いま、ここを生きる

あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、神に愛され、召されて主の交わりに加わった皆様へ平和のあいさつを送ります。

小布施では84年前、新生療養所の始まりと同時にクリスマス・キャロリングが始まりました。一時中断されましたが、再開(復興)されて今年は「復興第34回クリスマスキャロリング」となりました。クリスマス・イブの夜、新生礼拝堂の前に人びとが集まり、教会、病院、近隣から集う一人ひとりが手にペンライトを持ち、歌声を響かせます。

まず、病院のすぐ側にある小布施荘という特別養護老人ホームと新生病院の各病棟を訪ね、私たちの間にお生まれになる神様を迎える喜びの歌を歌います。その後、毎年クリスマス・キャロリングのチラシを印刷して新聞の折り込みをしてくださる傘風楼というお店で、お客さんと一緒に歌い、美味しいココアとケーキをいただきます。復興の時からずっと支えてくださっています。

そして、長野信用金庫前で歌い、教会の信徒さんのお店で手作りの御汁粉とおでんをいただきます。寒い夜、凍った道を歩きながら歌った私たちを心身共に暖めてくださいます。

小布施での2回目のクリスマスを過ごすことが出来、とても幸せでした。神学院卒業の前、中部教区の聖職候補生でありながら、教会に派遣されることへの不安がありました。神様にすべてをお任せすると決めていたのに、教会という信仰共同体の中で何が出来るのか不安でした。そんな時、故野村潔司祭が次のような話を聴かせてくださいました。インドで行われた国際会議後、泊まっていたホテルから朝散歩に出かけた時に、赤ちゃんを抱いて座り込んでいる一人の母親と目があった時の衝撃を忘れられないと。その時に受けた思いを忘れずに、遣わされた場所で生きることが大切であると。

沖縄の基地問題、フィリピンの貧困、日韓の歴史、原爆と原発、ジェンダー、ハラスメント防止・対策など様々な課題をも大切にしながら、新生病院での働きを大切にして「いま、ここ」を生きて行こうと願っています。新生礼拝堂の新年のメッセージとして週報に掲載したアメリカの牧師アルフレッド・D・スーザの説教の言葉をご紹介いたします。

私はずっとながいこと、「本当の人生」はまだこれからだと思ってきました。
いつも目の前にあるやりかけの仕事、返すべき借金、果たすべき義務、それらを片付けてから、やっと人生が始まるのだと。
ある日、私は気付きました。それらの邪魔者こそが私の人生なのだと。
そして私は知りました。幸せへの道などない、道こそが幸せなのだと。
すべての瞬間が宝物であり、待つことなどいらないのです。
幸せは旅であり目的地ではない。
踊りなさい 誰も見ていないかのように。
愛しなさい 一度も傷ついたことのないように。
歌いなさい 誰も聴いていないかのように。
生きなさい この地上が天国であるかのように。
(新生礼拝堂牧師)

いのちはさずかりもの

先日、三条の「聖母こども園」お誕生礼拝の折に、お話を致しました。
「〝誕生日〟というのは、みんなが生まれた日です。みんなが生まれたのは神さまからさずかったからです。(中略)みんなが生まれたのは神さまから頂いたものだという理由が二つあります。一つ目はみんなが生まれたときはとにかくうれしくなるということです。とにかくちっちゃくて、(中略)。このうれしくなるというのが、神さまからのプレゼント・贈り物として頂いたという理由です。おかあさん、おとうさんは心からよろこびうれしくなって自然と神さまにありがとうとお礼を言うんですね。
ところで、みんなは欲しいものがあったり、どこかに行きたくなっておかあさん、おとうさんにおねだりして、買ってもらったり、連れて行ってもらったりしたらうれしいですね。これはおかあさん、おとうさんがみんなのことを愛し、かわいがっているからみんなのよろこぶ顔を見たいからそうしてくださるんです。でもね、みんなが生まれるということは、お金で買えません。欲しいと思っても手に入らないこともあります。この欲しいと思ってもお金で買えないことが、みんなが生まれたのは神さまから頂いた、さずかったことなんだという二つ目の理由なんですよ。(後略)」
 ところで今の私たち大人の世界では、子供を欲しかったり欲しくなかったりする場合、お金で何とかなる時代です。高度に医療が発達して、人間のいのちの始まりのところで、
本来さずかりものであるはずのいのちに医療が介入して(お金をかけて)人間(親)が子供を産むか産まないかを決めることが出来るのです。「出生前診断」を受けると、胎児の様子がわかり、「産むか産まないか」の判断材料が与えられます。ある統計によると、「出生前診断」を受けて、遺伝子異常、つまり障害のある子の生まれる可能性があると診断された人の94%が中絶したという報告があります。
私たちのいのちは、神さまによって造られたものです。しかも「神の像・みかたち」に似せて創造されたものです。神さまによって与えられたいのちに失敗作はありません。すべて等しく〝神の業が現れるため〟(ヨハ9・3)に創造されたのです。人間のいのちに「生きるに値するいのち」「生きるに値しないいのち」はありません。この生きるに値する、値しないいのち=「優生思想」的考え方で引き起こされた事件が相模原の事件でしたが、この事件は他人ごとではありません。「出生前診断」の問題と相模原の事件は通底するものがあるからです。私たちも、優生思想に侵されているのではないでしょうか。
今こそ、〝人間のいのちはさずかりもの〟という聖書の真理を12月のクリスマスみどりご誕生の折に深く黙想したいものだと思います。
(新潟聖パウロ教会牧師、三条聖母マリア教会管理牧師、長岡聖ルカ教会管理牧師)

