聖ミカエル保育園には2階にあるホールの奥に園長室がある。保育園にいるときは、ホールで遊ぶ子どもたちの賑やかな声を聞きながら、この部屋で過ごすことが多い。朝、昼、夕方と子どもたちが自由に出入り出来るようにしてあり、子どもたちも多い時には10人近く部屋で過ごしている。話をしてくれる子、ニコニコしながら満足そうに大人用の椅子に座っている子、不思議そうな顔をしながら部屋の中を見回している子など、様々な姿を見ることが出来る。
ある夕方、延長の時間帯にいつものように子どもたちが園長室を襲撃しにきた。ここで、仕事はいったん休憩となる。今日は2歳児クラスの子どもたちに園長室が占拠されたぁと思いながら、ある女の児が園長室に置いてある十字架に目を留めているのに気が付いた。そして、その児が「十字架にいるのはだれ?」と聞いてきた。イエス様だよと答えると、続けて、「どうやって十字架にいるの?」を聞いてきた。おそらく、十字架にいるイエス様がどうやって十字架に架かっているのか知りたかったのだろう。十字架をその児の前に置いて、釘に打たれて十字架に架けられてしまっているイエス様の姿を見せた。「痛い、いたい」と言って釘で打たれた手と足を指さしていた。そして、暫く考えて、「どうやったら助けてあげられるんだろう、助けてあげたい」と、それも満面の笑顔で話してくれた。
これには、正直驚いてしまった。助けてあげたいという思いに至ったことがなかったからである。振り返ってみれば、イエス様に守られながら歩んでこられた自分がいる。自分がイエス様を助けるなんて、おこがましいこととはいえ、助けるという考えにおよばなかったのは何故だろうか。助けてもらえるのが当たり前だと思っていたのだろうか。苦しんでいるイエス様から目を逸らして歩んでいたのだろうか。それとも、苦しんでいるのがイエス様だとでも思っていたのだろうか。
この時期になると幼児虐待の母親の話を思い出す。父親が子どもに暴力を振るっている時、私は暴力を受けることはなかった。誰かの痛みの上に自分の安心が保証されている世の中になっている気もする。それは、学校や社会での苛めにも同様なことが言える。自分が助かるために苛めに加担する、また、見て見ぬふりをする。助けてと言える社会になっているのだろうか。そして、その言葉が届けられる世の中になっているだろうか。
私たちはイエス様の十字架を通して罪から解放されて歩むことが出来ている。イエス様の十字架での苦しみや痛みのうえに自分があることをこの釘跡に目を向けてイースターを迎えたい。一人でも多くの人がイエス様の釘跡に触れ、苦しみや痛みから解放されますように祈り歩み続けたい。
この女の児はこれを機に十字架上のイエス様に話しかけている。痛くはないの?助けてあげるからね、と。
司祭 フランシス 江夏一彰
(上田聖ミカエル及諸天使教会・軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)