「牧師任命式」の恵み

 主教職を担う上でのお恵みは数多くありますが、私にとって「牧師任命式」はとりわけ大切な機会となっています。先月も名古屋聖マルコ教会の牧師として任じた丁胤植司祭と、新潟聖パウロ教会に派遣した石田雅嗣司祭の牧師任命式を執り行わせていただきました。
 主教は聖所の入り口に立ち、新任牧師は教会委員代表に伴われて主教の前に立ちます。司祭は会衆の前で、この地での新しいミッションを果たすことを約束し、この司祭を牧師とすることを支持するかとの主教の問いかけに、声を合わせて「支持します」と応答します。続いてみな、神の前に跪き、司祭按手の際の嘆願を唱えます。
 そして主教は、新任牧師に聖書、祈祷書、法憲法規を渡し、この人が、み言葉を宣べ、人々の中で祈る者となり、教会を牧し、整える者となることを切に願い求めます。さらには、教会委員が全会衆を代表して聖堂の鍵を委ね、すべての人に教会の扉を開くように促します。
 今秋には宣教協議会が予定されていますが、10年前の宣教協議会で提示された〈ていねいな牧会と宣教〉とは、まさしくそれぞれの牧師が「牧師任命式」での誓いを誠実に果たし、会衆信徒がその牧師を全力で支え、共に宣教・牧会を担うことに尽きるのです。
 丁胤植司祭のお父さまは、癌のため、今年1月に残念ながら主のもとに召されました。丁先生は、末期診断を受けられたお父さまと最後の時を過ごすために昨年12月に韓国に戻られました。自宅の玄関で丁先生を見送られたお父さまは、突然、息子が日本での宣教の働きをしっかりと担い切ることができますようにと、丁司祭のために祈り、祝福されたとのことです。
 丁胤植司祭の牧師任命式の時に、そこには間違いなく、お父さまの祈り、励ましもありました。まさしく感謝と感動に満たされた時であったのです。

青年たちの声に聴く神の福音

 敬愛するパウロ塚田道生司祭が、去る2月9日の早朝、主のもとに召されました。90年にわたる地上でのご生涯でした。私は1987年から名古屋学生センターのスタッフとして招いていただいて以来、塚田道生先生には大変お世話になりました。私の学問や大学という場での指導は塚田理司祭であり、道生先生にはキリスト者としてのぶれない生きざまの重要性を教えていただきました。
 名古屋学生センターは信仰の観点から学生、社会への批判精神を持ち、同時に教会へも批判的でしたが、センター自身も時に厳しい批判に曝されました。塚田先生は、このように振り返っておられます。
 「批判的な人たちは学生センターが教会や聖職に批判的な青年を育て、教会の存在基盤を揺るがす不要な存在と思っていたようです。肯定的な人たちは社会問題や思想などに敏感な学生達の感性と純粋な問題提起を受け止めようとしました。〈過激派〉などの差別的な批判も沢山聞きましたが、自分を絶対化し、異質者を排除する思想は福音信仰からそれる律法主義です。未熟であっても、純真な青年の批判とそれへの応答が大切なのです。変動の激しい時代には、自由で率直な批判の声の中で神の福音を聴くことができるのです。批判と自己批判の相互作用がお互いを成長させて行きます。この相互作用に対応するためにはネットワークの繋ぎ役としての場が必要です。21世紀には、教会への批判はこれまで以上に厳しさを増すでしょう。それに応える場としての役割が広がると思います」
 塚田先生のこの言葉に触れる時に、他ならない私自身が、道生先生によって方向づけられ、育てられ、励まされていたことにあらためて気づかされるのです。
 今年の夏には、日本聖公会全国青年大会が計画されています。私たちは青年たちが発する声の中に主の福音を聴くようにと招かれているのです。

