神の国は静かに

イエス様は神の国のたとえで、「神の国は人が知らないうちに成長する」と言っておられます。蒔かれた種が地中でどのように成長するか人には分からないが、芽を出し、穂を実らせるように、神の国は目にも見えず、耳で聞くこともできないが間違いなく成長しているのだと言われます。神の国(神様の働き)は深く、静かに進行するということです。
先日、I教会で、あるご夫妻の洗礼・堅信がありました。奥様はそこの幼稚園出身でキリスト教には長い間、関心を持っておられましたが、ご自分の家が仏教ということもありなかなか入信にまでは踏み切れないでいました。しかし、この度、決心をされご夫妻で入信されたのです。
礼拝後の挨拶の時、「ここまで来るのに長い時間がかかりました」と言っておられました。そして人間的に見れば幼稚園の時から50年という長い時を経て洗礼へと導かれたわけですが、そこにはこのご夫婦に対して深く、長く、静かに関わってくださり、このお二人を洗礼・堅信へと導いてくださった神様の働き(神の国)があったのです。
また、最近、I司祭のお連れ合いであるSさんのお父様が洗礼を受けられました。Sさんがお父さんに、「お父さん、お父さんは洗礼を受けてクリスチャンになったんだよ」と言いましたら、お父さんが、「そうかい。でも、実感がないな」と言われたそうです。とても微笑ましい会話なのですが、実はそこにも神様の静かで確かな働きが隠されているのです。
洗礼を受けてクリスチャンにされたからといってその瞬間にそのことを実感する人はそう多くはないと思います。殊に、幼児洗礼の場合は実感も何もないでしょう。乳児には洗礼を受けているという意識すらないのですから。わたしも洗礼を受けた時、緊張したことは覚えていますが、その瞬間に人が変わり、わたしはクリスチャンになりましたという実感はありませんでした。多少の違いはあれ、皆さんそうでしょう。
では、実感がなければクリスチャンではないのかと言いましたらそんなことはないのです。神様の働きは深く、静かで確かなものです。人間の目にも見えず、耳にも聞こえず、感じることもないかもしれません。しかしわたしたちは洗礼によって間違いなく神様とイエス様に結び付けられるのです。確かにクリスチャンとされるのです。I司祭のお連れ合いのお父様は実感はないかもしれませんが間違いなくクリスチャンとされているのです。そこには人間の感覚を超えた神様の静かな働きがあります。
わたしたち人間は神様の御心をすべて知ることはできません。神様だけが知っておられて、人間に分からないことがたくさんあります。それでもいいのです。神様のことがすべて分からないということは、逆に恵みではないかとわたしは思います。もし、人間が神様のすべてを知ったらどうなるのでしょうか。考えてみると恐ろしいことです。神様が知っていてくださればそれで十分なのです。
神の国は静かに、しかし確かに成長しています。I教会のご夫妻の場合、神の国は50年間、静かに成長して来ました。I司祭のお連れ合いのお父さんはもっと長い時間がかかりました。それでも間違いなく神様の働きは深く静かに潜航し、今日の洗礼・堅信になっているのです。わたしたちはそこに神の国の成長を見るのです。
神の国は今もどこかで、いや、わたしたちのすぐ近くで静かに成長しているのです。神様は次にどんな素晴らしい神の国を見せてくださるのか、そんなことを期待しつつ送る信仰生活は何と楽しいものでしょう。
主教 ペテロ 渋澤一郎(日本聖公会中部教区主教)

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 「父と子と聖霊」の三位一体の神様というのは、わかりにくいかもしれません。日本聖公会では、「聖三一」と呼ばれることもあり、中部教区では岐阜県にある可児聖三一教会はこれに由来しています。教会は、この「聖三一」の神様を教理の発展のなかで信じてきました。日本ハリストス正教会では、アンドレイ・ルブリョフが描いた、アブラハムを訪ねる三人の天使(『創世記』)に拠る聖画(下の絵)が、唯一正当な図像表現として公認されているそうです。また、聖公会神学院にもこの聖画があり、いまも黙想のときに用いられたりしていると思います。アウグスティヌスは、聖三一の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えました(『三位一体論』)。三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一であると考えています。これが、西方神学における三位一体理解の基礎となります。

