〝聖徒の交わり〟を楽しむ

 2025年を迎えて間もなく2か月を経過しようとしていますが、この間に、身内も含めてこれまでお世話になった6名の方々が天に召されました。毎週のように葬儀に列席していますが、故人への感謝と共に言いようのない喪失感と不安感に襲われることもあります。
 1月初めに公私にわたり深い交わりをいただいた、敬愛する大和田康司執事を主の御許へお送りしました。とても温かい雰囲気に包まれた葬儀でしたが、その折に渋澤一郎主教さまから「二人とも天国へ行ってしまったね…」と慰めの言葉をお掛けいただき、涙を抑えるのに必死でした。
二人ともというのは、10年前の2015年に逝去された野村潔司祭と大和田執事のことです。かつて大和田執事が50代、野村司祭が40代、私が30代の頃、毎年3人で温泉旅行を楽しんでいました。幹事はいつも野村司祭で、なぜか家族風呂がありカラオケのできる宿を優先的に探していました。当時は偶然3人とも一人息子の父親ということもあり、カラオケでは決まって河島英五の「野風増」を最後に一緒に歌い、そこからヒントを得て「野放図の会」と命名しました。今では考えられませんが、森紀旦主教から許可をいただき10日間のフィリピン旅行にも3人で出掛けました。プライベートとは言え、その大半は野村司祭ゆかりの教会や施設、神学校を連れ回された記憶があります。深夜まで中部教区の将来について、とりわけ「特任聖職」の重要性について熱く議論したこともありました。今となっては、そのすべてが楽しく懐かしい思い出です。
 かなり昔のことになりますが、逝去1カ月の記念の式で祈祷書(403頁)にある祈りをささげた時に、ご遺族の方から「聖徒の交わりを楽しませてください」という言葉に違和感があると言われたことがあります。まだ十分に死を受けとめきれていない、悲しみを拭いきれていないのに「楽しむ」ことなんてできない…ということだと理解しました。当然のことです。それ以来、葬儀の際には必ず〝聖徒の交わり〟の意味について丁寧にお伝えするように心掛けています。イエス・キリストを救い主と信じる者にとって、先にこの世の生涯を終え、天に召された方々との関係は肉体的な死によって途切れてしまうことはありません。私たちは、天に召された数知れぬ信仰の先輩たち(証人の群れ)にいつも囲まれており、その中心には主イエスがおられるということに深い安心感と希望を持つことができます。〝聖徒の交わり〟とは、生きているキリスト者の人間的な肉の交わりということだけではなく、既に天に召された方々をも含めた霊的な交わりを意味します。だからこそ〝聖徒の交わり〟を楽しむことができるのではないでしょうか。
 この原稿を書いている最中に、やはり子どもの頃より大変お世話になった渋川良子司祭の逝去の報が届きました。大和田執事や渋川司祭をはじめ、先に主の御許に召された諸先輩方を感謝の内に覚え、これからも〝聖徒の交わり〟を楽しんでいきたいと思っています。


司祭 テモテ 土井宏純
(中部教区 主教補佐)

死ぬ日まで天を仰ぎ、一点の恥なきことを

 先日、「尹東柱没後80年・尹東柱追悼記念礼拝」が立教大学諸聖徒礼拝堂で行われ、礼拝後は私も講演をさせていただきました。
 尹東柱は1917年12月30日、中国・吉林省北間島明東村というキリスト教の教えを基盤とした開拓村で生まれました。家族は全員キリスト者で、尹東柱も幼児洗礼を受けています。彼はその後、崇実中学校、延禧専門学校(現在の延世大学)で学んだ後、1942年に日本に渡り、4月には東京の立教大学文学部英文学科選科に入学しました。同年10月には京都の同志社大学に移りましたが、翌1943年7月14日、治安維持法違反容疑で逮捕され、懲役2年の判決、そして解放の半年前、1945年2月16日、福岡刑務所で獄死しました。満27歳でした。獄中から尹東柱が聖書を送ってほしいと家族に頼んでいたことも判明しています。尹東柱は、最後まで誠実なキリスト者でありました。
 尹東柱が日本留学中に書き記した詩は逮捕時にほぼすべて失われましたが、彼が友人に託していた、戦時下の社会状況を見事に表現した詩として国際的に高い評価を受けている『たやすく書かれた詩』をはじめとする5篇の詩だけが奇跡的に遺りました。これらの詩は、「RIKKYO UNIVERSITY」という名と立教のシンボルである百合の紋章が入った立教大学の便箋に書かれました。現在は延世大学の尹東柱記念館に保存されています。
 尹東柱の詩の中で、私が最も大切にしているものは、『序詩』ですが、冒頭はこのような書き出しで始まります。「死ぬ日まで天を仰ぎ、一点の恥なきことを」。
 私の恩師でもある月本昭男、立教大学名誉教授はこう書かれています。「『天』には『神』が含意され、『一点の恥なきこと』は『恥をかかないこと』でなく、『良心に恥じないこと』である」。
 すべての若い人たちに、この尊きキリスト者の言葉に触れて欲しいと願うのです。

