共謀罪反対声明

日本聖公会中部教区宣教局社会宣教部より「組織犯罪処罰法改正案」(いわゆる「共謀罪」)の創設に反対し、廃案を強く求める声明が出されました。

共謀罪反対声明20170522_000001

新生病院80周年記念動画

日本聖公会中部教区関連団体・特定医療法人新生病院は

2012年に80周年を迎えました。

その記念誌をもとに作られた動画が届きましたので、どうぞご覧ください。

植松主教様を偲んでもう一言

 植松従爾主教様の逝去については先月号でお知らせいたしましたが、もう一言付け加えさせていただきます。主教様が退職された直後の『ともしび』に故・森一郎司祭様が、「主教様の大切な教えは、信徒一人ひとりの重要さということです。『一人の信徒は神さまから十二分に愛され、聖霊が与えられているので、何を考えてもよいし、何をするにも十分に力が与えられている』という主張をなさいました。私たちは十年間、同じ説教を聞かされてきたのです。次の十年間は信徒一人ひとりがこの主教様の教えを、自覚的に、自由に、創造的に生きて、実現したいものだと思います」と書いておられます。
わたしも主教様の「信徒は聖霊を与えられているので何でもできる」というお言葉を良く記憶しています。主教様の信仰の確かさを表しているお言葉であり、聖霊の働きへの確固とした信頼から来るお言葉です。そして、その信頼は―これも主教様の十年間の変わらない教えでしたが―「み言葉」と「祈り」から来るものでした。聖書を読み、お祈りをする。信仰者の基本中の基本を繰り返し教えられました。そして、「クリスチャンにとって最も大事なこの二つのことがもし欠けているとしたら…これはまさに致命的です」と言っておられます。主教様はそのことをご自身の生き方をもってわたしたちに教えてくださいました。
主教様が退職されて30年。この信仰の基本は永遠に変わるものではありません。むしろ、教会に少し元気がなくなってきている今だからこそ、その基本が本当に求められていると強く感じます。わたしたちが自覚的、創造的に信仰を実践するためには「み言葉」と「祈り」を決して欠かすことはできないのです。

旅 の 途 中

 5月に入って軽井沢はこれからが新緑の季節となります。
私が出向しています旧軽井沢ホテル音羽ノ森にも、観光や結婚式、ビジネスや競技参加など様々な人々が宿泊しています。宅配便の普及によって挙式衣装やゴルフバッグ、スキー板がフロントのバックヤードには所狭しと並びます。
旅行者の目的は違っても、ホテルスタッフは皆さんに心地よく宿泊していただくためにできる限りの心配りをしています。しかもそれがごく自然な振る舞いの中でなされることに、私もすごいなーと感心することがあります。
新郎新婦の中には客船や航空会社に勤める人たちも少なくありませんし、挙式後すぐに転勤で海外に行かなければならない方々もいます。家族に軽井沢旅行も楽しんでもらいたいと願うお二人もいます。
私も結婚式の説教の中で、これからの人生の歩みを旅にたとえてお話することがあります。
人生という旅を通して、これまでなかなか気がつかなかったことに目を留め、大切なことに心を向けるようにお話します。そして私も、自分自身が愛されてきたことの一つ一つを感謝しなければと思い返します。
コロサイの信徒への手紙には第3章12節に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と教えています。
私たち一人一人はあまりにも情けない者ですが、神様によって「お前ほど清め甲斐のある者はいないぞ!」と思われ、愛されているのです。私たちは主によって赦され、愛されている。だからこそ憐れみの心や慈愛、謙遜や柔和、寛容を身に着けなければならないのです。
コロサイの信徒への手紙の結びにパウロは、ティキコとオネシモをコロサイへ遣わします。パウロ自身は行きたくても行けない、囚われの身です。自分も「川の難、盗賊の難、同胞からの難……寒さに凍え、裸でいたことも」(二コリ11・26~27)経験した旅でした。きっと彼らを派遣することのつらさを身にしみて感じていたことでしょう。しかしその弱さを誇ることができるほど、その弱さの中にイエス・キリストの力が発揮されるのです。
聖書を開いてみれば、不思議と旅をする人々の話があふれています。アダムとイブから始まってノアやエジプトを脱出するユダヤ人、預言者やダビデまでもがサウル王から逃げて旅をしています。追い出されたり、逃げ出したりという気のすすまない旅もあります。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがありましたが、誰でも一度は逃げ出したくなる経験があると思います。
人生を主イエスとともに旅をするということは、このように逃げ出して枕する所がないような旅なのかもしれません。しかしそれは、神様とともにある永遠の命への旅でもあるのです。
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン、軽井沢ショー記念礼拝堂協働司祭)

