〝北海道教区と中部教区〟

去る5月16日(木)から18日(土)、北海道教区の教役者会と教区成立145周年記念の教区礼拝に参加させていただきました。教役者会では講話を、教区礼拝では説教をさせていただきましたが、北海道教区の空気を肌で感じることもでき、また、中部教区のことも少し報告させていただきました。他教区のことはなかなか分からないことが多いのですが、小さくてもこのような交流を通してお互いをより良く理解することができるのではないかと感じました。

実は、北海道教区と中部教区とはお互いに初期の宣教段階では関わりがあります。中部教区の宣教は1875年(明治8)、英国聖公会宣教師のP.K.ファイソン司祭によって新潟で始められましたが、ファイソン司祭は後に北海道教区初代の主教になっておられます。ですから、ファイソン司祭(主教)の働きを通して中部教区と北海道教区とはつながっているとも言えるのです。

ファイソン司祭は新潟で7年間宣教されましたが、その間、10名ほどの受洗者があったと「教区のあゆみ」には記されています。その内のお一人が後に中部でも働かれた牧岡鐵彌司祭で、もうお一人が芥川清五郎師です。芥川師は後に北海道教区で伝道師になり、バチェラー司祭のもとでアイヌ伝道にも従事された方です。そんなつながりも北海道教区と中部教区にはあるのです。(芥川先生のお孫さんたちにもお会いできました。)貴重な経験に感謝でした。

7月10日(水)には教区逝去教役者記念聖餐式が行われますが、当日は丁度、森紀旦主教様の逝去1周年に当たっています。敦子夫人と主教様の妹さん、弟さんも出席される予定になっています。主教様の葬儀は東京で行われましたので、当日は教区としての逝去記念式の意味も含まれます。皆様のご出席をお願いいたします。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝塗油のすすめ〟

去る4月18日・聖木曜日、聖油聖別の聖餐式が行われました。聖油は祈祷書の「病人訪問の式」の「塗油」で使用されます。祈祷書には、「教会はその初めから病人に塗油し、その体と魂の回復を祈ってきた」とありますが、新約聖書のヤコブの手紙の「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」から来ています。また、福音書にも使徒たちが油を塗って病人を癒したこと書かれていますので、塗油はイエス様の大事な業の一つなのです。

塗油は病気の人の体と心の癒しを目的としていますが、多くの場合、病気がかなり重篤になってから用いられることが多いようです。塗油は決して終わりに用いるものではなく—もちろん、その場合にも使われますが—体と魂(心)の回復を祈るものですから、どんな病気に用いてもいいのです。風邪をひいて熱がある、というような時でもいいのではないでしょうか。塗油は決して魔術ではありません。主イエス様の名によって祈ることが大事なのです。その祈りと共にイエス様がいてくださり、病気の人が身体的にも精神的にも元気になるように—起き上がることができるように—力を与えてくださるのです。聖油が大いに用いられますように。

4月6日、退職されて大阪にお住まいであった村岡明司祭が91歳で逝去されました。村岡司祭は1986年、大阪教区から中部教区に移籍され、主に上田、軽井沢で宣教・牧会に従事されました。今日の軽井沢ショー記念礼拝堂の基礎も築かれました。村岡司祭の魂の平安をお祈りいたします。

切り株のように

数年前に太い枝の落下が相次ぎ、事故防止のため2本のモミの大木を伐採した。少々淋しくもあったが陽光がよく射し込むようになり、冬期に礼拝堂前の地面が凍り付くこともなくなった。司祭館の執務室から目線を上げると、その一つの切り株がいつも正面に見える。しばらくして、その切り株で興味深い現象が日々繰り返されていることに気がついた。年輪を数えたり、腰を下ろして休んでいる光景を目にすることが多いのだが、若い世代や子どもたちは切り株を舞台にしてポーズを取りながらスマホ撮影を楽しんでいる。春や秋には長時間座って読書をしたり、絵を描くといった姿もしばしば見かける。しかし何より興味深いのは、目の前に建つ礼拝堂に足を踏み入れる人は来訪者の半数にも満たないのに、切り株には洋の東西を問わず、また年齢、セクシュアリティ等を超えて、あらゆる人々が引き寄せられているということだ。切り株には何か人間の本能をくすぐる不思議な力が備わっているのではないか…とさえ感じる。

