〝新しい歌を主に歌う〟

 昨年の12月1日、東京教区聖アンデレ教会において女性の司祭按手20年の感謝礼拝が行われました。普段、女性の教役者が一堂に会するという機会はあまりありませんので、なかなか壮観でもあり、日本聖公会には女性の教役者がたくさんおられることを改めて認識し、力強く感じました。

 当日の聖餐式の説教者は英国聖公会のテリー・ロビンソン司祭(全聖公会中央協議会事務局「教会と社会における女性部門」ディレクター) で、幾つかの点について話されましたが、わたしが印象に残った言葉は…

 「女性は十全に神に仕えることが許されない地(追放された地)からやって来た。しかし、その記憶は、他者から『よそ者』と分け隔てられている人々を理解し、世界の片隅に押しやられている共同体と連帯することにおいて助けになる」、「キリスト者は…それまで確実だと思ってきたことを、あえて手放して初めて新しい可能性に満ち溢れた何かを発見し、手に入れることができるということも知っている」「女性の司祭按手を含めた様々な習慣の変化は、世界の聖公会においてもしばしば不安と恐れを伴う。…しかし、それまで馴染んできた考え方やふるまいを一旦手放すことが時には必要になり、そうする時にわたしたちは自由になり、様々な発見ができるようなる」…でした。最後に、「恐れるな! 思い切って新しい歌を主に向かって歌いましょう」と締めくくられました。

 神様への奉仕職には誰もが例外なく招かれていると信じます。変化は恐れを伴います。しかし、神様を信じ、祈りと勇気をもってその変化を受け入れていく時、祝福に満ちた神様の恵みが与えられるのです。女性の司祭按手はそのことを教えていると思います。

ちいさいけれど

朝、目が覚めると「あれっ、雪が積もっているかな?」と布団の中でも気が付くことがある。暗くても何となく明るい気がするし、静かすぎるときは、だいたい雪が積もっているのである。子どもの時は、雪が降るのをとても楽しみにしていた。何して遊ぼうか、授業も急遽変更してグランドで雪遊びをした記憶も楽しい思い出として残っている。しかし、大人になると事情が少々異なってくる。通勤の電車は大丈夫だろうか、雪掻きはどうだろうかなど、心配の方が先立つ感がある。実際、5、6年前に軽井沢に観測史上を更新する積雪量の雪が降ったことがある。一夜にして外の風景が、綺麗というよりも、どうしようという思いの方が勝るような景色となっていた。現に、道路は峠越えの出来ないトラックが連なり、家から出られなくなった方もおられた。自宅の周りでは、雪が小康状態になったのを見計らって、誰彼となく除雪車を通すために雪掻きが始まり、作業は長い時間かけて行われた。その掻いた雪を積み上げた所では、子どもたちが遊び始めていた。段ボールを見つけてそり遊び、穴を掘ってかまくら作りと、手や顔を真っ赤にしながら遊んでいた。

子どもたちの遊ぶ姿を微笑ましく見ながらの作業も終わろうとしていた時、ふと服に着いた雪に目が留まった。普段なら、なに気にすることもなく雪を払ってしまうのだが、雪に目が留まった。雪の結晶をはっきりと見ることが出来たのである。生まれて初めての経験だった。その雪の結晶を見て、大学生の頃に読んだ、物理学者である中谷宇吉郎の雪に関する随筆を思い出した。寒い中、顕微鏡で覗いた雪の結晶が幾種類も描かれ、そして、「雪は天からの手紙である」という文章である。天からの手紙は神さまからいただいた手紙ではないかとも思う。優しい文章のときもあれば、厳しい文章のときもある。厳しいと思うのは受け手側の勝手な思いもあるのかもしれない。地位や立場など、色々なしがらみで厳しいと思うこともあるだろう。いずれにしても、神さまは私たちに手紙を投げかけて下さっている。そして、手紙を出し続けても下さっている。その手紙を私たちは受け入れているだろうか。都合の良い手紙だけ目を通していないだろうか。自分自身も省みなくてはいけない。

