「輝いて欲しい」と祈りましょう

 こども園には運動会、展示会、発表会などの催しが多いです。そういう時になると、子どもたちは親に見てもらう(声掛けに丁寧で慎重に応えてもらう)ことで大きな喜びと成就感を味わいます。そしてその応えを通して子どもも成長していくのだと思います。私はそういう時に子どもたちから輝きを感じ取ります。
 昨年のこども園のクリスマス礼拝の練習の際に年長の子どもたちから聞いた言葉で驚いたことがあります。先生から「クリスマス礼拝のお歌は大きな声で歌いたい?」と子どもたちに聞いたら、子どもたちの口から「綺麗な声で、優しい気持ちで礼拝したい」という答えが出てきたことでした。聞いた瞬間鳥肌が立ち、子どもが言ったとは信じられないほど感動しました。子どもたちも礼拝は他の催しとは違って何かがあるということに気付いていた訳で、その時私は子どもたちから輝きを感じさせて頂きました。
 コロナの拡散以降3年間、私は韓国へ一度も帰れなくなっていました。たまに電話でもすると耳も遠くなった母親は恋しい息子の声で泣いたりします。母の声を聴くことは嬉しいけれど泣き声には、こうやって日本に来ている自分が恨めしくなってしまいます。
 そう言っても、コロナ拡散以前も、韓国の親のところには年1~2回ほどしか行っていませんでした。しかも、実家に行っても、親のそばで長く時間を一緒に過ごすことは出来ませんでしたが、受話器の向こうから母の涙を呑む様子が感じられたり、泣き声が漏れて小さく聞こえたりするといろいろなことを考えさせられるようになります。そして母は電話を切る頃になると、最後にはいつも忘れず「電話してくれて、声を聴かせてくれてありがとう」と言ってくれます。
 かつて、韓国の教会に居た時、私は主に一人暮らしのお年寄りの方をよく訪問していました。その中に、息子が司祭で海外に出ているため、なかなか母の所に戻れない宣教師のケースがありました。そのお婆さんは何も言わないのに、そのお家を訪れる近隣のいろいろな方々は海外に行っている息子の悪口を言っていました。まるで同じ司祭である私に聴かせるように繰り返して言っていたことが思い浮かびます。「自分の親の面倒もみれないくせに宣教?」のような皮肉だったのかもと思います。海外宣教師の活動ってとても意味深いものであるけれど、当時は私も、一人暮らしの自分の母親をほったらかしている息子は理解できませんでした。しかも息子への近隣の方々のいろいろな悪口を、残った一人の母親が全部飲み込むように黙っているとは何ごとかと思っていました。しかし、こうして今考えてみるとそれは私自身のことだった訳であります。
 韓国を離れてこの地に着いた20年前からの私の課題の一つであり、すぐ解決できる問題ではありませんが、私はまたこうして新しい年を迎えてしまいました。少なくとも昨年よりは、私が関わるすべてのところに、より丁寧で慎重に声をかけて応えたいと思います。「私の魂よ、輝いて欲しい」と自分に声をかけながら、祈りたいと思います。そして皆さんも、殊に自分の親を含めてお年を召したすべての方々にも、常に共に輝いて(喜び溢れて)欲しいと願っています。

司祭 イグナシオ 丁胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

〝マリア・グレイスの主教按手を覚えて〟

 昨年、11月3日(水)に行われた北海道教区主教選挙で、マリア・グレイス笹森田鶴司祭が選出されました。日本聖公会主教会の同意、被選者の受諾を経て、同月26日、笹森司祭は正式に主教被選者となられ、主教按手式が4月23日(土)に予定されています。按手が実現すれば日本聖公会、また東アジアで初の女性の主教が誕生することになり、私のもとにも世界中から祝福のメッセージが殺到しています。日本聖公会において最初の女性の執事、女性の司祭を誕生させたのは、いずれも中部教区(渋川良子師)であり、そういう意味でも、この度の主教按手は私たちにとっても大いなる祝福となります。
 一方で、私にとっては、長年に亘って共に宣教の働きに参与してきた信頼すべき同僚が主教として召されることを喜ぶものであって、その方がたまたま女性であったということでもあります。『1995年日本聖公会宣教協議会・宣言』の草稿を、文字通り夜を徹して書き上げたのは、当時二人とも執事であった田鶴先生と私、そして私たちの畏友、故八幡明彦兄の30代同期青年でした。「宣言」の中で、私たちはこう記しました。
 「私たちは、支配者の物語にではなく、民の物語に聴き続けます。そこから、私たちは、私たち自身の〈物語〉を語ります。自らの言葉で日本聖公会の歴史と現在、そして未来を語ります。こうした努力をして初めて、私たちは主イエス・キリストの福音を受肉化できると信じます」
 これは同時に、私たち自身の「宣言」でもありました。私たちのこの盟約は、今に至るまで、いささかも揺らいではいないと確信しています。そのことを再確認するために、私は、一昨年の主教按手式において田鶴司祭にチャズブルを着せてもらいました。今度は、私が彼女の主教按手の証人となり、そして、主教団の同僚性(collegiality)の教理のもとに、彼女がこれから担う重荷を私も共に担います。