死刑執行に断固抗議します

2016年11月11日

内閣総理大臣  安倍 晋三 様
法務大臣    金田 勝年 様

死刑執行に断固抗議します

本日、福岡拘置所において田尻賢一さんに対して死刑が執行されました。極めて遺憾であり、死刑執行に断固として抗議します。

死刑制度の存置が犯罪抑止力にならないことは統計上からも明白であります。また、足利事件、志布志事件、東電OL殺人事件、そして記憶に新しい袴田事件など冤罪事件が続発しており、今もなお冤罪を訴え続けている死刑囚がおります。ひとたび死刑が執行されれば、取り返しがつきません。

国際的に、死刑制度は廃止される傾向にあり、世界で死刑を廃止または停止している国は140か国に上ります。OECD(経済協力開発機構)加盟国(34か国)の中で死刑制度を存置している国は、日本・韓国・アメリカの3か国のみですが、韓国とアメリカの19州は死刑を廃止または停止しており、死刑を国家として統一して執行しているのは日本だけです。

金田法相は8月の就任会見で、「人の命を絶つ極めて重大な刑罰。慎重な態度で臨む必要がある」と述べていたにもかかわらず、就任からわずか3か月後の執行は、政権交代前の慎重な議論の積み重ねを顧みないものだと言えます。

わたしたちは現在、死刑の判決後キリスト教の信仰を受け入れ、受洗した死刑囚と共に信仰生活を送っております。また、これまでに、自分の犯した罪に真摯に向き合い、「生きて罪を償いたい」と贖罪の日々を送っていた5名の同宗の友を、死刑の執行によって奪われました。わたしたちの、死刑制度廃止を求める願いには切なるものがあります。

わたしたちは、神より与えられたすべての人の生命と尊厳、そして人権を守るキリスト教信仰にたって、一日も早い死刑制度の廃止を訴えます。金田法務大臣には、是非とも多くの死刑制度廃止を訴えるわたしたち国民の声に耳を傾け、内閣及び国会の場において、死刑制度廃止に向け努力されますように、また、その法改正がなされるまで、決して死刑の執行をしないよう強く要請いたします。

以上

宗教法人日本聖公会中部教区 宣教局社会宣教部

 

 

日本聖公会の新しい歩み

9月下旬、主教会が開催され、「堅信前の陪餐」を実施するための「主教会牧会書簡」と「『堅信前の陪餐』に関わる一般原則」(ガイドライン)について話し合い、ほぼ内容を確定しました。この「ともしび」が発行される頃には、各教会に送られていることと思います。

「堅信前の陪餐」は2017年1月1日から実施されます。ただし、洗礼を受けていれば(受ければ)、即、その日から無条件で陪餐できるのかと言いましたらそうではありません。イエス・キリストの体と血である大事な聖餐をいただくわけですから、必要な準備を経てからになります。

◎「洗礼・堅信・陪餐」の準備を終えて洗礼を受けた人の場合、堅信がなくても陪餐できるのか。その場合、堅信はどうするのか。◎嬰児や幼児、小児の受洗者の場合の陪餐についてはどうなのか。◎子どもの陪餐の準備や手続き、陪餐方法はどうするのか。◎他教派から転入した人の場合はどうなるのか。◎洗礼を受けただけで長く教会から離れていた人の陪餐はどうなるのか。そんなことが主な内容になっています。