ひとつひとつの天からの手紙は小さくても、ひと晩で世の中を真っ白に覆いつくすことが出来る。私たちひとりひとりの働きも小さいかもしれないが、働き続けることが大切ではないだろうか。神さまからの言葉を聖書に押し込めたままにすることなく、日常の生活に顕せる働きをしたいものである。

神さまからの手紙によって、この世界が光で覆われる日が来ることを祈りたい。また、光で覆われるように、その働きを教会とともに歩んでいきたい。雪は春とともに消えてしまう。神さまの言葉を消すことなく、大切に持ち続けたい。

司祭 フランシス 江夏一彰
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)

言は肉となって わたしたちの間に宿られた。ヨハネによる福音書1章14

何年ぶりかで青年時代からの友人に会いました。私よりも少し年上のこの方は、まだ二人のお子さんが幼い頃、ご主人と突然の死別をした人です。それから彼女は夫が起ちあげた司法書士事務所を引き継ぎ、子どもを育て、夫の母親と共に家庭生活を営んできました。彼女の穏やかな笑顔を見ながら、この人はこれまで喜びと共に、どれほどの悲しみや苦しみを味わってきたのだろうとぼんやり思いました。

自己責任という残酷な言葉が飛び交い、富の不平等や不当な抑圧がより深刻化していく社会に生きている私たちに、今年もクリスマスがやってきます。神の子イエス・キリストの御降誕はすべての人々への大きな福音です。深い悲しみを抱える人々にクリスマスの光を届けることができるのは誰でしょうか。そこには大いなる逆説が潜んでいます。慰めようとして反対に相手から慰められる。助けようとして逆に助けられる。そんな経験があなたにはありませんか。

目先の損得に執着したり、自分の栄光を求めたりするような生き方から決別し、より大きな喜びに生きるよう、イエスさまは招いてくださっています。イエスさまご自身が現してくださった神の本質である愛の姿、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」かれたイエスさまの生き方に少しでも倣おうとすることをとおして、クリスマスの光が私たちの中にも差し込んでくるのではないでしょうか。

クリスマス、それは喜び、希望、感謝の出来事です。暗闇に生きる人たちのところへ神が人間となって来てくださった。ご自身が貧しい者となられ、愛と喜びの人生を生き、その究極である十字架上の死を遂げられた。この御子イエス・キリストを神は復活させ天にあるご自分の右の座につけられました。この方を私たちは我が主として信頼し、時にふらつきながらもついていきたいと願うのです。

司祭 イサク 伊藤幸雄(直江津聖上智教会・高田降臨教会牧師、飯山復活教会管理牧師)

万が一じゃなく、二分の一

この表題は「がん検診の受診」を奨励するテレビの広告キャンペーンの文言です。夫婦がテニスをしていて、夫が「万が一、がんになったら」と言うと、妻が「万が一じゃなく、二分の一」ときっぱり言うのです。
今の時代、2人に1人はがんにかかり、3人に1人はがんで亡くなります。そういう意味でがんは普通にだれもがかかる病気と言えないこともないのですが、ではわたしたちが平常心でがんと向き合えるかと言いますとなかなかそうはいきません。また、簡単に治る病気かと言いますとそうでもありません。手術や薬で一応治療が終わっても何年間は様子を見なければならないとか、なかなか気が抜けない病気ではあり、その辺がやっかいなところです。

わたしの身近にも何人かの方々がおられます。皆さん治療を受けながら力強く(頑張って)、前向きに日常生活を送っておられます。そんな皆さんに心からエールを送ります。

誰もが病気にかからなければ本当にいいのですが、人間である以上そうもいきません。先日亡くなられた俳優の樹木希林さんは〝病を悪、健康を善とするだけなら、こんなつまらない人生はないわよ〟と言っておられたそうですが、本当にそうだと思います。病気は悪ではもちろんありませんし、人生のマイナスでもありません。

イエス様は目の見えない人には〝神の業が現れるためである〟と言われ、重い皮膚病の人には自ら触れて癒されました。そのようにイエス様はわたしたちの病に深く、積極的に関わってくださり、励ましと癒しを与えてくださるのです。そんなイエス様が見守っていてくださることを覚えたいと思います。