 しかし、神様が「三つであるが一つであり、一つであるが三つである」というのは、理解する対象ではなく、信じる対象としての神秘であるとも考えられています。これが現代まで守り続けているのは、「頭で理解できたこと」よりも、「体験によって感じたもの」であるからだとも思います。例えば、私たちは、よく「主の祈り」を唱えます。これは「聖三一」の神をよく表しています。「主の祈り」は、祈り方がわからない弟子たちに、イエス様が直接教えた唯一の祈りであり、イエス様も神様に向かって用いていた祈りです。子なるイエス様が、父なる神様に祈った祈り、これを、私たちのうちにある聖霊によってお祈りする、これが「主の祈り」の大切なところであると思います。

 神様は私たちを無条件にまず愛していて、これがこの世界の根本だと思います。神様は私たちへの愛を示すために独り子であるイエス様をお遣わしになりました。そして、その神様から遣わされたイエス様の無条件の愛に対して私たちが「はい」と答えたとき、私たちは真に神様の子どもになれるのです。今まで眠っていた私たちのうちにある聖霊が活発に動き出していき、私たちは真に神様の子どもとなり「主の祈り」を唱えます。

 確かに現実はつらい状況もありますし、試練を抱えてはいますが、イエス様から「神様はあなたのことが大好きだよ」「そのことを信じますか」と呼びかけられて、私たちのうちにある聖霊によって「はい」と答えるというのが、聖餐式の大きなよろこびであり、ここに、私たちは、「三つであるが一つであり、一つであるが三つである」神様を感じることができるのではないでしょうか。そして、私たちが、「主の祈り」を唱えるとき、私たちが一人ではないこと、「いつもあなたがたと共にいる」神様をも感じることができると思います。

石田雅嗣(松本聖十字教会牧師)

悲喜こもごもの月

 5月は悲喜こもごもの月でした。5月1日には教区と協働関係にあるフィリピン聖公会北中央教区の新しい主教さんの按手・就任式に行ってきました。新しく主教に就任されたのはネストール・ポルティック司祭で、第3代目の教区主教になります。前任者のジョエル・パチャオ主教は20年以上にわたって教区主教を務められましたので北中央教区の方々も久しぶりの主教按手式ということで多少の戸惑いもあったようですが、それ以上に感激もひとしおだったようです。

 ポルティック主教は、〝主教になったとは言え自分はまだまだ勉強中の身である〟と謙虚な姿勢をお持ちで、大変初々しい感じがしました。日本にも来たいと希望しておられますので、いずれおいでいただき可児の教会など訪問・激励していただければと願っています。

 実は、フィリピンに行っている間も、その少し前からかなり容体が悪くなっておられた相澤晃司祭のことが気にかかっていました。フィリピンから帰って十日後の5月11日に逝去されました。相澤司祭とは四十数年にわたり同労者として働かせていただき、わたしが主教になってからも礼拝にご協力いただいたり、色々とアドバイスをいただいたりしていただけに残念です。魂の平安を心よりお祈りいたします。

 5月20日には長野聖救主教会聖堂聖別120周年記念の聖餐式が献げられました。礼拝を献げながら120年前の聖堂聖別式に思いを馳せました。日本でも屈指の門前町にまだまだキリスト教への偏見が強い明治の時代に聖堂を建築するというウォーラー司祭のチャレンジ精神に大いに学ぶべきであるとの感を強くしました。また、高名な鍵盤楽器奏者である武久源造さんの伴奏で聖餐式が献げられたことも感謝でした。

中部地方部と南東京地方部

横浜教区の三鍋裕主教様の定年退職を受け、4月1日から横浜教区の管理主教を委嘱されました。中部教区主教が横浜教区管理主教を務めるのは植松従爾主教様以来40年振りになります。次期教区主教が按手・就任されるまでの管理となります。

歴史をご存知の方はお分かりかと思いますが、中部教区は教区(当初は地方部)が成立するまでの間、当時の日本聖公会の宣教の区割りで言いますと南東京地方部(横浜教区の前身)に属しており、英国聖公会主教の管轄のもとにありました。

日本聖公会における英国聖公会の第2代目の主教であったビカステス主教は岐阜や名古屋、大垣に堅信式などのために来ておられます。また、濃尾震災の折には岐阜にも視察に来ておられます。更に、今年、礼拝堂聖別120周年を迎える長野聖救主教会の聖堂はビカステス主教の後任であるオードレー主教によって聖別されました。オードレー主教も教区内の各教会で堅信式を行っています。