各教会で信徒と教役者がこの「主教会牧会書簡」と「『堅信前の陪餐』に関わる一般原則」を十分に学んで実施へと向かって行くことになります。教役者協議会でも内容を十分に理解しなければなりません。「堅信前の陪餐」が実施されることにより日本聖公会が聖餐を中心にした宣教の共同体としてより豊かにされることを願います。

「収穫は多い」(ルカ10章2節)

教会からすぐ近くに豊橋公園があり、造パラ(子ども造形パラダイス)が今年も開催されました。市内の保幼・小・中・仲良し学級・養護学校から高校までの全生徒の作品が野外に展示されています。同じテーマ、同じ素材で造られているのに、どの作品も個性のかたまりで、どれ一つ同じものがありません。感心させるもの、笑いを誘うもの、また、本人から説明を聞いてやっと理解できるマイワールドな作品があったりして、その豊かさには驚かされます。生徒自身も、作品を造ることによって、一人一人に与えられている個性が引き出されていることを実感しており、私たちもまた、神様の恵みがこんなに豊かに与えられていることを知り、神様の祝福に一緒に出会う時となったように感じました。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。「見よ」と、促されて見る時に、そこには神様の祝福と恵みに満たされた神様の創造のみ業のパラダイス、神様との交わりによって見ることのできる世界が広がっています。

ルカ福音書10章2節に「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とのイエス様のみ言葉があります。
昨年9月には野村潔司祭が逝去、来年3月で私も同労者と共に定年を迎え、再来年はさらにお一人が定年を迎え、中部教区の現職司祭の減少が目に見えています。これまでのように、一つの教会に、宣教・伝道・牧会に一人の司祭・執事が遣わされていた時代から、今現在、教区再編を模索するまでの大変な転換期を迎えているように思います。そのような中、働き手を送ってくださるように願いなさいとのみ言葉を聞くとき、私たちは、教会の働き手が多くなれば何とかなる、働き手を増やせばこの困難な状況を打開することができる、自分たちの力で何とかできる、との思いに駆られ、困難な状況から脱出するために、こうした思いをもって神様の力を求めて祈りたくなってしまいます。けれども、イエス様はまず「収穫は多い」との言葉を告げます。私たちに求められているのは、働き手を私たち自身で作り出そうとすることではなく、まだ気づかないでいる神様の祝福が、この人にも、こんな時にも、こんな所でも豊かに与えられていることを見出していくことにあると思います。それは、言うまでもなく教役者だけの働きではありません。キリスト者一人一人がその刈り手に招かれています。

聖歌213番(実れる田の面)では、見渡す限り、神様の祝福が豊かに実っていることを伝えています。私たちは、収穫とは教勢とか、自分の身に良いことが起きること(良い収穫があった、得をした、など)として受け止めてしまい、どのようなものが神様の祝福の実りとして私たちに与えられているのか、なかなか気が付かないでいます。イエス様の「収穫は多い」とのみ言葉に目を向け、私が思う収穫の実りでなく、イエス様が示してくださる祝福の実りに気付き、共に感謝・賛美する刈り手への招きに歩み出しましょう。

(豊橋昇天教会牧師、豊田聖ペテロ聖パウロ教会管理)

〝教会の5要素・宣教の5指標〟

このたび管区事務所より「教会の5要素・宣教の5指標」のカードが送られてきました。皆様も既にお持ちのことと思います。まだの方はどうぞお持ちになり、祈祷書等に挟むなどして、たびたび取り出して見ていただきたいと思います。
「教会の5要素」は去る2012年に開かれた日本聖公会宣教協議会で確認された、それ以降10年間の日本聖公会の宣教の指針となるものです。わたしたち日本聖公会の各教区・教会はこれらの要素を踏まえながら、それぞれの宣教方策を考え、実行しているところです。また、「宣教の5指標」は1998年のランべス会議に基づき全世界の聖公会が宣教の目標に特定しているものです。
教会が少し元気を失いつつある現在、もう一度宣教の原点に戻り、これらの要素・指標を確認しつつ、教区・各教会の宣教を推進してまいりましょう。皆さん一人一人がこの「要素・指標」をいつも意識しながら―祈りながら―信仰生活を送ることにより、具体的な方向が必ず与えられると信じます。
先のリオ・オリンピックでは男子400mリレーで日本は銀メダルを取りました。4人のリレーメンバーには世界トップクラスのランナーは誰もいませんでした。にもかかわらずバトンパスの見事な連携でアメリカをも凌ぎ銀メダルに輝いたのです。
わたしたちはスーパースターである必要はありません。自分たちの身の丈に合った「み言葉(ケリュグマ)・奉仕(ディアコニア) ・証し(マルトゥリア)・礼拝(レイトゥルギア)・交わり(コイノニア)」を実践すればいいのです。信仰生活のちょっとした工夫や視点を変えることによってより良い宣教方策が見えてくるのではないでしょうか。10月の研修会ではいろいろな意見を出し合いましょう。