ただ、「万が一ではなく、二分の一」です。検診はちゃんと受けましょう。

諸 聖 徒 日

11月1日は、すべての、もろもろの聖である人たちの魂を記念する日という意味で、「諸聖徒日」と言います。亡くなったすべてのキリスト者の魂を記念し、そのために神様に祈る日であり、更に翌日の11月2日は、「諸魂日」と言い、世を去ったすべての人々の魂を記念し、神様に祈る日です。11月を「諸聖徒月」とも言います。
教会では、毎日曜日の礼拝で、亡くなった方々の魂のために、常に神様に祈っていますが、このように、11月は特に亡くなった人々のことを想い、その魂を安らかに休ませて下さるようにと神様に祈ります。ちょうど、我が国のお盆のような時です。
人の死後について、確かなことは誰も知りません。ある人は、何もかも無くなってしまうと考えており、他の人は、肉体は無くなるが、魂は生きていると考えています。共に、確かな証拠はありませんが、大昔から、多くの人々の願い、あるいは、期待、希望として、死後の人の魂は生きていると、信じられてきました。もし、人の死後が何もない、虚無であるとすれば、今、私達は、希望も何もない虚無に向かって必死に生きていることになり、人生は空しいものになってしまいます。また、お葬式やお墓参り、法事、キリスト教の逝去者記念式などは全く無意味なものになってしまいます。
聖書は、この世の務めを終わった人の魂は眠り休んでいるが、やがて最後の時に、命の源である神様の許に行くのであると教えています。

ですから、今、生きている私達は、世を去った人々のために、神様にこの人の魂を受け容れて下さるようにと祈ると共に、私達が生きている間、神様に喜ばれるような充実した人生を送れるようにと、御導きと御守りを祈りつつ、希望を持って生き続けるのです。世を去った多くの人々の魂のために祈りましょう。

司祭 テモテ 島田公博(主教座聖堂付、長野聖救主教会、稲荷山諸聖徒教会、新生礼拝堂主日勤務)

一人の固有な存在として

去る9月8日、横浜教区の主教按手式があり、主教被選者入江修師が横浜教区主教に就任されました。入江主教の教区主教就任によりわたしは管理主教の任を解かれました。5ヶ月ちょっとの管理主教でしたが大変貴重な経験をさせていただき感謝でした。入江主教は中部教区とも深い関わりのあるお方ですのでこれから中部・横浜の協働が何らかの形で進められれば大変嬉しいと思います。横浜教区の新しい始動の上に神様の祝福と導きをお祈りいたします。

話は変わりますが、8月下旬、岐阜アソシア主催の〝かがり火2018〟に出席してきました。視覚障がい者の方々を対象とした結婚研修会で、今年で47回目になります。南は沖縄から北は北海道まで全国から多くの皆さんが参加されました。

来賓として参加された岐阜県視覚障害福祉協会の事務局長さん―女性の方です―の挨拶にはっとさせられました。その方は、特に男性の参加者に対してこれだけはお願いしたいと言われ、〝どうか相手の方に母親の代わりを求めないでください。生涯を共にする一人の女性として見てください〟と言われました。

その場にいた多くの人たちから―特に女性の参加者の方たちから―〝その通りだ〟という声なき声が聞こえたように感じました。そう感じたのはわたしだけかと思いましたら、あとで聞きましたらアソシアの館長も同じように感じたそうです。

性の違いがどうであろうと、障がいがあろうがなかろうが、「生産性」があろうがなかろうが、わたしたちはみんな固有で貴重な一人の人間として存在しています。その人に誰かほかの人を見るのではなく、その人自身を見るのです。その固有性を認め、受け入れるのです。そんなことに改めて気付かされた挨拶でした。

聖フランシスなら、蜂にも説教を?