切り株で思い起こすのは、子どもの頃日曜学校で観た「それで木はうれしかった」というスライドである。その原作はシェル・シルヴァスタインの絵本『The Giving Tree』であることを後で知ったが、10年ほど前に村上春樹氏が翻訳したことで少し話題にもなった。その内容は、一本のりんごの木と一人の少年との関係が、少年の子ども時代から老年に至るまでの生涯にわたって描かれている。木は少年が成長していく節々で、求めに応じて自らの果実を、枝を、そして幹をすべて与え続け、最後には年老いた少年にゆっくり座って休むための切り株を提供して話は終わる。木が自らを与え続ける度に繰り返されるフレーズが「それで木はうれしかった(And the tree was happy)」である。この絵本は様々な観点から読まれる必要があるとは思うが、かつて日曜学校で初めてこのスライドを観た時、子ども心に強烈な印象を受けたことを覚えている。純粋に神さまとはこのりんごの木のような存在なのだと理解した。特に、人生のたそがれを迎えた老人が木に促されて切り株に腰掛ける最後の場面は、その余韻とともに脳裏に深く焼き付いている。そして、その時に感じた神さまのイメージは、私の中で今なお根本的には変わっていないように思う。

主イエスのおられる所には、いつも大勢の人々が集まって来たことを各福音書は伝えている。その人々を主イエスは愛をもって受け容れ、一人ひとりが神さまの豊かな祝福のうちに生かされていることを教え、そして言われた。

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)その主イエスの人々に対する溢れる愛は、最終的にはご自身を献げるという形で、十字架の道へと繋がっていった。孤独と苦しみの極限状態の中でも、主イエスの人々に対する愛は変わることはなく、それどころか何度も主を裏切り、自己本位に生きようとする弱い人々(=私たち)のために祈ってくださった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

過去最長の10連休となったゴールデンウィークが終わった。この連休中も切り株の周りでは観光客が賑わい、多くの人々の人生の一コマが刻まれていった。やがて殆どの人の記憶からは忘れ去られていくのかも知れない。しかし、その一人ひとりの尊い人生の一コマを、いつもどっしりと、静かに無条件に受けとめている切り株の姿に、主イエスが重なって見えた。そんな切り株のような存在に、少しでも近づけたらと思う。
(引用の聖句は、聖書協会共同訳を用いました。)

司祭 テモテ 土井宏純
(軽井沢ショー記念礼拝堂牧師)

お知らせ/Notice

+主のご復活をお喜び申し上げます。
大型連休中の問い合わせ窓口についてお知らせいたします。

・中部教区センター
4月27日(土)~5月6日(月) 予約・会議を除き休館。
留守電、メールでお問い合わせいただいた件は、5月7日(火)以降に対応いたしますので、ご了承ください。

・中部教区各教会への連絡
電 話・・・各教会へ直接お問い合わせください。
※可児聖三一教会の電話は中部教区センターへとつながりますので、5月7日(火)以降にお願いいたします。

メール・・・ホームページ経由のお問い合わせについては、一旦教区センターへ送られます。転送が遅くなる場合がありますので、お急ぎの方は、各教会へ直接お電話をお願いいたします。

主に在りて
中部教区センター


Notice

Happy Easter

Chubu Diocesan Center
Please note that we will be closed during Golden Week from Saturday, April 27 to Monday, May 6. Inquiries by phone or email during the above dates will be replied after Tuesday, May 7.

Churches of the Diocese of Chubu
Please contact each church directly for inquiries.
※ The telephone number to Kani Holy Trinity Church on our website is directed to Chubu Diocesan Center, therefore, phone messages will be replied after May 7.
※ Email · · · Any inquiries through our website is directed to Chubu Diocesan Center. There may be delays in email forwarding. Please call each church directly when replies are needed immediately.

in Christ
Chubu Diocesan Center

〝いる〟ということ

 2月の終わりに、神学校で2年先輩だった他教区のある司祭が逝去されました。都合がつき、通夜の祈りに参列することができました。その司祭とは神学校で1年間だけ一緒で、あとは教区が違いましたので、なかなか顔を合わせる機会はありませんでした。特別親しいという関係ではありませんでしたが、それでも時たま顔を合わせるとごく自然に安否を問うことが出来る、そんな近さを感じさせる方でした。1年間だけの神学校生活でしたが、同じ空間で生活を共にしたという経験がそのような近さを感じさせてくれたのでしょう。