祈りと実りと歌がある庭園

昨年度の飯山復活教会の教会委員会にて承認された今年度事業計画の一つは、テモテ田井安曇(本名:我妻泰)さんの歌碑建立でした。今年、前管理牧師から引き継いで6~7回教会委員会を重ね、歌碑建立について話を詰めてきました。田井さんについて出来るだけ多くの方々に知って頂きたいと考え、長野伝道区合同礼拝の日(9月11日)に歌碑除幕式を行うことを提案しました。教会委員会は勿論、「田井安曇の歌碑建立有志の会」(以下、有志の会)でもその提案が受諾されました。
歌碑を教会の敷地内に建てたいという希望は、最初は有志の会から出されたことですが、飯山復活教会としても、歌碑が建てられる教会の庭に新たな名前を付けて整備しようということになりました。単に教会の敷地の奥にぽつんと一つ歌碑が立っているのではなく、教会堂そして庭と調和するように考えました。
教会の庭には「ラビリンス」もあります。ラビリンスとは、古代ギリシャ神話の巨大な迷宮に由来するものです。しかし、ラビリンスは迷宮や迷路とは大きく異なるものです。普通の迷路は外に出ようとする人を不安にさせるものですが、教会のラビリンスは人を真ん中へと誘導するもので、ゴールが分かっているため平安な心で歩いていくことができます。真ん中に着くまでゆっくりと歩むことを通して、考えたり祈ったりすることができるようになっています。自分を振り返り自分をもっと愛する心を持つことがこのラビリンスの目的です。
『短歌』という雑誌の第53巻第12号に田井さんが書かれた文章があり、自分の人生には二つのアジール(救いの手)があったと記しています。その一つが「教会(司祭)」でした。具体的な名前まではありませんでしたが、書かれた年から寺尾平次郎司祭であると考えられます。寺尾先生は、牧師館の2階に何人もの人を住まわせていたのですが、その中に元海軍下士官で靴職人の高橋富士雄さんという方がいました。その彼が当時中学生だった田井さんに歌を教え、そんな関係の中で田井さんは歌人としての人生の方向が決まったと思われます。

蝉のこえ
充てる胡桃の木の下に
アンゴラと牧師と遊ぶ夕暮

田井安曇自選50首の一番前に載ったこの歌が歌碑に刻まれます。牧師という単語が出ていることを見ると、寺尾先生が田井さんの人生にどれ程大きな影響を与えたのかが分かります。
教会の庭園には柿やラズベリーなど、実を結ぶ各種の木々があります。そして美しい花々が咲き、風にそよいで自然に踊っています。歌碑はその中に建てられます。庭は単なる教会の庭ではなく、「祈りと実りと歌がある庭園」と命名されました。祈りのある人生によって多くの実が結ばれ、自然の中で希望の歌を歌うことができる、そんな道へといざなう庭園になればと思います。飯山復活教会を訪ねてくる方々が、たとえ一瞬でも幸せが感じられることを願っています。その中で歌碑は飯山復活教会の大切な物語を語り続けます。
(長野聖救主教会牧師、飯山復活教会管理牧師)

ふさわしさ

 この3月で、6年間勤務した立教池袋中学校・高等学校でのチャプレンの任期を終え、4月からは東京教区に出向して主教座聖堂で働くことになりました。中部教区の皆様にしてみれば、「なんでそうなるの?」と驚かれたことと思いますが、正式決定までは詳細をお伝えできず心苦しいものがありました。ようやくすべての手続きを経て、「管区事務所だより」にも掲載されましたので、皆様にご説明できる段階になりました。

 6月の日本聖公会総会にて、祈祷書改正が決議されましたが、この決議の中で、作業のために専従担当者1名を置くことが認められました。そして、総会後の常議員会の承認などを経て、小生がこの任に当たることが正式に決定しました。学校勤務を外れる関係上、異動は4月にせざるを得ず、総会のタイミングとリンクしませんでしたので、ミステリアスな人事になってしまった次第です。