その後、1912年(大正元)に中部地方部が設立され、南東京地方部から独立しましたが、どういうわけか中部地方部主教の紋章(印)は南東京地方部主教の紋章とほとんど同じです。南東京地方部主教の紋章にカナダを代表する木である〝かえで〟のマークが入ったものが中部地方部主教の印です。現在まで変わっていません。地方部設立時にどうして新しい紋章にしなかったのかは分かりませんが、中部地方部(カナダ聖公会)が南東京地方部(英国聖公会)から分かれて出来た教区であることを銘記するためだったのかもしれません。

このように中部教区と横浜教区とは様々な点でつながっていることを教区の皆様にも知っていただければと思います。

ただいま

4月より新潟聖パウロ教会へ赴任し、イースターに続いて牧師任命式が行われました。礼拝のはじめ、主教の前に信徒代表の方と共に立ち、信徒さんからの「支持します」との声に励まされました。新潟聖パウロ教会は、聖職志願をした後、神学院卒業と同時に旅立った場所です。

10年ぶりに帰ってきた夫と私を温かく迎えてくださる方々。その間に亡くなられた方々のご家族と故人を偲び語り合う思い出。10年前に教会に来られた方の中には高齢のため礼拝に出席することが困難である方々も増え、これから再会できるのが楽しみです。

教会の隅々に10年前、5年間働いた丁胤植司祭の様々な足跡が残っていて不思議な気持ちです。信徒訪問をする前に、丁司祭に聞くと10年前のノートを取り出し、信徒訪問をした時の記録を見ながら家族関係や共にしたお祈り、励ましの言葉を教えてくれます。
有志の信徒さんと話す時は、10年前の思い出話もたくさんあり、「神学院に行く前のこと」も思い出しながら話をする機会も多い中、故レア永井志保子さんが思い出されます。

新潟聖パウロ教会へ牧師として赴任した夫は、主日礼拝の準備や説教、牧会などで充実した日々を過ごしていました。「ソンちゃんは若いのに、ご両親と離れて友達も少ないから大変」といつも声を掛け気に留めてくださる方でした。名古屋にいる時は手話を学んでいたと話すと新潟の手話教室の情報を教えてくださり、教会へ訪ねて来る悩み多い若者のことで相談をすると、「夫が癌で亡くなってから病院でボランティアをしていた」時のことや「いのちの電話」相談員をしてきた時の経験を聞かせ、励ましてくださったのでした。

日本の美味しい食べ物や素敵な文化もたくさん教えてくださり、今も「麦とろご飯」、「赤カブの漬物」を食べる時は永井志保子さんを思い出します。ご自分は生まれながら片方の血管が細くて、塩分を控えて漬物を食べないのに、沢山作って教会に持ってきて分け与えてくださる姿に憧れていました。

10年間引きこもった一人の若者との出会いもあって、教会を訪ねる人々へ何か役立つことはないか探していた時、カウンセリングを学ぶことを考えていたら、夫は私が結婚前より神学を学んでみたいと語っていたこともあって、聖職志願の道を応援してくれました。
今までの10年間も色々知らないことがたくさんあり、悩む人の前で何もできず落ち込むこともたくさんありましたが、教会と病院での日々は永井志保子さんが見せてくださった姿を思いながら歩んだものでした。

夫を亡くし、母親の世話、離れて過ごす娘さんたちのこともありながら、ボランティア活動や教会の会計、教会の人々への世話など、血管が細くいつかは歩けなくなる日が来ると、書道や縫物など受けるより与えるが幸いとの生き方を教えてくださった永井志保子さんはじめ、多くの方々より頂いた愛情を心に留め、一緒に祈り、人々と交わり、共に生きる人々が神様の愛に結ばれている信仰共同体、その中の一人であることが本当にありがたいです。

永井志保子さんだけではなく、神様を愛し、愛され、結ばれている人々と共に集い、祈り、分け与えて来られた方々の仲間に入れさせて頂きたいと思います。主に感謝。

司祭 フィデス 金 善姫(新潟聖パウロ教会牧師)

不携帯電話?

わたしが初めて携帯電話に接したのは岐阜の教会時代でした(1989年頃)。教会委員のお一人が大きな携帯電話を肩にかけて持っていたように記憶しています。立派なものでしたが、感度はそれほど良くはなかったように思います。

携帯電話は日進月歩でどんどんと改良され便利になっています。ちなみにわたしも携帯電話を持っていますが、いわゆる「スマホ」ではなく、少し古い「ガラケー」と呼ばれる携帯電話です。携帯電話は確かに便利で、いつでもどこででも電話がかけられますが、かかってくる時には当然こちらの都合に関係なくかかってきますので、しばしばどきっとさせられることもあります。会議中に携帯が鳴ると即座に「もしもし」と出られる方もおられますが、わたしはそういうことにどうも抵抗感があります。やはり今ここでしている会議に集中したいと思うからです。会議が一区切りしてからかけ直すようにしています。(最近、それも忘れるのですが。)