教区間協働!?再編!?(5)“なぜ11教区なのですか?”(二)

 そのため1887年の組織成立当初からたびたび教区区域の見直し、再編について論議されてきました。特に戦時下の1941年に開催された第20総会では、それまでの2教区8地方部を廃して5教区とする提案が受理されましたが、最終的には地方部をそのまま教区へ移行することになりました(10教区制)。
 1970年代に入ると、アメリカ聖公会沖縄伝道教区の日本聖公会への移管(11教区制)を機に、より積極的な教区区域変動の可能性を調査する機関が総会決議によって設置され、1974年の第33総会では詳細な議論、研究を踏まえた3つの教区線引図案(2教区2伝道教区制、3教区4伝道教区制、2管区11教区制)が資料提出されました。そして教区制改革は日本聖公会全体の重要課題であるとの共通認識のもと、現任の全主教、各教区より選出された常議員各1名及び総会議長の任命する若干名で構成する「日本聖公会教区制改革委員」が新たに設置されました。
 しかし、同委員会での議論は教区区域の再編成に限定せず、むしろその基本となる教区・教会の体質の変革こそが緊要の課題との理解から、日本聖公会の教育・研修、財政、機構等の研究が行われ、その結果1977年の第34総会では「教区制改革(教区区域変更を含む)に関する建議」案を可決するにとどまり、その内容は日本聖公会を東日本と西日本ブロックに分け、あるいは隣接教区間において宣教のための協議、人事交流等を通して互いに理解を深め、必要な時に法規の手続きを経て新しい教区区域を設定するというものでした。
 その後、1994年に公表された『日本聖公会の現状および将来に関する主教会の見解』の中で、主教会は現在の教区区域が教会の宣教、牧会に支障を来たし、それに適合しにくいことを認識し、改編が必要であるとの考えを示し、特に「この課題の主導性は、主教会に期待されている。」と記しています。
―続く―

司祭按手式動画配信に関するお詫び

 12月18日(土)に執り行われましたヨハネ相原太郎執事の司祭按手式オンライン配信につきまして、不具合により同時配信ができませんでした。配信をお待ちいただいた多くの皆様に心よりお詫び申し上げます。