 「礼拝を通して人を励ます」ということは、聖職を志願した大きな動機の一つでもありましたので、このような形で用いていただけることには感謝と共に、大きな畏れを抱いています。いろいろな条件を考えると、小生がこの任に適任とも思えませんし、学識も経験も不足しています。しかし、これを自分の「召命」として引き受けていく時、そこには「向き・不向き」を超えた「ふさわしさ」が与えられるというのが、聖職志願以来のわたしの確信です。

 聖職按手の際、司式者である主教は推薦者にこう問います。「今あなたが推薦する人は司祭(執事)にふさわしい人ですか。」これに推薦者が「司祭(執事)の務めにふさわしい人であると思います」と答え、会衆の同意と支持によって按手式は行われます。聖職の務めは、教会がその人に「ふさわしさ」を認めることに基づいており、とても「ふさわしい」とは言えない自分を神が「ふさわしい」ものとして用いてくださることへの無条件の信頼によるのです。

 「召命」とは聖職を志すことだけを指すのではなく、すべてのキリスト者に共通の招きであると思います。自分が置かれた場所で、一人ひとりがそれぞれの形で神さまからの招きに応え、神さまが求めておられることを祈りの中で探し求めながら、一所懸命に自分の務めを果たしていくこと。その中で、神が自分をその務めに「ふさわしい」ものとしてくださることを信じること。これがわたしたちの信仰ではないでしょうか。

 祈祷書の改正という大きな仕事はまだ始まったばかりで、今後どう進んでいくのかさっぱり見当もつかないのが現状です。映画「十戒」で、イスラエルの民の前に立ったモーセが「何と言う多さだ、多すぎる!」と呆然とするシーンがありますが、本当にそんな心境です。他の管区での祈祷書改正がどのようにしてなされたかを見聞きするにつけ、日本聖公会がさまざまな貧しさを抱えていることも実感せざるを得ません。しかし、その中でなされる働きを神が「ふさわしい」ものとしてくださり、わたしたちに「ふさわしい」祈祷書が与えられることを信じます。ぜひ、この働きに関心を持ち、祈りをもってお支えくださるよう、お願いしたいと思います。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(東京教区主教座聖堂付)

祈祷書の改正について

 6月の日本聖公会総会において祈祷書改正委員会の設置が決議され、いよいよ祈祷書の改正が始まります。現行祈祷書が改正されたのが1991年6月ですから25年が経過したことになります。ついこの間改正されたと思っていましたら、もう四半世紀が過ぎたことになります。

 祈祷書はわたしたちの信仰生活の導き手であり、わたしたちの信仰生活に直結するものです。それだけ大切なものです。聖公会の教会はその初めから祈祷書による信仰生活を守ってきました。祈祷書にはわたしたちの生涯における信仰生活に必要な事柄がほとんど含まれています。洗礼、堅信、聖餐式、朝夕の礼拝、昼の祈り、就寝前の祈り、聖婚式、誕生感謝の祈り、葬送式、嘆願、個人懺悔、聖職按手式、礼拝堂聖別式、牧師任命式、諸祈祷…等々です。

 祈祷書による祈り(成文祈祷)は時として自由祈祷を妨げるという批判もありますが、様々な人々が様々な思いを持ちつつも、心を一つにして祈りを捧げることができるのはやはり祈祷書があるからなのです。祈祷書が改正されることによりわたしたちの信仰生活がより豊かにされ、今の時代にふさわしい在り方で神様を賛美し、イエス・キリストを証していくことができるよう願うものです。

 ところで、祈祷書改正に関して皆様にお伝えしたいことがあります。それは、現在、東京教区に出向中の市原信太郎司祭がこの度、祈祷書改正の実務担当者(専従者)に就任されたことです。東京教区の牧会にも関わりつつ祈祷書改正の実務に専念されることになります。市原司祭の知識と経験を大いに生かして祈祷書改正の働きに携わっていただきたいと思います。わたしたちも祈りをもって市原司祭の働きを支えていきましょう。

毎日新聞に軽井沢ショー祭開催の記事掲載

8月2日付けの毎日新聞(地方版)に、軽井沢ショー祭が開催された記事が掲載されました。
「ショー(司祭)が家族と軽井沢を夏の生活の場としてから130年。先人の清廉でシンプルな思いが継承できますように」と土井宏純司祭が挨拶されたことも紙面にかかれています。