海を超え、時を超え、地上と天上を超えてつながる祈り

 先月、豊橋昇天教会で幼子の洗礼式とお二人の堅信式が行われました。主教にとって洗礼堅信式を司式させていただくことは、この上ない喜びなのですが、今回はさらなるお恵みが与えられました。堅信式を受けたのは、白藤亜南さん(11歳)と白藤二架さん(8歳)の姉妹。ソロモン諸島で農業を教えていた白藤謙一さんと白藤シンデレラさんは聖婚後の2013年に来日され、豊橋市に住まわれるようになりました。シンデレラさんのご家族はソロモン聖公会の熱心な信徒。白藤さんご家族は豊橋昇天教会の大切なメンバーとなりました。ところが、シンデレラさんは、2018年に癌が判明。2020年5月4日、主のもとに召されました。34歳でした。
 堅信式の当日は、お母さんの写真も会衆席の最前列に置かれ、きっと天国でこの時を喜んでおられたことと思います。亜南さんが幼児洗礼を受けたのはソロモンの教会でした。箭野眞理司祭から、お父さまの健一さんが亜南さんのソロモン聖公会で出された「信仰の履歴」を発見され、そこには、亜南さんは、2010年に一時帰国し3月7日に、「フィユの王なるキリスト教会大聖堂」で幼児洗礼を受けており、教父母はサンドラ・アシュレイ姉とベンジャミン・カエラ兄であったことが判明したと伺いました。
 私は、ソロモン聖公会元主教で畏友でもあるテリー・ブラウン主教に連絡を取り、教父母についてお尋ねしたところ、教母であるサンドラさんのおつれあいのジョン・アシュレイ司祭のメールアドレスを教えてくださいました。アシュレイ司祭に亜南さんの堅信式についてお伝えしたところ、すぐに温かいメッセージを頂戴することができました。
 「教えてくれてありがとうございます。サンドラと私はまだホニアラの中央教区で奉仕しています。ベンジャミン・カエラも元気で、私たちの住むイサベルの地域のお世話をしています。サンドラと私は今度の主日の聖餐式の中で、みなさまのためにお祈りいたします。私が洗礼を授けたアナの堅信式が行われ、サンドラを彼女の教母として覚えていただいたことを感謝いたします。サンドラが教母をつとめた子の顔を見れるように、アナの最近の写真を送ってください」
 海を超えて、時を超えて、また、地上と天上を超えて、祈りはつながっているのです。私たちの聖公会は、そのような豊かさに満たされた教会であることを、あらためて感謝をしたいのです。

〈信仰の襷〉を繋ぐこと

 2023年となりました。本年も中部教区聖職・信徒が祈りを合わせて、ていねいな〈宣教・牧会〉を誠実に担いあいたいと願います。
 新年1月1日(日)は名古屋聖マタイ教会・主教座聖堂において、主イエス命名の日・主日聖餐式の司式・説教をさせていただきました。本来は、翌2日(月)、3日(火)は久しぶりの休日の予定でしたが、立教大学が実に55年ぶりに箱根駅伝本戦に出ることになったため、私も総長として、急遽、現地で応援することとなりました。
 12月26日(月)には、立教学院聖パウロ礼拝堂で、「立教大学箱根駅伝出場感謝/ユニフォーム推戴式および壮行礼拝」が開催されました。礼拝の中で、立教大学の襷(たすき)と選手のユニフォームが祝福され、私から選手代表に襷を手渡しました。
 そして、今回の箱根駅伝では、往路復路全10区間、この襷は見事に繋がり、ゴールを果たすことができました。実はこの襷には、10名の選手たちだけではなく、部員全63名がサインをした名前が記されていました。箱根路を走った選手たちは、部員全員の思いと、私たちすべての祈りを繋いでくれたのでした。
 駅伝は、それぞれの区間は一人で走るという意味では、限りなく個人競技であると共に、襷を繋いで、チームとしてゴールを目指すという点で、完全な団体競技です。
 教会もまた、個々人が信仰に生きると同時に、その信仰を先達たちから受け継ぎ、そして未来へと継承していくことによって成立する共同体です。そういう意味では、私たちは、イエスさまが〈語られ、為さったこと、命じられたこと〉、すなわち、主イエス・キリストの〈ミニストリー〉を「信仰の襷」として受け、誠実にそれぞれの人生という路を走り抜き、そして、次の世代に託していく者たちなのだろうと思います。
 信仰の襷を繋ぐこと。それを「使徒継承」と言うのでしょう。