 なお当日の写真を掲載いたしますと共に、「教区関連動画」にて録画をご覧いただければ幸いです。

中部教区常置委員長 司祭後藤香織
中部教区総主事   諸岡研史

命 が け で

 岡谷聖バルナバ教会の創立に深く貢献されたホリス・ハミルトン・コーリ司祭は、カナダ・ケベック州の出身で、来日前はカナダ北東部のラブラドール地方で働いておられました。この地域は、北極圏に近い気候の厳しい地域で、コーリ司祭は犬ぞりなども利用しながら、厳しい条件の中、広い地域を巡回していました。コーリ司祭は、手紙で主教に近況を報告しており、その内容が掲載されたケベック教区の古い教区報により、働きの具体的な状況を知ることができます。
 来日直前の1919年4月には、例年より半月ほど早く春が到来したため、そりでの移動ができず脱出の見込みが立たないこと、1月下旬に家を出てから家族とずっと離れていることなど、厳しい宣教師の生活がうかがえます。このような所から、新たな困難の伴う日本宣教のために一家で来日されたのでした。
 来日後、コーリ司祭一家はまず岐阜、続いて名古屋に住みますが、あまりの気候の変化に耐えられず、上の子が重い病に冒されました。一時は危篤状態にもなりましたが、幸い一命を取り留めたものの脳に重い障害が残りました。同じ時期に下の子も病気にかかっていましたが、上の子の看病に気を取られて気づくことができず、7歳の若さで亡くなります。コーリ司祭が高田や松本を経て岡谷に赴任されたのは、ひとつには上の子の転地療養という意味合いもありました。そのような犠牲を払いつつ、岡谷の教会を築いていかれたのでした。
 コーリ司祭の妻コンスタンスは、同僚のスペンサー司祭の妹にあたりますが、スペンサー家は海外宣教に身を献げるという家訓を持ち、姉フローレンスも宣教師として来日し、一家の3人が共に中部教区で働いていました。スペンサー司祭は、1941年の外国人宣教師一斉帰国の年まで日本に留まり、27年間働かれましたが、健康を害しており、帰国の翌年に55歳で逝去されました。
 岡谷の教会、そして中部教区は、このように文字通り命がけの宣教師の働きによって建てられたという歴史を改めて思い起こしたいと思います。そして、昨年来のコロナ禍にあってのわたしたちの営みを、将来の人々は歴史としてどう読むことになるだろうか、という疑問も抱くのです。
 前例のない事態の中、手探りで一生懸命やってきたつもりではいますが、これらの宣教師の方々の働きを思うとき、それが十分であったとはとても思えませんし、真剣さ・勤勉さに欠けていたところが多くあることも、恥ずかしながら認めざるを得ません。
 礼拝を休止せざるを得なかった時、東京からの旅行ができずネットを通じて礼拝司式や説教をしていた時、聖餐式を行いながらも分餐ができない時、率直に言ってそこにはある種の空しさがあり、孤独感をも感じました。教会の状況が徐々に元に戻りつつある今、改めて失っていたものの大きさを感じています。
 逆説的ですが、この1年半、教会はこの空しさや孤独感をお献げしてきたのかも知れないと思えるのです。そこに、今の時代における私たちの「命がけ」があるのかも知れません。この辛さを包み隠すことなく、皆で分かち合いたいと思います。


司祭 ダビデ 市原信太郎
(岡谷聖バルナバ教会管理牧師〈東京教区出向〉)

教区間協働!?再編!?(4)“なぜ11教区なのですか?”

 「日本聖公会はなぜ11教区なのですか?」洗礼、堅信準備の学びの中などで、よくある質問です。現在、日本聖公会には11の教区がありますが、11教区になったのは1972年にそれまでアメリカ聖公会に属していた沖縄(伝道教区)が日本聖公会に沖縄教区として編入されてからのことになります。日本聖公会のコンパスローズをモチーフとしたエンブレム(左図参照)の中央部にある+が11個なのは、その数を示しています。
 それ以前の教区(地方部)構成については、1887年の日本聖公会組織成立時にまで遡り、当初は4地方部(東京、大阪、熊本、函館)でした。その後、1896年に6地方部(東京南部、東京北部、大阪、京都、熊本、函館)となり、1900年代に入り、沖縄教区を除く現在の10教区の礎が築かれましたが、1923年に東京教区と大阪教区が初めて正式な教区とされた以外は、戦時下の国策であった「宗教団体法」などの影響を大きく受けながら、苦悩の中で教区成立に至りました。
 一方19世紀後半に開始された聖公会の日本伝道の内実は、アメリカ、イギリス、カナダの主に各宣教団体から派遣された宣教師たちによって担われましたが、教区区域については、元々それぞれの宣教団体の伝道区域として分割されたものであり、日本聖公会として全体的視野に立って定められたものではありませんでした。1967年に著されたC.H.パウルス司祭の言葉がそのことをよく表しています。「日本聖公会の現在の教区制度は永久的なものとは決して考えられていなかったということは、あまり知られていない事実である。それは暫定的に決められたものであって、種々の宣教師団がそれぞれ得手勝手な活動をしないように計画されたものであった。」(『日本聖公会の教区制度に関する歴史的一考察』より)-続く-

相原太郎執事・司祭按手式の動画配信について

12月18日(土)に予定されている司祭按手式は人数を制限して行いますので、下記Youtubeにて動画配信を行います。

皆様のご加祷よろしくお願いいたします。

クリスマス礼拝(岐阜聖パウロ教会)

✞12月24日(金)(降誕日前夕)19:00 夕の礼拝(イブ礼拝)
  *司式・説教 司祭 ヨハネ 相原太郎(予定)
  *イブ礼拝は、ローソクとペンライトの光の中で行われます。
  *礼拝の所要時間は40分程度です。

✞12月25日(土)(降誕日)10:30 クリスマス聖餐式
  *司式・説教 司祭 ヨハネ 相原太郎(予定)
  *礼拝後の祝会(クリスマスパーティー)はありません。

✞12月26日(日)(降誕後第1主日)10:30 み言葉の礼拝
  *信徒の司式による礼拝です。

礼拝はどなたでも自由に参加できます。事前連絡も不要です。