礼拝カレンダー2025年4月号

4月の礼拝カレンダーが完成いたしました!
人事異動やイースター礼拝で普段の礼拝時間と変わっている場合がございますので、
ご注意ください。

4/7修正…4/13の名古屋聖ヨハネ教会の聖餐式・司式説教は後藤司祭となります。
4/3修正…4/6の愛知聖ルカ教会の礼拝は愛餐式になります。4/13の豊田聖ペテロ聖パウロ教会の礼拝はみ言葉の礼拝・各家庭、4/27は聖餐式・伊藤司祭となります。

中日本宣教協働区:各教区代祷表(2025年度)

中日本宣教協働区では2022年度より各教区諸教会を覚えて互いに祈り合うことを続けています。
各教区(横浜・京都・大阪・中部)の代祷表を掲載し、お知らせいたします。

主日の礼拝の中でお覚えくださいますようよろしくお願いいたします。

中日本宣教協働区の働きの上に愛と平和の主の豊かな祝福がありますように。

『聖パウロ祭』のお知らせ

2025年3月3日

主の平和   

 浅春の折 益々ご健勝のことと存じます

 6月29日(日)午前10時半からの聖餐式の後、『聖パウロ祭』の午後の集まりとして、「黙想と福音」というテーマで、新潟聖パウロ教会の牧師による講話と黙想のときを持ちたいと思います。6月29日は使徒聖ペテロ・パウロ日(2025年は6月30日に移動)であるため、この日に合わせて新潟聖パウロ教会の創立を記念して『聖パウロ祭』を行うものです。新型コロナウイルス感染症のために中断していましたが、今年もコロナ前のような形で開催していきたいと思います。多くの皆様のご参加をお待ちしております。                

                                 在主                                                

                   記

2025年6月29日(日)10時半~    聖霊降臨後第3主日聖餐式
司式・説教:ヨセフ石田雅嗣司祭

午後 「黙想と福音」
聖書を読んだり、黙想したりする時を持ちます。関連する落語『粗忽長屋』も鑑賞するときを持ちたいと思います。
語り ヨセフ石田雅嗣司祭

日本聖公会中部教区新潟聖パウロ教会 牧師 司祭ヨセフ石田雅嗣 
電話:025-222-0474  新潟県新潟市中央区医学町通2番町74 

中部教区150周年記念のつどいZoomシリーズ(第2回)

1月に行われたZoomシリーズ第1回に続き、
3月22日(土)にはZoomシリーズ第2回が予定されています。
この度新しいチラシが完成しましたので、お知らせいたします。
是非お誘いあわせの上ご参加下さい。

顕現節に想う

 アントニー・デ・メロ師(イエズス会士、同会霊性指導者)の書いたものに、このような話があります。
 ある大修道院長がヒマラヤ山中のグルー(導師)のもとにやって来た。「何をお求めかな?」グルーは尋ねた。修道院長は最近の僧院の打ち沈んで静まり返った状況を説明した。「僧院がこのような有り様に変じたのは、私どもに何かの罪が原因でしょうか?」と。「さよう、知らずにいるという罪ですな」。「して、それはいかような罪なのでございましょうか?」。「あなた方のなかの一人はメシアでいらっしゃる。しかも姿を変えておられる。あなた方はそのことを知らずにいる」と。僧院に帰った修道院長は修道僧を一堂に集めて、グルーの語ったことを説明した。一同は信じられぬという表情で互いに見回した。メシアが?ここに?メシアが姿を変えてここにおられても、この人だと特定出来そうには思えず、そこで彼らは会う人ごとに、「この人こそメシアかも知れないのだ」と自分に言い聞かせた。このように過ごすうちに、僧院の雰囲気は活気に溢れ、喜びに満ちたものとなった。礼拝堂には再び賛美と喜びの歌が響くようになった。『蛙の祈り』(女子パウロ会)
 顕現とは神の栄光、聖なる輝きの現れですが、神の手がこの世界のただ中にあることをどのようにして人は知るのでしょう?私たちは主イエスの降誕によって神の顕現の出来事に出会いますが、いかにして神の顕現にふれるのでありましょう?
 アダムやヨナは神から逃げようとします。同様に私たちも顔を避けようとしています。近代化の中で神を殺そうとし、また、世俗化の中に身を隠そうといつも逃げ続けていると言っても過言ではありません。
 一方、旧約の詩人は歌います。「どこに逃れれば、み顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。」神の目、神の手から逃れることはできず、更に「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(詩139編)
 まさに、創造の神秘です。自分の命の中に神の手があり、何者も絶対的に知られ、何処にいようと、神の手の中にある、との詩人の魂の叫びです。また聖書の真髄でもあります。即ち、神が顕現するのであって、私が会うのではなく、自分が知る以前から既に、すべてを知っておられる。この洞察や気付きは、圧倒的な神体験、神の顕現との出会いなのです。神がおられる。しかもその目撃者は臨在し、自分の命の中に神がおられる。他者の命の中にもおられる、すべて命あるものの中におられる、それを知ったが故の緊張こそ、信仰に生きることの内容なのです。なので、祈らずにはおられないのです。
 「子どもを見つめる目や話す言葉が愛によって味づけられたものでありますように、あなたの愛で私たちの心を溢れさせてください。一人ひとりのうちにある大きなものや伸びていく力を見つめ、感じることができますように。また、待つことのできる心とすべてを受容する心をお与えください…」と。 (教師の朝の祈り)

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師)