今年3月まで約10年間、長野県木曽町にある福島教会の管理牧師を務めさせて頂いておりました。ある日の福島教会での聖餐式の説教中、何処からともなく聖堂内を小さな足長蜂が飛び始めました。すると、当然のことですが聖堂内の雰囲気が一変しました。それまでは、私の説教する声だけが静かに聖堂に響き、信徒の方々もその声に耳を傾け、目を合わせる度に心が通い合い、み言葉を共有していることを感じ合える時間でした。しかし、その小さな、小さな蜂の登場で、全てが変わりました。信徒の方々の表情から〝蜂だ!どうしよう。でも、説教中だし…〟という心の声が聞こえ、目を合わせれば、そこには緊迫感と戸惑いにも似た怯えが明らかとなっていました。そして、信徒の方々の耳には私の説教の声ではなく、その私の声よりもずっとずっと小さいはずの、その蜂の羽音の方が遥かに大きく響いていました。信徒の方々だけではなく、説教をしていた私自身にとっても同じでした。全てが、その蜂に飲み込まれました。
み言葉を語り続ける使命と責任の中で逡巡しながらも、私は説教を止め、「蜂がいるので、外に出しましょう」と言うと、聖堂内の緊張感は一気に解け、一人の信徒の方が窓を開け、新聞紙を手に取り、圧倒的な力を持った、その小さな、小さな蜂を窓の外へと押し流しました。蜂が外へと追い出されてからは、再び、聖堂は先ほどまでの落ち着いた雰囲気を取り戻し、私も説教を再開しましたが、私は説教をしながら、かつて、子どもの頃の私自身に、この福島教会の聖堂で起きた出来事を思い出していました。
実は、福島教会は私の母教会でもあり、私は小さな頃から家族に連れられて、聖餐式に参列していました。しかし、
参列と言っても、私は先ほどの蜂のように聖堂の中を飛び回り、祈りの雰囲気を壊し、大変だったようです。すると、ある時、私のその悪行に堪り兼ねた母親が、聖餐式の途中で私を外へ連れ出し、聖餐式が終わるまで、二人でずっと外で過ごしていました。そして、聖餐式の後、母親は祖母へ歩み寄り、こう告げました。「この子は騒がしくて大変ですし、皆さんのお祈りの邪魔になるので、しばらく教会をお休みしようと思います」と。私は母親のその言葉を聞き、幼心にも〝まずいことになった〟という気持ちで身をすぼめ、様子を伺っていました。すると、祖母は母親に、こう返しました。「あなた、何を言っているの?!子どもたちにこそ、神様のみ言葉は必要で、子どもたちにこそ、聖餐式は大切なのよ。だから、次からも子どもたちを教会へ連れてきなさい。そして、聖餐式の途中で子どもたちを聖堂の外へ連れ出す必要はありません」と。祖母のその言葉に、母親はとても驚き、そして、少し安心したように、「はい。そうですね」と返事をしました。事の成り行きを伺っていた当の私は、祖母のこの言葉で、聖餐式というものが祖母や母親、そして、教会の方々にどれだけ大切なものであるのかを一瞬にして悟りました。そして、何よりも、子どもであるこの私自身にとっても…と。
かつて、聖堂から外へ連れ出された子どもの頃の自分自身の姿と、たった今、聖堂の外へと私が追い出すようにと促した蜂の姿とを重ね合わせながら、私はこう思いました。〝小鳥に説教したと言われる聖フランシスなら、あの蜂にも説教したのだろうか?…きっと、したに違いない〟と。
聖フランシスは人間以外の全ての被造物をも兄弟姉妹と呼び、愛し、尊び、それ故、動物と心が通じ合い、小鳥に説教でき、狼を回心させることができたという物語はあまりに有名です。しかし今、祖母の言葉を思い出す時、聖フランシスは、小鳥や狼と心が通じ合っていたから、小鳥や狼が彼の言葉を理解できたから、説教することができたのではないことに気が付きます。
〝全ての被造物には、神のみ言葉による導きが絶対に必要である。それは人間に限らず、人間の言葉を理解できない、人間以外のまさに全ての被造物にも!!である。全ての被造物に神のみ言葉による導きが必要であるのであれば、私は小鳥や狼にでさえも説教する。たとえ、私の話す言葉を小鳥や狼が理解できないとしても、私が語るのは神のみ言葉である。私は神のみ言葉の絶対性と、その偉大な力とを信じる。神のみ言葉であれば、まさに全ての被造物に届く!!小鳥や狼に私の言葉は伝わらなくとも、私の語る神のみ言葉は、絶対に伝わり、そして、神のみ言葉であれば、小鳥や狼も絶対に何かを感じる。だから、私は小鳥や狼に説教するのである。〟彼はこう信じ、小鳥や狼にみ言葉を語り続けたのだと思います。そして、もし、そこに蜂がいれば、蜂にも…。
まさに全ての被造物が神の恵みの中に留まり続け、神のみ言葉の雨を常に浴び続けることこそが大切なのです。私たちはいとも簡単に「子どもたちには説教は分からない」、「子どもたちには聖餐式は難しい」、「退屈な思いをさせるのは可哀そう」と思い込み、子どもたちの居場所を聖堂以外に、子どもたちの耳に届くものをみ言葉以外にしてはいないでしょうか。神のみ言葉と、聖餐の奇蹟は、私たちの理解と想像を超えて、遥かに鮮明に、確実に、思いも寄らぬ形で子どもたちにも届くのです。聖餐式が私たち大人にとって至上の信仰の糧であるならば、それは、子どもたちにとっても当然、同じはずです。しかし、子どもたちには、聖餐式以外の場所が安易に用意されてしまう。その様子を見ながら、こう思います。〝子どもたちが聖餐式から連れ出されるのは、本当は誰のため?退屈している子どもたちのため?それとも、静かに礼拝をしたい私たち大人のため?〟と。
主イエスが大人たちの中心で、子どもを抱き上げ、祝福されたように、聖餐式においても常に子どもたちが中心であり、〝子どもたちが居ていい場所、いるべき場所〟になるように祈っています。