クリスマス・メッセージ ―奇跡を祈る「聖なる愚か者」―

 立教大学では、今年の9月からウクライナで大学生としての学びを継続することが困難になった学生5名を受け入れ、現在、彼女たちは元気に学びと生活を送っています。けれども、ゆっくり話を聴くと、ウクライナに残る家族たちを思う言葉が次第に溢れ出し、涙が止まらなくなる学生もいます。自分だけ安全な場所に逃れてしまって良いのだろうか、との自問もあります。つい先日もキーウに対してミサイルの波状攻撃があり、大きな被害が出ました。発電能力の40%が喪失し、極寒の真冬に人々が耐えられるかが懸念されています。彼女たちがどんな思いで、これらのニュースに接しているのかを考えるだけで、私たちの〈はらわた〉も、きりきりと痛むのです。
 主イエス・キリストがお生まれになった二千年前のベツレヘムでもまた、一人の暴君によって無数の尊い命が徹底して蹂躙されました。主の使いが夢を通してヨセフに告げました。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」。ヨセフは夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトへ逃げ、暴君が死ぬまでそこにいたと言います。暴君は博士たちにだまされたと知り、激怒します。そして、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺したのです。
 それは、預言者エレミヤを通して言われていたことの現実化でもありました。
 「ラマで声が聞こえた。/激しく泣き、嘆く声が。/ラケルはその子らのゆえに泣き/慰められることを拒んだ。/子らがもういないのだから」
 ラマでの叫びとウクライナでの嘆きは間違いなく通底しています。
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃、2016年に81歳で天に召された米国長老教会長老で詩人のアン・ウィームズ(Ann Weems)さんが、2003年の灰の水曜日に書いた『もはや平和を祈らない』と題された詩が、多くの人々によって、あらためて共有されました。
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 戦争の縁に片足はもう入っている/もはや平和を祈らない/奇跡を祈るのだ
 石の心が/優しい心へと変わり/悪意が/慈しみの心へと変わり/配備されているすべての兵士が/危険な場所から救い出される奇跡に/全世界が/驚いて膝をつくことを
 すべて〈神が語られること〉が/骨をとって立ち上がり/不信仰の纏(まとい)を取り除かれ/力強い真理の中を再び歩み始めることを
 全世界がともに座して/パンと葡萄酒を/分かち合うことを
 希望などないと言う人もいる/けれども、わたしたちの信仰が躓いたとしても/決して諦めることない聖なる愚か者たちに/わたしはいつも拍手を送ってきた
 わたしたちは神に愛されているのだと/わたしたちは真に互いに愛し合うことができるのだと
 もはや平和を祈らない/奇跡を祈るのだ
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 主がお生まれになった時代も、平和など祈れない時でした。しかし、それでも人々は奇跡を祈ったのです。そして確かに主イエス・キリストという暗闇の中で眩しく輝く光が与えられたのでした。それこそが〈クリスマスの奇跡〉に他なりませんでした。
 私たちもまた、決して諦めずに奇跡を祈る「聖なる愚か者」であり続けたいのです。

2022年ランベス会議に参加して

 7月26日(火)から8月8日(月)にかけて英国・カンタベリーで開催された「ランベス会議」に出席させていただきました。正式な報告は、また別途の機会にさせていただきますが、ここでは特に印象に残ったことについてご紹介します。
 私は1998年、2008年のランベス会議にもスタッフとして参加しましたが、今回、驚いたのは、出席した女性の主教の多さでした。1998年は「ランベス・イレブン」と呼ばれた11人の女性の主教が参加、前回は18人、そして今回のランベス会議には、笹森田鶴主教も含めて、実に98名もの女性の主教が参加されました。もはや世界聖公会は彼女たち、女性の主教たちの存在なしにはその働きを十全にはなしえないということです。
 一方で、セクシュアリティをめぐっては依然として深刻な分断がコミュニオン内にあることが浮き彫りになりました。今回のランベス会議では決議ではなく「ランベス・コール」という文書を採択する方式が採られたのですが、起草段階ではなかった同性婚を否定する1998年ランベス会議決議を裏書きする文言が最終文案に挿入されたため、米国、カナダ、ウェールズなどの聖公会をはじめとして世界各地からこのプロセスに対する批判が集中し、カンタベリー大主教は急遽、この草案から当該箇所を削除することを発表しました。ランベス会議に参加したグローバルサウスの保守派主教たちは、今回出席している同性愛を公としている6名の主教たちと陪餐の列には並べないとして、カンタベリー大聖堂での開会聖餐式では席を立たず陪餐を拒否しました。
 日本においても同性愛に対する無理解とそれがもたらす差別が、キリスト教の枠組みから語られることが後を絶ちません。それぞれのセクシュアリティはカラフルなものであり、その人の存在そのものと直結している。誰一人としてその人間としての尊厳が傷つけられてはいけないことを、私たちも粘り強く語り続けていかなければならないことを、あらためて確認する機会ともなりました。

