「日本聖公会北海道教区宣教150年記念礼拝」に説教者としてお招きいただきました。厳粛かつ感動的な礼拝で、北海道教区が、笹森田鶴主教を中心にした素晴らしい信仰共同体を形成されておられることに心から感銘を受けました。
また、説教準備を通して、中部教区と北海道教区との間には深い歴史的なつながりがあることにあらためて気づかされました。中部教区宣教開始は、ファイソン司祭が1875年に新潟に到着し、1883年まで新潟で宣教を担ったことに遡るものです。そして、まさしくそのファイソン司祭こそが北海道教区初代主教として着座されるのです。その他、新潟においてファイソン司祭から受洗し、その後、北海道教区でバチラー司祭のアイヌ伝道を助けた芥川清五郎師、1920年の夏、主教不在時に北海道に滞在し、信徒の堅信、聖職按手を手伝ったハミルトン中部教区主教など、百年前の教区を超えた信仰のつながりに驚かされます。
アイヌの女性で、バチラー司祭の養女となったバチラー八重子師は、聖公会の伝道師であると同時に歌人としても大変有名で、日本の文学史においても重要な歴史を刻みました。バチラー八重子師の『若きウタリに』と題された本がありますが、国語辞典の編纂で有名な金田一京助が書いた序文があり、その中にはこのような一文があります。
「聖書を抱いて、いじらしきものの頭をなでては祈り、罪あるものの背に向かっては跪いて祈り、明け暮れを幼いもの弱いもののために祈り、祈り、祈り続けて目を泣き腫らしてきた八重子女子の声は、ついに『若きウタリに』の一巻を成したのである」
中部教区も来年の宣教150周年に向けて、「裸足の宣教」を再び歩もうとしています。その原点とはまさしく「明け暮れを幼いもの弱いもののために祈り、祈り、祈り続けて目を泣き腫らす」ことなのです。
未分類
礼拝カレンダー2024年10月号
暑かった夏がやっとひと段落し、秋らしく涼しくなってきました。
10月号の礼拝カレンダーが完成しましたのでお知らせいたします。
2025春J’sキャンプのご案内
中日本宣教協働区の京都教区から春のJ’sキャンプの案内が届きましたのでお知らせいたします。
是非お近くのJ’s世代にお声がけよろしくお願いいたします。
名古屋聖マルコ教会からのお知らせ
中部教区ポータルサイト更新通知メールのお知らせ
中部教区デジタル部は、2023年11月23日より、スマホひとつで、簡単に教区報「ともしび」のバックナンバーを読んだり、中部教区に関連する動画を視聴したり、管区のニュースレターを見たりすることができる中部教区ポータルサイトを開設しました。
http://chubunskk.3rin.net/
(ポータルサイトは中部教区の信徒向けですのでパスワードをかけています。パスワードは各教会の牧師にお尋ねください。)
ポータルサイト開設後、随時情報を追加していますが、新しい情報が掲載されたかどうかは、自分からログインして見に行かなければなりませんでした。そこで、デジタル部では、ポータルサイトの更新情報をメールでお届けするサービスを開始することにしました。
更新情報は中部教区センターよりメールでお送りします。ご希望の方は、こちらより登録をお願い致します。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSc_dmG4LiCBn6JgQaFt62iLwrrYR3cY8VDPgofy236x7sbIwA/viewform
*メールが届くのは月に1回程度になると思います。
*メーリングリストを使って一斉送信しますが、同リストは、教区センターだけが投稿できるように設定してあり、登録したメールアドレスは、他の人には公開されません。
*中部教区の関係者以外の方は登録できません。
この更新通知メールを通して、ポータルサイトをご活用いただければと思います。
ポータルサイトは、皆様が使いやすいように随時更新して改善しています。ご要望などがありましたらデジタル部(連絡先:中部教区センター)までご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
礼拝カレンダー2024年9月号
礼拝カレンダー2024年9月号が完成しましたのでお知らせいたします。
大型の台風が日本列島に上陸または接近中です。
どうぞ、皆さま気を付けてお過ごしください。
※9/4修正…名古屋聖ヨハネ教会の9/8の礼拝開始時間は10:30となります。
※9/3修正…名古屋聖マタイ教会9/22の司式説教者を修正しました。
裸足の宣教
次年2025年は中部教区宣教開始150周年にあたります。すでに教区宣教開始150周年記念プログラム実行委員会を中心にさまざまご検討いただいていますが、中心的なキーワードは「裸足の宣教」となります。「裸足の宣教」は、2009年に日本聖公会宣教150周年記念礼拝において説教者としてお招きしたローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教が主題とされたものでした。ウィリアムズ大主教が語られたのはこういうことです。
裸足となることは、生活を簡素にすることであり、不快さや痛みを受け入れる、あるいは傷を負う覚悟のしるしである。自分の評価や成果に拘らないことでもある。地の石くれや遠い道のりによって痛みを負う覚悟が宣教には必要である。イエス・キリストのみ足は、その旅路において汚れ傷つけられ、そして最後には拒絶の釘によって深い傷を負われた。死からよみがえられる時にもなお、そのむき出しの足には困難と苦悩に満ちたそれまでの旅の傷痕が遺されていた。私たちが主イエスと共に歩むなら、アザや傷を避けられないことも覚悟しなくてはならない。肉体や心に苦しみを持つ人々と同じ道を歩む時、私たちの宣教は最も確かなものとなる。
確かに、私たちの主はいつも私たちの前を歩かれているのです。真の宣教とは、主が道を整えるためになさったことの〈しるし〉を探すことなのです。宣教においては語ることだけでなく聴くことが必要です。語る前に聴くことが求められます。それによって、私たちは道を整えてくださった主に、心から「アーメン」と応じることができるのです。
私たちの中部教区は、財政的にも人的にも厳しい状況の中におかれています。しかしながら、宣教開始150周年にあたり、今こそ原点に立ち返って、「0ベース」からの「裸足の宣教」に祈りを合わせて取り組んでまいりましょう。
礼拝カレンダー2024年8月号
京都教区・青年キャンプのお知らせ
中日本宣教協働区・京都教区より青年キャンプのお知らせをいただきました。
中部教区の方で参加される方は、中部教区センターまでお知らせください。