 先日、管理教会に礼拝に行った折、ある高齢の方から、自分は最近耳が悪くなり、説教も聞こえにくいので礼拝に出ていいものかどうか迷っている、どう思うかと尋ねられました。わたしは、耳が聞こえず説教も聞きづらいということは不自由さを感じるだろうが、礼拝に出ているということは、神様やイエス様と一緒にいるということだから、是非出席し続けてくださいとお願いしました(ちなみに、その方は補聴器のことも考えておられます)。

 イエス様は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束され、旧約聖書においても神様は、「わたしは『ある』 (新しい聖書協会共同訳では『いる』)という者だ」(出エジプト3章14節)と言っておられます。父なる神様もイエス様も、そして、もちろん聖霊なる神様も間違いなく「おられ」、しかも、わたしたちと共におられるのです。

 教会は、そしてそこで行われる礼拝は神様がおられる空間であり、そこにわたしたちが〝いる〟ということが、神様やイエス様に出会うことができ、聖霊の力をいただくことができる一番の近道なのです。

クォ・ヴァディス・ドミネ

ポーランドの作家シェンキェヴィチの有名な作品『クォ・ヴァディス』の一場面、ネロによる迫害と官憲による逮捕を逃れて、使徒ペテロとひとりの少年が夜明け前のアッピア街道を南へ急いでいた場面が強烈で、決して忘れることなど有り得ないほどに焼き付いているのです。

朝もやの中から不思議な光の球が近づいて、その中に人の姿が見えてきた。それはまぎれもなくキリスト・イエスであった。老いたペテロは跪き、手を差し伸べ、むせびながら訊ねた。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、何処へおいでになるのですか)すると、悲しげな、しかし、爽やかな声で「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」という言葉がペテロの耳に響いた。ペテロと一緒に歩いていた少年には何も見えず、何も聞こえなかった。失神したように倒れていたペテロは立ち上がり、震える手で杖をあげ、今逃げてきた都へと向きを変えた。少年はそれを見ながらペテロに訊ねる。「クォ・ヴァディス・ドミネ」ペテロは小さな声で「ローマへ」と答える。ローマに戻ったペテロはパウロと同じく殉教の死を遂げる。自ら、逆さ磔の刑を願って。
(この物語は2世紀末頃に生まれた伝説を元に書かれたと言われている)

私は、この場面を思い起こす度に、胸が熱く打ち震えるような感動を覚え、しばし落ち着くと、何かしら、叱られているようで、また一方で励まされてもいるようにも感じるのです。

「真理とは何か」

今年も間もなく受難週を迎えますが、ユダヤ総督ピラトが官邸でイエスに一連の尋問の後、最後に放った問いであります。しかしピラトは真剣に問うたのではなく、応酬の勢いで口にしたようでもあり、むしろ、甘っちょろい真理などあろうはずがない、という心情なのではないかと想像しています。彼が今の地位に就くまで、いや就いて尚更、生き馬の目を抜くような権謀術数が飛び交い、虚偽欺瞞こそ常識であるような、当たり前の真理とされる世界に生きていたのではないかと思うのです。その後ピラトはこの問いについて当然の如く関心は失せてしまいます。

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章16節)

イエスに出会うということは、今までの自分の生き方、価値観を激しく揺さぶられる経験です。自分を自分とならしめていた色々なものが崩されてしまうような危ない経験です。しかしながら、何か新しい可能性が自分にも与えられ、生まれてくるような、自分でも何かイエス様の手伝いが、ご用ができるような思いや願いが自分の内に湧いてくることを感じられるような、そんな驚きもあるのではないでしょうか。

イエス様との出会いは自分にとって苦い経験を伴うものであっても、新しい人間として生きる希望と可能性を与えられる出会いでもあるのだと思うのです。

真理とは何か…

私たちは知っています。

真理とは誰か…

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師)

執事職と「太公望」

先月16日、大和玲子、大和孝明両聖職候補生の執事按手式が行われました。執事職は使徒言行録によれば食物の分配問題から派生した職務です。ギリシア語を話すユダヤ人クリスチャンからヘブライ語を話すユダヤ人クリスチャンに、自分たちの仲間の寡婦に対する食料の分配が少ないと苦情が出たのです。その問題に対処するために立てられたのが執事職です。食料の分配をいかに公平にするのか…それが執事の当座の務めでした。極めて現実的な務めです。