全世界の主教がカンタベリーに集まります―第15回ランベス会議―

 いよいよ7月26日(火)から8月8日(月)にかけて、第15回「ランベス会議」が英国・カンタベリーで開催されます。ランベス会議出席のために、教区のみなさまには温かいご献金をお献げいただきましたことに、心より感謝申し上げます。本来は2018年に開かれるべきでしたが、アングリカン・コミュニオン(世界の聖公会)内にある難題等で2年延期され、新型コロナウイルス感染症パンデミックのためにさらに2年延び、実に14年ぶりのランベス会議となります。8月23日(火)の”Bishop’s Room”や9月18日(日)・19日(月)の教区研修会などでもご報告させていただきます。
 第1回ランベス会議は1867年9月24日から4日間、ロンドンのカンタベリー大主教公邸であった「ランベス・パレス」で開催されました。カナダ聖公会から、当時のカンタベリー大主教チャールズ・ロングリーに対して、世界に広がった聖公会が各地で直面する諸課題について協議するため、全世界の聖公会主教会議を招集するように要請されたことがきっかけでした。ロングリー大主教は、当時144名であった全主教に招待状を送りましたが、参加したのは約半数の76名のみでした。聖公会の重要案件は英国教会で法的に決定すべきであって、海外にいる伝道主教たちと協議する必要はないと反発したヨーク大主教はじめ多くの英国の主教たちが参加を拒否したのでした。以来、ランベス会議には法的拘束力はなく、道義的な指針を共有するものであるという性格自体は現在でも変わっていません。
 その後、原則的に10年に一度、開かれることになったランベス会議は、回を重ねる毎に重みを増し、今ではアングリカン・コミュニオンにおける最重要の器の一つとなっています。前回、2008年のランベス会議には全世界の900名近い主教に招待状が送られました。私は、通訳等の補助者として、1998年、2008年のランベス会議に参加させていただきましたので、今回で3回目となります。世界聖公会の委員会等で旧知の主教さま方と再会できるのを楽しみにしています。この夏のランベス会議が無事に行われ、豊かな果実が与えられますように、どうぞお祈りください。

【公開シンポジウム「現代に生きる芸術、文化、宗教—国際芸術祭「あいち2022」から—」】

立教大学・文学部キリスト教学科主催の公開シンポジウムのお知らせです。
参加費無料、定員1000人(先着順)となっておりますので、ご興味のある方は是非ご参加ください。

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主催:立教大学・文学部キリスト教学科
日時:2022年7月5日(火)18:30~20:45
開催方法:オンライン開催
対象者:本学学生・教職員・校友・一般
申し込み:事前申し込み必要
*以下のwebサイトよりお申し込みください
ウェビナー登録 – Zoom

参加費:無料
定員:1000名(定員になり次第、受付終了)

現在の世界はパンデミックからの回復を目指す一方で、世界情勢の悪化に直面し、人々の日常生活、社会のあり方に対して、新たな提言が求められている。こうした状況のなか、現代美術は多元主義的となり、その活動の場は美術館やギャラリー等の閉じられた空間を越えて、長期的かつ実効的にコミュニティに関わる芸術実践として、社会へ関与する試みが多方面で試行錯誤されている。
本シンポジウムでは、2022年7月30日~10月10日まで開催される国際芸術祭「あいち2022」をテーマとして現代美術の源流、多様な価値観について考え、地域の歴史、伝統文化、宗教的コミュニティなど過去から継承されたものを通じて、これからの未来をどう生きるかについて論ずる機会とする。