特 権 意 識

 早いもので軽井沢に派遣されて15年目を迎えました。
ご承知のように軽井沢の教会は避暑地軽井沢発祥の地にも定められ、かつては夏期に集中した来訪者も、現在では年間を通して絶えることがない状態になっています。特にここ数年で急激に増加したのが、観光地では「インバウンド」と呼ばれる訪日外国人旅行者の人々で、季節差はありますが来訪者の半数以上が主にアジア地域からの旅行者と言っても過言ではありません。そこで生じるのが、生活習慣や文化の違いに起因する様々なトラブルで、礼拝堂で飲食をしたり、大声で騒ぐなど…頭を悩まされることも多々あるのが実情です。当初は、郷に入れば郷に従えとばかりに厳しく注意したものですが、最近では看板を整備するなど、どうしたら理解してもらえるかに重点を置きながら対処できるようになりました。
しかし、これまでの経験から誤解を恐れずに言えば、最も厄介な来訪者は残念ながらクリスチャンの人々と言えます。勿論一部のクリスチャンではあるのですが、進入禁止の看板を見ても堂々と進入し駐車します。結婚式中であっても、無理やり礼拝堂に入ろうとします。私や信徒の方が「申し訳ありませんが、ご遠慮ください」と伝えると、決まって「私クリスチャンなんですけど…」、「教会の結婚式は誰でも参列できるはずですが…」といった言葉が返ってきます。事前の問い合わせも無く、こちらの事情を尋ねることもせず、自分本位の正当性を主張する姿には唖然とさせられます。こんなこともありました。礼拝堂で数人の旅行者が黙想しているところに10人位の団体が入ってきて、突然大声でゴスペルを歌い始めたのです。声を掛けると、「主を賛美させていただいています」と、悪気もなくにこやかに答える態度にはさすがに閉口してしまいました。礼拝堂入口には「静かにご入堂ください」とはっきり書いてあるのですが。
なぜクリスチャンであることに妙な特権意識を抱くのかと嫌悪感さえ覚えるのですが、同時にその様な姿勢は自分自身の内にもあるのではないかと不安な気持ちにもさせられます。なぜなら、特別な権利があると思い込むと、人は冷静に状況判断ができなくなり、目の前の困惑している人、傷付いている人が見えなくなってしまうと強く感じるからです。聖書を読んでいると、特権意識から発するファリサイ派の人々や弟子たちの言動に対して、厳しく戒められる主イエスにしばしば出会います。主イエスのご生涯は、家畜小屋での誕生から十字架の死に至るまで、特権意識とは正反対の生き方でした。パウロはこのように語ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2・6~8)
今年も間もなくイースターを迎えます。世界では、特権意識を背景にした声がますます大きくなっていますが、私たちは惑わされることなく主イエスの御声に聴き従い、共に励まし合いながら喜びの日を迎えたいものです。
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

”神に信頼をおく”

大斎節も残り少なくなりました。主イエス様の十字架、そして、ご復活を深く黙想しつつ残りの大斎節を過ごしてまいりましょう。
わたしたちの信仰生活はいつも平穏無事というわけには残念ながら行きません。些細なことでも信仰生活を脅かす困難さは必ずあるものです。そんな時、神様は必ず良い道を備えてくださると信じていても、時には神様に弱音を吐いたり、不安になったり、愚痴を言ったり、疑ったりしてしまうのです。それがわたしたちの信仰生活の現実です。
「コリントの信徒への手紙二」の中でパウロは、福音宣教のために被った苦難があまりにも激しかったので、「生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いだった」と記し、「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1・9)と書いています。
パウロがそれまで神様を頼りにしていなかったわけではないでしょうが、彼のような信仰の持ち主でも想像を超えた様々な苦難に遭遇したときには死の不安に駆られてしまうのです。しかし、彼は続けて言います。「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、…これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
パウロは自分たちがいかに大きな危険に晒されてきたか、しかしそんな時でも神様はいつも救ってくださったではないか、これからも救ってくださらないはずがない、と神様への信頼を確認し、福音宣教への思いを強くしているのです。
信仰が揺らぎそうになった時こそ神様に信頼をおいて信仰生活を送ってまいりましょう。神様はどんな時でもわたしたちに最も良い道を備えてくださるのです。
ご復活の祝福をお祈りいたします。

