昨年の教区会告示でも触れましたが、昨年、飯山復活教会の礼拝堂が登録有形文化財に指定されました。また、十年ほど前には長野聖救主教会の礼拝堂が同じく指定されています。更に、新生礼拝堂、軽井沢ショー記念礼拝堂も町から貴重な建造物に指定されています。その他、上田、松本、稲荷山、岡谷、高田の聖堂も戦前から存在している礼拝堂です。教区内にはそのように貴重な礼拝堂が数多く存在しますが、いずれもカナダ聖公会からの大切な遺産です。(愛岐伝道区内の戦前の礼拝堂は残念ながら戦災等でほとんど消失しています。)
しかし、言うまでもなくこれらの礼拝堂がすばらしいのは歴史的に価値のある建造物だからではありません。神様に礼拝を献げる場だからすばらしいのです。礼拝堂は法規的に言えば、「聖公会の公祷、聖奠(=サクラメント)およびその他の諸式の執行のために使用」されるところです。
礼拝堂でわたしたちは祈りを通して神様と、そして人々と交わります。礼拝堂ではその初めから祈りが献げられてきました。そして、今も祈り続けられています。礼拝堂には今までに祈られてきたたくさんの祈り―公同(共同)の祈り、個人の祈り―が詰まっているのです。
そのたくさんの祈りが詰まった礼拝堂でわたしたちは今も礼拝を献げていることを覚え、感謝したいのです。たとえ少人数の礼拝であっても、目に見えない多くの人たちの祈りに包まれ、支えられてわたしたちは礼拝を献げているのです。そして、力と励ましを与えられるのです。
礼拝は信仰生活の基本中の基本です。今年もわたしたちに与えられている礼拝堂で「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ」(フィリ4・6)てまいりましょう。
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飯山復活教会が紹介されました
柳城短期大学有志による「黙想の祈りのつどい」
楽しい!教会問答
会衆席で
先日の主日、大変恥ずかしいことをしてしまいました。午前にG教会で聖餐式・堅信式があり、午後はO教会で聖餐式でした。いずれも管理牧師と夏期実習中の聖職候補生が一緒でした。G教会での礼拝が終わり、食事を皆さんとご一緒し、O教会に向いました。教会に着き、さて、式服などの入った荷物を車から取り出そうと思ったところトランクに荷物がありません。何とG教会に忘れてきてしまったのです。しまったと思いましたが後の祭りです。片道4~50分の距離ですので取りに帰ることもできません。O教会では主に説教が役割でしたが、式服、祈祷書等はもちろん、説教の原稿も荷物の中に入れたままでした。
原稿がなくても説教ができないことはなかったのですが、この際、管理牧師におすがり(?)しようと思い、「説教も含めて聖餐式全部、お願いしてもいい?」と尋ねたところ、二つ返事で「いいですよ!」と言ってくれました。お陰様で助かりました。式服もありませんので、わたしは会衆席で聖餐式をお献げしました。主教になってからはもちろんですが、特別な場合を除いて主日に会衆席で聖餐式を献げたことはありませんでしたので思わぬ体験でした。
自分の注意不足で教会の皆さんに迷惑をかけ、しかも、これから聖職を目指す聖職候補生の前でこういう失態を犯すのは大変恥ずかしいことで大いに反省しなければと思ったことです。ちなみに、管理牧師さんは突然にもかかわらず大変良い説教をしてくれました。もちろん、説教原稿なしでです。感謝です。
蛇足ですが、わたしは時々、〝聖餐式が始まるというのに説教の原稿がなくてうろたえる〟という夢を見ることがあるのですが、それが正夢になってしまったように感じたのでした。
宣教会議2017
そこにいるということ
長く信仰生活を続けておられる方がいつも礼拝に出席しておられるということは何かホッとするものです。そこにおられるというだけで信仰を醸し出してくださるように感じます。
その少し前には別の教会を巡回しました。聖餐式の途中で小さい子供がむずかるためお母さんが気を遣って礼拝堂の外に連れていかれました。わたしは個人的には子供が多少むずかっても聖餐式という空間の中にいるということは大切なことだと思っています(泣き叫んでいる子を放置しておきなさいということではありません)。
小さな子供や赤ちゃんは聖餐式の意味や内容、説教も理解できないでしょう。しかし、理解できなくてもみんなが礼拝している空間にいるということが大切なのです。その場にいて礼拝の空気を全身で感じることにより、神様を知り、イエス様を知り、信仰の成長へとつながっていくのです。
殊に、選者としてご奉仕くださいました黒田淑子さんは歌人としてのお忙しい身にもかかわらず、また、途中体調を崩されたにもかかわらず長い間ご奉仕くださいましたこと本当に感謝です。これからもご健康に留意されご活躍されますよう心よりお祈りしています。