パウロ祭』も、新型コロナウイルス感染症のために自粛していましたが、今年はあまり制限なく、開催していきたいと思います。多くの皆様のご参加をお待ちしております。ご出席される方は事前にご連絡いただけると幸いです。                在主                                                

6月18日(日)10時半~    聖霊降臨後第3主日聖餐式
司式:ナタナエル植松誠主教    説教:ヨセフ石田雅嗣司祭
※聖餐式後、お食事会を行います

午後 「福音を証しするために」
語り ナタナエル植松誠主教 (前日本聖公会首座主教/北海道教区主教)  

  

日本聖公会中部教区新潟聖パウロ教会 牧師 司祭ヨセフ石田雅嗣 
電話:025-222-0474 新潟県新潟市中央区医学町通2番町74 

礼拝カレンダー2023年5月号

各地の学校や施設では新しい年度を迎えられ、そろそろ新生活も慣れた頃でしょうか。
気候が安定せず体調を崩しやすくなっていますが、皆さま体調に気を付けて引き続き過ごしてまいりましょう!
さて、5月の礼拝カレンダーが完成しましたので、お知らせいたします。ご確認よろしくお願いいたします。

※5/1修正…5/7の名古屋聖マルコ教会の聖餐式の時間を修正しました。

釘跡に連なる

 聖ミカエル保育園には2階にあるホールの奥に園長室がある。保育園にいるときは、ホールで遊ぶ子どもたちの賑やかな声を聞きながら、この部屋で過ごすことが多い。朝、昼、夕方と子どもたちが自由に出入り出来るようにしてあり、子どもたちも多い時には10人近く部屋で過ごしている。話をしてくれる子、ニコニコしながら満足そうに大人用の椅子に座っている子、不思議そうな顔をしながら部屋の中を見回している子など、様々な姿を見ることが出来る。
 ある夕方、延長の時間帯にいつものように子どもたちが園長室を襲撃しにきた。ここで、仕事はいったん休憩となる。今日は2歳児クラスの子どもたちに園長室が占拠されたぁと思いながら、ある女の児が園長室に置いてある十字架に目を留めているのに気が付いた。そして、その児が「十字架にいるのはだれ?」と聞いてきた。イエス様だよと答えると、続けて、「どうやって十字架にいるの?」を聞いてきた。おそらく、十字架にいるイエス様がどうやって十字架に架かっているのか知りたかったのだろう。十字架をその児の前に置いて、釘に打たれて十字架に架けられてしまっているイエス様の姿を見せた。「痛い、いたい」と言って釘で打たれた手と足を指さしていた。そして、暫く考えて、「どうやったら助けてあげられるんだろう、助けてあげたい」と、それも満面の笑顔で話してくれた。
 これには、正直驚いてしまった。助けてあげたいという思いに至ったことがなかったからである。振り返ってみれば、イエス様に守られながら歩んでこられた自分がいる。自分がイエス様を助けるなんて、おこがましいこととはいえ、助けるという考えにおよばなかったのは何故だろうか。助けてもらえるのが当たり前だと思っていたのだろうか。苦しんでいるイエス様から目を逸らして歩んでいたのだろうか。それとも、苦しんでいるのがイエス様だとでも思っていたのだろうか。
 この時期になると幼児虐待の母親の話を思い出す。父親が子どもに暴力を振るっている時、私は暴力を受けることはなかった。誰かの痛みの上に自分の安心が保証されている世の中になっている気もする。それは、学校や社会での苛めにも同様なことが言える。自分が助かるために苛めに加担する、また、見て見ぬふりをする。助けてと言える社会になっているのだろうか。そして、その言葉が届けられる世の中になっているだろうか。
 私たちはイエス様の十字架を通して罪から解放されて歩むことが出来ている。イエス様の十字架での苦しみや痛みのうえに自分があることをこの釘跡に目を向けてイースターを迎えたい。一人でも多くの人がイエス様の釘跡に触れ、苦しみや痛みから解放されますように祈り歩み続けたい。
 この女の児はこれを機に十字架上のイエス様に話しかけている。痛くはないの?助けてあげるからね、と。

司祭 フランシス 江夏一彰
(上田聖ミカエル及諸天使教会・軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)