また、一対一で会話をしている途中に相手の携帯が鳴り、目の前で「もしもし」と出られてしまうと、今あなたとわたしが話しているこの状況は一体何なのかと思わずにはいられません。そう感じるわたしが古い人間なのかもしれませんが。

わたしは携帯電話を常時携帯していないこともあります。もちろんトイレには持って入りません。出かける時でも時々携帯するのを忘れてしまうこともあります。そういう時に限って電話があるものです。妻からはわたしの携帯は携帯の用をなしていないと思われているようですが、確かにそうだなと思います。しかし、自分の生活が携帯中心になってしまったらと思うと恐ろしくなるのです。わたしの携帯に電話をくださる皆様、わたしがすぐに出ないことがあってもどうぞお許しください。

「行っていらっしゃい」、「ただいま~、お帰り~」

3月末、長野県から新潟県に移りました。4月6日現在は新潟聖パウロ教会の司祭館に荷物を解き、片づけているところです。住まいは新潟で、管轄は三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会、そして聖公会聖母こども園にチャプレンとして関わっています。

10年ぶりに入ってみた新潟の教会ですが、「あーそうだ。おもにこの部屋を事務室として使っていたし、ここにはあれそれが置いてあった」というような記憶がもどってきます。そして私の跡がそのまま残っているところがあって、一方では不思議感まで漂います。これから新潟の信徒さんに徐々にお会いできる機会があると思いますので、また楽しみにしています。

4月の最初の主日は三条で復活日礼拝を献げ、イエス様のお墓に向っていた婦人たちが「誰があの大きな石を転がしてくれるだろう」という話をしていたところについて説教をしました。それは単純なお喋りではなく「主よ、石の扉を開けてください。そして墓から出てきてあなたの教えていた通り自由を生きてください。そしてわたしたちもその自由を生きることができるようにしてください」という祈りではなかったのかな~という話をしました。そして普段日常の中で心を分かち合っていた信仰の仲間たちが一緒に祈ることによって力を合わせていたことを意味するということだろうとメッセージを伝えました。人間誰だって心に大きな石を抱えているはずだから、もし私が皆さんに「そこの誰か石を転がしてください」と叫ぶ時は是非耳を傾けて欲しいですし、皆さんも「そこのだれか石を転がしてください」と叫ぶ時には私も応えられる、そういう関係をつくっていけたら嬉しいと言いました。

長岡聖ルカ教会は今度の主日に行く予定ですが、樋口正昭さんと連絡を取りながら信徒さんの安否や牧師館の使用不可状況の話、そしてベストリーの屋根の修理について情報を得ています。皆さんと一緒に礼拝を献げて、長岡教会の方々が今まで手を合わせて祈ってきたことについてその悩みを分かち合うことから始まる長岡での主日を期待しています。

三条聖母マリア教会の集会室に信徒の西川愛子さんがお描きになった和画が掛けられています。広い草原に一人の少女が草場に座って、鳥かごの中から小鳥たちを出して自由に放ってあげている絵です。少女が座っている草場にはクローバーがいっぱい生えていてそのクローバーは白やピンク色のお花を咲かせて単純な緑ではなく他の種類の草も細かく描かれています。絵の中の少女の顔からは小鳥を自由に放ってあげることによる喜びの表情だけではなく、小鳥たちとの別れを寂しく思うような表情も感じられます。小鳥たちも少女から離れることに未練が残っているのか、少女の肩に座っている小鳥や少女の手のひらから離れない小鳥もいます。

しかし、もうすぐ小鳥たちは青い空に向けて飛んでいくでしょうし、少女とは別れなければなりません。長野を去る時に長野の方々が渡してくださった挨拶はサヨナラではなく、「行っていらっしゃい」でした。小鳥を放して飛ばそうとしている少女の心は、小鳥たちの旅立ちを応援するとともに名残惜しさも多くあったかと思います。その心を受けて新潟に着いた私は、主において兄弟姉妹となった新潟県の信徒の方々の心の扉の前に立って「ただいま~」と声を上げてみます。絵の中の上の部分に教会が見えますが、遠くから「お帰り~」という声が聞こえてくるような気がします。