【登壇者】

森美術館館長
片岡真実(かたおか・まみ)さん
「STILL ALIVE  今、を生き抜くアートのちから」
ニッセイ基礎研究所都市開発部研究員、東京オペラシティアートギャラリー・チーフキュレーターを経て、2003年より森美術館。2020年より現職。2007~2009年はヘイワード・ギャラリー(ロンドン)にて、インターナショナル・キュレーターを兼務。第9回光州ビエンナーレ(2012年)共同芸術監督、第21回シドニー・ビエンナーレ(2018年)芸術監督、2022年7月30日開幕の国際芸術祭「あいち2022」芸術監督。2014年からCIMAM(国際美術館会議)理事、2020年より会長を務める。

愛知県美術館館長
拝戸雅彦(はいと・まさひこ)さん
「間借りする」
1991年名古屋大学文学研究科博士後期課程美学美術史専攻中退。1992年10月~2008年3月まで愛知県美術館学芸員として勤務し、2021年4月から同館館長。同館開催展「イタリア美術:1945−1995」(1997)、「戸谷成雄ー森の襞の行方」(2001)、「アジアの潜在力」(2005)、など多数企画。ルイジペッチ現代美術館(プラート市、イタリア)開催の日本現代美術展「先立未来(2001)、ソウル市立美術館開催「city_net_asia」(2006)のキュレーションにも関わる。愛知県がトリエンナーレの事業を立ち上げた2008年から9年間、当芸術祭推進室主任を務め、あいちトリエンナーレ2010、2013、2016チーフキュレーターとして従事。

現代美術作家
奈良美智(なら・よしとも)さん
「普遍的なるもの」
1987年愛知県立芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。1993年デュッセルドルフ国立芸術アカデミー修了(Meisterschüler)。2000年までドイツを拠点に活動後、帰国。1995年名古屋市芸術奨励賞受賞、2010年ニューヨーク国際センター賞
受賞、2013年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。主な個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET
ME.」(2001~2002、横浜美術館他、巡回)、「Nothing Ever
Happens」(2003~2005、クリーブランド現代美術館他、巡回)「君や 僕に ちょっと似て
いる」(2011~2012、横浜美術館、青森県立美術館他、巡回)「for better or
worse」(2017、豊田市美術館)、「Yoshitomo
Nara」(2021~2022、ロサンゼルス・カウンティ美術館)他、多数。ニューヨーク近代美術館、ロザンゼルス現代美術館をはじめ国内外の美術館にコレクション多数。

立教大学総長・日本聖公会中部教区主教
西原廉太(にしはら・れんた)さん
「キリスト教神学の視座からの応答」

立教大学文学部キリスト教学科教授
加藤磨珠枝(かとう・ますえ)さん
「シンポジウム趣旨説明」

〝一人の生徒のための卒業式〟

 私の娘が通ったあるキリスト教学校の高校卒業式のことです。娘の同級生に車いすで通学していたM君がいました。娘とは吹奏楽部の仲間でもあった彼は、高2の秋に、新たに白血病に冒されてしまったことが判明したのです。それ以来、M君は放射線治療や抗がん剤治療のため、学校にはほとんど来ることができなくなってしまいました。
 そして卒業式の日を迎えました。クラスや吹部のみんなも、M君と一緒の卒業式を望んでいたのですが、体育館で彼の姿を見ることはできませんでした。ところが卒業式が終わった直後、娘の教室に、同級生や吹部の仲間たちが急遽集められたのです。そこにはストレッチャーの上に乗ったM君が、ご両親、お姉さんと一緒にいました。校長先生や他の先生たちも集まって、「M君のための卒業式」が行なわれたのです。そこにいた、同級生たちも、先生たちも、お父さん、お母さんも皆、号泣しました。
 M君は、それから4ヶ月経った7月に天に召されました。翌年、私の一番下の息子が、姉と同じ中学に入学しました。息子がもらってきた、ある先生の自己紹介には、こんなことが書かれていました。
 「昨年の高校卒業式、特に3Bの教室での一人の生徒のための卒業式は、一生忘れられない思い出であり、教員になって本当に良かったと思っています」
 この学校が、「一人の生徒のために」という願いで満たされた学び舎であることに、感動を覚えました。一人ひとりの生徒や学生に、「あなたの存在こそが大切である」こと、そして、「あなたの存在が大切にされているように、あなたの隣人を大切にしなさい」という福音が伝えられれば、それで十分にミッション・スクールとしての使命は果たされているのだと思います。そしてまた、ここにこそ、私たち教会の〈宣教・牧会〉の本質があるのです。