下原太介(主教座聖堂名古屋聖マタイ教会牧師・名古屋聖ヨハネ教会管理牧師)

呼ぶ声の向こうに

結婚式の前にオリエンテーションが行われ、お二人とお話しする機会があります。二人が案内されてやってくるまでの時間、いまでも緊張します。事前にもらっている結婚申し込み用紙から「こんな人たちかな」と考えるのですが、それがかえって想像を膨らませ余計なフィルターをかけてしまいます。挙式の写真を取るカメラマンは、撮影の前に二人の印象や余計な情報は聞きたくないと言います。これから撮る写真を「そのままの二人や家族」として撮りたいからだそうです。私もそれを見習いたいと思いたいのですが、二人に初めて会う前に余計なことを考えてしまいがちです。でも二人の方こそ緊張しながらやってくるのです。彼らと私の互いの緊張が少しずつ溶けて、リハーサルが終るころには挙式に向けて進むことができた喜びの笑顔があると少しホッとします。以前、毎日のように病院で患者さんのところへ行ってお話を聴いていた時もよく似た緊張感がありました。痛みを繰り返して調子が悪くなっていませんように、リハビリでくたびれていませんようにと願いながら病室を訪ねます。事前に病状をナースから聞いていても、時間を見計らったつもりで訪ねても何度も断られると、さすがに気持ちがへこみます。病院内の会議の忙しさや眠っている患者さんを起こしちゃいけないと理由をつけて病室の前を通り過ぎることもありました。そんなとき「病院の牧師さんですか?」と言われてハッとします。そしていまも挙式後、新郎の挨拶で「司祭様やスタッフの皆さんに感謝します」と言われて、ハッとして「そうだった」と気がつかされます。自分がここにいることの意味を改めて教えられるのです。イエス様がティルスとシドンの地方に行かれたとき(マタイ15章21節)カナンの女が「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫びます。娘を癒してほしいと願う声にイエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」と差別とハラスメント満載の言葉で退けます。当時の時代、社会はこの様なものだったかもしれません。でもそれは、私が自分に理由をつけたことと同じで悲しくさせる言葉です。イエス様も疲れていて、気持ちの中に溜め込んでいたかもしれません。イエス様の歩みは、確かに私たち以上に孤独でした。教えても理解されず、故郷ナザレでも家族から信頼されません。だから羊飼いが必要のない、イスラエルの失われた羊がいない遠くの地方まで来たのでしょうか。しかしそこで「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけられるのです。イエス様が救い主として神の子としてこの世におられる中で、人々から叫び求められる声の中で、イエス様はこの呼びかけをずうっと求めておられたのではないでしょうか。その求める声以上に、イエス様も私たちに呼びかけていたのです。イエス様も私たちを求めておられるのです。私たちはイエス様が私たちの「主」となるために、「ごもっともです。しかし、主よ」としがみつくように叫び求めていきたいと思います。その向こうにイエス様が待っておられるのですから。