それで思い出すのが上田市の、あるタウン紙に掲載された「太公望」の話でした。中国の故事によりますと、当時の中国・周の国王が一人の年老いた釣人と話をしているとその老人が非常に博学であり、その人物こそ父王(太公)が望んでいた人物だろうというので「太公望」と呼んで、師と仰いだというものです。そこから釣をする人を「太公望」とも言います。

しかし、太公望の故事には別の説もあるというのです。それは太公望が肉屋であったという説です。10人くらいの人たちを相手に上手に肉を切り分けたのを見て、太公が気に入り、召し抱えたというものです。当時、分配をちゃんとやれる料理人はそれだけ尊敬されたということです。

執事職の起源が食料の分配をいかに公平にするのかであったことを考えますと、太公望の料理人説とも重なり興味深い思いがします。食料に関わらず、何事においても、殊に人と人との間の公平さを保つということはなかなか難しいことですが、新執事のお二人も最初の執事たちのように〝霊と知恵〟に満たされ、その大切な務めを十分に果たしてくださることを願っています。

九十年変わらぬ聖堂とその意味

岡谷聖バルナバ教会は、昨年11月16日、国の「登録有形文化財」に登録された。「英国教会の伝統を受け継ぐ構造を有している一方で、かつて岡谷の蚕糸業を支えた「女工」の願いで設けた畳敷きの礼拝堂など、地域の歴史文化を伝える建築物」(文化庁文化審議会答申)としての評価を受け、すべての新聞、テレビ等でも報じられた。

90年前の1928年11月20日、岡谷聖バルナバ教会の聖堂は聖別された。当時、諏訪湖周辺を伝道していたカナダ聖公会の宣教師、ホリス・コーリー司祭は、諏訪地方のどこに教会を建てるのかという選択に迫られた。カナダ聖公会宣教協会は、より賑やかな温泉地で有名な上諏訪に教会を建てよと指示していたが、コーリー司祭は、諏訪の一帯で、最も重荷を背負わされている人々のために聖堂を建てたいと考えた。それは、岡谷の製糸工場で働く「女工」さんたちのためであった。それに対し宣教協会は、彼女たちは季節労働者で定着しないし、経済的な支えにはならず、教会を維持できるわけがないと反対した。しかしコーリー司祭は、「お金のことは神さまが何とかしてくださる」と応えた。

工場では一日16時間労働で、立ちっぱなしか、硬い木の椅子に座り続ける彼女たちが、教会に来たときには自分の実家に戻ったような思いになってもらいたいと、聖堂を畳敷きにした。当時からの信徒であった深澤小よ志さんは、かつてこう語ってくれた。「教会に駆けつけると、階段の下で青い目の司祭さんが待ちかまえていて、よく来たねと言って、私を抱きしめてくれた。お説教の意味はほとんどわからなかったけれども、司祭さんが抱きしめてくれた温かさに、私は涙が溢れた。教会は確かに天国だった。」

今年の2月2日、岡谷聖バルナバ教会の聖堂で、中国から働きに来ている王旭さんの洗礼堅信式が行われた。王さんは中国、山東省青洲市の出身で、岡谷市にあるピストンリングを製作する工場で、2016年から勤務されている。この工場には現在、60人ほどの中国からの女性たちが働いているという。ふと通りがかりに見つけたこの教会に、熱心に通い続けてくれた。彼女は3月で中国に帰国することが決まり、ご本人の願いもあって、洗礼式を行うことになった。中国には現在、聖公会の教会がないので、堅信式ができないのが気がかりであったが、急遽、渋澤一郎主教が岡谷に来てくださり、洗礼堅信式が実現した。日本語は十分にはお出来にならないため、市原信太郎司祭が作ってくださった日中対訳の洗礼堅信式文を用いた。私の問いに、王さんが中国語で応答する。洗礼名は、「馬利亜」。言い知れない感動に聖堂が包まれた。

取材に来ていた中日新聞の記者が、「あなたにとってこの教会はどのような場所であったのか」と尋ねた。彼女はこう答えた。「この教会は最高の場でした。親切で温かくて、いつも癒されました。」

岡谷はもう製糸女工の町ではない。しかし今は、中国などから来られた多くの外国人女性労働者たちが住んでおられる。歴史的文化財として認められた喜びと同時に、この聖堂が、決して過去の歴史遺産などではなく、90年前と通底するミッションのために、今も生き続けていることに感謝したいのである。

司祭 アシジのフランシス 西原廉太
(岡谷聖バルナバ教会管理牧師)