朝・夕の礼拝とマルコ福音書

松本聖十字教会では、聖十字幼稚園の朝礼が7時半にあることから、朝の礼拝を7時よりしておりますが、2017年の教会暦になってからお一人の信徒と一緒に二人でお祈りすることができ、神様のご配慮に感謝しています。また、平日の祝日でも7時から聖餐式ができますことをうれしく思っています。祈祷書には、「毎日聖書を朗読し、詩編を歌って神をほめたたえ、祈りを献げて日々の生活を神と人とのために清めることは、初代教会からの営みであった。わたしたちも『朝の礼拝』『夕の礼拝』によってこの営みに加わるのである」とあり、朝の礼拝の前にこのルブリックを毎回読んで、思いを新たにして「朝の礼拝」に臨んでいます。また、できるだけ聖書を分かち合えればと思い聖書箇所のお話もしています。
2017年教会暦・聖書日課・詩編は第1年であり、1月に入りマルコ福音書を毎日継続して読んでいきます。わたしにとってマルコ福音書は聖公会神学院時代に挽地茂男先生からたくさんのことを教えていただいた聖書でありますので、日々の祈りの中でいろいろなことを思い巡らします。マルコ福音書は、復活の出来事について知った婦人たちが「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」というように唐突に終わりますので、とても不自然で、マルコの復活のイエス様の部分は失われてしまったともいわれています。しかし、この唐突な終わりはマルコの意図かもしれないのです。空の墓を知らせる若者によって「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」とあるように復活したイエス様はガリラヤにおられることが示され、マルコ福音書の初めのところでは「イエスはガリラヤへ行き、福音を宣べ伝え」たとあることから、イエス様の受難物語(14章から16章)の前までの1章から13章は、復活したイエス様についても描かれているのではないかと思っています。これは、推理小説で、誰が犯人かわからないで、読み進み、犯人がわかってもう一度読み直すと、確かに犯人の行動として辻褄があっているのと同じように、生前のイエス様の姿が描かれているように書かれている1章から13章は、実は、復活したイエス様の姿でもあり、ドイツの神学者ウィリアム・ヴレーデのいう「メシアの秘密」は、生前のイエス様と復活したイエス様を切り結ぶ働きをしているのではないかと思っています。
マルコ福音書を14章から読み始めて16章まで進み、続けてイエス復活物語として1章から13章までを読み進めるという読み方をお試しいただければ、新約聖書学者の田川建三がいうようにマルコ福音書13章最後の「目を覚ましていなさい」という言葉は、マルコ福音書の結語として初代教会からの営みに加わるわたしたちに対してもふさわしい言葉であると思います。
(松本聖十字教会牧師、飯田聖アンデレ教会管理牧師)

大斎節を迎えて

今年も大斎節を迎えました。かつてはよく「大斎を失う者は一年を失う」と言われましたが、最近はあまりそういうことを聞かなくなりました。わたしも年のせいですか大斎節の緊張感が少し薄れてきているようで反省しているところです。わたしたちの信仰の根幹である主イエスの受難と復活を深く想いつつ大斎節を過ごしてまいりましょう。
大斎始日の礼拝式文には「一人びとりの内なる生活を顧みて悔い改め、祈りと断食に励み、自己本位な生き方から解かれて愛の業を行い、また神の聖なるみ言葉を熟読し、黙想することによって、この大斎節を忠実に守ることができますように」とあります。
「悔い改め」「祈りと断食」「自己本位な生き方からの解放」「愛の業」「み言葉の熟読と黙想」。これらを見ますと「大斎を失う者は一年を失う」ということの意味が良く分かります。これらに努めるということは何も大斎節に限ったことではなく、一年を通しての信仰者の在り方だからです。大斎節にそのような基本をしっかりと作っておくことにより一年の信仰生活をつつがなく送ることができるのです。
大斎節を迎え、わたしたちは自らを省み、神様の御心に適う生活を送るようにしてまいりましょう。詩編には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」(51:19)とあります。そのような心を大斎節に養いたいものです。
この3月末をもって箭野眞理司祭と松本正俊司祭が定年を迎えます。今までのお働きに感謝いたします。お二人は引き続き嘱託として勤務してくださいます。大変感謝です。4月からは相原太郎聖職候補生が聖公会神学院に入学します。主の導きのもと良き学びの時が与えられますようお祈りください。

今教区会期の課題

昨年の教区会において今教区会期の教区の課題についていくつかの提案が出されました。その後の常置委員会でもそれらを確認し、検討・実行して行くことを決めています。それは、①教区諸規定の見直し、②教区各センター事業(可児ミッションを含む)に対する教区の主体的な関わり、③教区の中・長期ビジョンの具体的な策定(2022年の宣教協議会も踏まえて)、④教区百年史の完成に向けての道筋を整える、です。

さらに付け加えますと、前教区会期から継続中の宣教資金拠出金を含めた財政問題も含まれてきます。これらの課題が今教区会期の最重要課題であると考えます。当然のことですが、これらの課題は常置委員会や運営会議だけの事柄ではなく教区全体の課題です。一人一人がこれらの課題を常に意識していただき、それぞれの場で建設的な意見を遠慮なく出していただきたいと思います。教区研修会でも大いに議論していただきたいと願います。

各常置委員もそれぞれの課題に主体的に関わることを申し合わせています。これらの課題について明確な方針を導き出し、今年の教区会に具体的な議案として提出されることを期待しています。思い切った変化があってもそれを受け止め、実行してまいりましょう。

最後に嬉しいお知らせがあります。昨年12月9日、中部教区第6代主教である植松従爾主教様が100歳を迎えられました。1976年教区主教に就任され、1986年末に定年退職を迎えられるまで“み言葉と祈り”によって教区を導かれました。わたしも主教様と同じ時に中部で働き始め、執事、司祭と按手をしていただきました。その主教様がご健在ということは個人的にも嬉しいことです。主教様ご夫妻に祝福とお守りをお祈りいたします。