司祭 マタイ 箭野直路(旧軽井沢ホテル ホテル音羽ノ森チャプレン、軽井沢ショー記念礼拝堂協働司祭)

森主教を偲んで

前中部教区主教のフランシス森紀旦主教様が去る7月10日急逝されました。東京教区管理主教の広田勝一主教様から知らせを受けた時、本当にびっくりし、思わず〝本当ですか?〟と聞き返してしまいました。足の調子が良くないとのことで整形外科に行かれ、そこで倒れられたとのことです。救急車で国際医療研究センター病院に運ばれましたが、〝後腹膜出血〟のため逝去されました。満78歳でした。
葬儀は―以前からご本人と奥様の敦子さんで話をしておられたそうで―ご家族だけでということで12日、目白聖公会で執り行われました。後日、敦子さんをお訪ねし、お祈りをさせていただいたとき、葬儀の写真を見せていいただきましたが、非常に簡素でありながら清楚で、森主教様にふさわしい葬儀であったと思いました。

主教様は生前、自分は「死ぬ」という表現は好きではない、「召される」ということだと思うと言っておられました。主教様の逝去はわたしたちの思いを越えた神様の深いお心のうちにある「召し」であると受け止めたいと思っています。

森主教様は1998年3月から2009年12月まで教区主教を務められました。その間、中部教区センターの建設、フィリピン聖公会北中央教区との協働関係の締結、可児伝道所(現・可児聖三一教会)の開設、教区成立90周年の記念礼拝、組織の改編等、教区の宣教・牧会における大切な働きを導かれました。

また、日本聖公会における女性の司祭按手第1号として渋川良子執事を司祭に按手されたことは森主教様の記念すべき決断でした。
主教様のお働きに感謝し、魂の平安とご家族へのお慰めをお祈りいたします。

共にいる… お互いを肌で感じる

6月に教役者協議会が松代で開かれました。そこに横浜教区の入江修司祭(横浜教区常置委員長、主教被選者)と片山謙司祭(横浜教区総務主事)が参加されました。
以前、このコラムにも書きましたように中部教区は横浜教区から分かれて出来た教区ですが、最近は少し関係が希薄になっているように感じています。わたしが教役者になってから横浜教区とは2回の合同教役者会が行われています。1回目は植松従爾主教と岩井克彦主教の時代で、1981年6月に軽井沢で開かれています。2回目は2007年11月、清里の清泉寮で行われました。森紀旦主教と遠藤哲主教の時です。
第1回目、第2回目とも両教区の現状を分かち合い、両教区の協働について話し合いました。1回目の後はなかなか具体的な協働には結びつかなかったように記憶していますが、2回目にはできるところから協働しましょうということで横浜教区の礼拝音楽研修会に中部教区からも参加しました。主教や司祭の講壇交換をという話も出ましたがなかなか実現には結びつきませんでした。
今回、横浜教区のお二人の聖職者が教役者協議会に参加してくださったことは、すぐに今後の交流に結びつく、つかないは別にしても、とても良い機会であったと思っています。お二人が中部の教役者と「共にいる」ことにより、肌で中部の雰囲気を感じていただけたと思うからです。わたしも管理主教ということで横浜教区の常置委員会、教役者会等にも参加させていただき、横浜の雰囲気を肌で感じています。その場にいてその雰囲気を肌で感じるということはお互いを理解する上でとても大事なことだと思っています。