司祭 イグナシオ 丁 胤植(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

弱い部分が必要

イースターおめでとうございます。主イエス様のご復活の恵みと祝福が皆さんと共にありますようにお祈りいたします。
2月の終わりに日本聖公会保育連盟(聖保連)の設置者・園長・主任者研修会が名古屋柳城短大で開催され、「幼児期における発達障害の理解と支援」のテーマで講演を聞きました。

内容は発達障害を持つ幼児への支援についてだったのですが、話を聞いていますとこれは幼児に限った問題ではなく、わたしたち大人にも共通する事柄であることを強く感じました。「空気が読めない」「すぐにキレル」「過去の経験から学ぶことが苦手」「共感性が弱い」「冗談が分からない」「相手を傷つけていることに気づかない」「自分の失敗を他人のせいにする」等々。

講師の先生もこれは幼児だけのことではなく皆さん(保育者)自身のことでもありますよと指摘しておられましたが、教役者としてのわたしたちにも関係することであり、大変身につまされる話でした。

わたしたちは誰でもが何かしら欠けたところと言いますか、弱さを持っているものです。パウロは教会共同体を表現するのに人間の体を例に取り、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのであり、神はそういう部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と言い、弱く見える部分を他の部分が補いつつ体全体の調和を保っているのだと言っています。

「障害ではなく特性」「困った子ではなく困っている子」―幼児をそのように理解することはキリスト教保育の根底をなす重要な要素です。そして、教会という共同体はそこに関わる人たちがお互いに違いを認め合い、受け入れ、配慮しつつ信仰生活を営むことにより調和の取れた交わりへと成長していくのです。

いのちのエネルギー

聖職に叙任されて以来、長く学校での勤務を経験してきました。一般の教会と異なり、周囲のほとんどの人がいわゆる「クリスチャン」ではない環境の中で、なるべく教会用語を用いずにキリスト教の内容を伝える、説明する、という訓練を知らず知らずに受けてきたような気がしています。これは私にとって「世界のあらゆるところに神を見出す」ということでもありました。

その中で、「復活」という概念は非常に誤解されやすいという印象を持っています。一言で言うなら、「死んだ人が生き返る」というところで終わってしまうことが多いのです。しかし、キリスト教が伝える「復活」や「復活の命」は、それと同じではありません。いろいろな方のご葬儀に際して思うことは、亡くなった方が「生き返る」ということが起こらないとしても、そこには確かに「復活の命」があるのだ、ということです。肉体に拘束される生物学的な「命」ではなく、神から与えられた「いのち」としてのわたしたちの受け止めが「復活の命」なのです。これを説明するよすがとして、「いのちのエネルギー」という言葉に、誤解を恐れずこのイメージを託してみたいと思います。

神学生時代、バングラデシュのテゼ共同体を訪問し、そこでいろいろな出会いを経験しました。特に今でも強い印象を持っているのは、ブラザー達が支援しており、現在もJOCS(日本キリスト教医療協力会)がワーカーを派遣している、障害者コミュニティセンターでのことです。

ある日、派遣ワーカーの岩本直美さんに同行して、センターに関係する子どもの家庭を訪問しました。ある男の子は重い知的障害を持っており、おそらくほとんど会話はできなかったと思います。しかし、たった一回彼の家を訪れただけの私でも、立ち去るのが悲しかったらしく、真っ裸で道に出てきてオイオイ泣いていました。今でもその姿を思い出すたびに、彼のうちに宿る「いのちのエネルギー」に励まされています。

センターでは、障害を持った女性のグループが立ち上げられたところでした。その一人の女性タフミナさんは、カレッジ在学中に婚約もしていたのですが、骨結核を発症して歩行が不自由になり、婚約も解消されて学校も中退し、引きこもりがちに過ごしていました。利用者としてセンターに関わりを持った彼女に、実はカウンセラー的な賜物があるとみた岩本さん達は、彼女をセンターのスタッフにして、この女性グループの担当者としました。先日、この女性グループを支援するための「井戸ばた基金」の案内に、グループのリーダーとしてタフミナさんのお名前を見た時、彼女の内なる「いのちのエネルギー」を認め、そして彼女をここまで支え励ましてきたスタッフの働きに、そして神さまに心から感謝しました。

「復活の命にあずかる」とは、神さまの「いのちのエネルギー」が世界のあらゆるところを満たしていること、そしてこのわたしのうちにも、神さまはその「いのちのエネルギー」を豊かに与えてくださっていることに気づき、それを信じることだ。この方々は、私にそのことを教えてくださいました。

※「井戸ばた基金」については、idobatakikin@gmail.comにお問い合わせください。
市原信太郎(東京教区出向)