研修会のプログラムのお知らせです。
当日は、日本聖公会中部教区研修会2021 – YouTube から視聴することができます。
是非、ご参加ください。
![](https://nskk-chubu.org/wp/wp-content/uploads/2021/09/1fb18fbc782de12a196bd58c9edfd8ef-724x1024.jpg)
愛知県・岐阜県に緊急事態宣言が発出されることを受け、下記の通り主教座聖堂の礼拝も休止となります。
2018年2月11日(日)付『岐阜新聞』に、飛騨市長である都竹淳也さんは、このような文章を寄せておられます。
「私の次男は最重度の知的障がいのある自閉症児である。特別支援学校中学部の1年生。多くの方々のご支援をいただきながら暮らしている。次男の障がいが分かったのは2歳の頃だ。言葉の遅れなどが顕著で、不安に駆られ、医師の診察を受け、自閉症との診断を受けた。今も困難なことも多いが、我が子はかわいい」「次男のいいところはどこだろうと毎日見ているうちに、同じように職場の部下や同僚を見るようになり、強みを伸ばす組織運営をするようになった。弱い立場の人たちを意識するようになり、障がい児者だけでなく、病気や生活困窮、ひとり親家庭など、厳しい状況にいる人たちを助けたいと強く思うようになった。そうした頃、県職員だった私は、願い叶って障がい児者支援の仕事に就くことができ、重症心身障がい児者を医療面から支える仕事に打ち込んだ。
市長となった今も、弱い立場の方々の支援は市政の最重点だ。こうした分野に取り組むのは、誤解を恐れずに言えば、自分の子どものためである。公職にある自分が支援を充実させれば、多くの方々が救われる。それは次男が私をしてなさしめたことであり、この子が世の中のお役に立てたことになるからだ。このことだけは徹底して親ばかでありたいと思う」
確かに、主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時に聴いた天からの言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)でした。イエス・キリストも私たち一人ひとりを「愛する子」として徹底して大切にしてくださった。そのような愛をもって、私たちも、私たちの隣り人のために、まるで親ばかのように無条件で愛することが求められているのだと思うのです。
6月10日付で日本聖公会主教会より『「日本聖公会における女性の司祭按手に関するガイドライン」<日本聖公会第 64(定期)総会決議>の再確認について』の声明が出されました。210610_seimei.pdf (nskk.org)
愛知県の緊急事態宣言が6月20日(日)まで延長されたことを受け、主教座聖堂の礼拝も6月20日(日)まで休止となりました。ご不明な点がございましたら、中部教区センターまでお問い合わせください。
教区制改革について考えるとき、中部教区に属するわたしたちが記憶にとどめておきたいことがあります。それは2003年に開催された第73(定期)教区会において、管区に「日本聖公会教区区域再編成検討委員会(仮称)」の設置を求め、日本聖公会総会に議案を提出する(総会代議員に付託する)ことを中部教区の意思として決議したことです。その提案理由文には、
「教区区域の再編成については、単なる組織ではなく、これからの日本聖公会の宣教ビジョンを含めた包括的な議論として進められるべきであり、…一刻も早くこの課題に着手することにより、日本聖公会の宣教の活性化を促していかなければならない」
とあり、教区制改革の目的は日本聖公会全体の宣教の活性化であることを明確に示しています。
翌2004年に開催された日本聖公会第55(定期)総会において、中部教区の総会代議員は連名で「教区制改革を推進する機関」設置の件を提出し、可決され、「教区制改革委員会」が管区に設置されました。その後、同委員会を中心に協議、研究が重ねられ、教区間協働の促進、教役者給与支援システム等が実施されるに至りますが、その延長線上に、昨年の総会で決議された「宣教協働区の設置及び伝道教区制の導入」があります。
今や日本聖公会は新たな段階へ入ったと言っても過言ではないでしょう。従来の「教区」という枠を越えて、各々の教区の歴史や伝統、慣習等の違いを尊重し合い、分かち合い、支え合い、祈り合いながら日本聖公会全体のビジョンを描き上げることが求められています。長引くコロナ禍により礼拝や集会などが制限され、疲弊感や閉塞感に押し潰されそうになりますが、このようなときこそ教区制改革について思いを巡らせ、これまで中部教区が積極的に向き合ってきたことを覚えるとともに、その意思を受け継いでいきたいと思います。
主教補佐
司祭 テモテ 土井宏純
中部教区報『ともしび551号』(2021年5・6月号)より
去る3月20日(土)に開催されたキリスト新聞社主催のオンライン配信イベント「コロナ時代に問う『神学+教育2.0』」に、いずれも畏友の同志社大学の小原克博教授、関西学院大学の中道基夫教授と共に、パネリストとして参加しました。各パネリストが奉仕する大学の現状や、オンラインかリアルかという二者択一の議論を超えて、「ポストコロナ」のキリスト教、学校、教会が生きる道について語り合いました。私も小原先生や中道先生からさまざまな気づきを与えられました。
中道先生は、「オンラインによって、教会に集まる意味や礼拝の本質が問われることになったと同時に、これまで多忙であった牧師が信徒と共に学ぶ時間が取れるようになり、普段は仕事などで主日に教会に行くことが困難な人々に対しての宣教のチャンスが生まれたのではないか」と指摘されました。小原先生は、「礼拝とは説教を聴いていれば良いというものではなく、教会はキリストの体であり、すべての者がキリストの体につながっていることを再確認する場である。そう考えるとき、本当にオンラインで十分なのか考える必要がある。私たちはあえて自由を放棄して、毎週教会に集っている。不自由で不便な教会には、世の中にはないものが教会にはあるのだということを示し続けなければならない」と問われます。
私は聖公会の立場から、北海道教区の植松誠主教さまの牧会実践を紹介しながら、一人ひとりへの丁寧な顔と顔を合わせた聖餐を通した具体的なつながりが、私たちにとっていかに重要なものであるかを強調させていただきました。
新型コロナウイルス感染症パンデミックという危機を経験した私たちが、社会に通用する言葉で、新しい神学をどのように語っていくのかが、教会の宣教的・社会的責任であるという点で、私たちは一致しました。