教区間協働!?再編!?(6)“なぜ11教区なのですか?”(三)

 2000年代に入ってからの教区制改革の動向については、中部教区が先導的役割を担ってきたことなど、既に本欄で触れましたので割愛しますが、各教区間で様々な協働、交流が実践されてきました。その中でも特に、大阪教区と京都教区の合併を見据えた協働関係の深化は、今後の日本聖公会全体の教区再編へ向けての試金石的な取り組みとして注目されることになりました。
 大阪・京都両教区では2006年から合同の教役者会や常置委員会等が継続して開催され、2011年の両教区会で「大阪教区と京都教区の協働及び合併に関する検討委員会」の設置を決議しました。そして同委員会の「合併は必要かつ可能であり、合併を実行に移すべきである」との最終報告を受け、2013年の両教区会では「大阪教区と京都教区の合併を推進する委員会」の設置を決議、その後議論の末2017年に「特別協働教区」関係協定書が交わされ、「大阪・京都特別協働教区運営委員会」を中心に、合併を視野に入れたより具体的で実際的な協働プログラムが実施されてきました。そのような経緯を経て、昨年(2021年)の両教区会において2024年4月の合併を承認する議案が提出されました。
 しかしながら、採決の結果、京都教区は可決しましたが、大阪教区は可決必要数に達せず否決となり、2024年の合併は見送られることになりました。この結果は日本聖公会全体にも大きな衝撃を与えましたが、組織成立当初からの課題である教区再編実現の困難さを改めて浮き彫りにしたと言えるでしょう。しばらくは教区合併等による再編の動きは停滞するかも知れませんが、信徒数・聖職者数等から考えても、世界の聖公会(諸管区)と比べて極めて教区数が多い日本聖公会の実情を真摯に受け止め、日本聖公会全体の宣教の活性化のために、教区再編の議論と取り組みを継続していくことが大切であると思います。

新潟聖パウロ教会 平日の集い

 新潟は雪と強風、曇りの日々が続いていますが、時々見える青い空は美しく、早く春が来るといいなと思います。新潟は新緑が美しく過ごしやすいからですが、その時期の爽やかな気持ちを覚えているから、この冬の大変な時期も我慢できる?と思うくらいです。
 2年前のイースターは新型コロナウイルスの影響により集まることができず、去年は祝会ができなくても共に集まり礼拝ができるだけでも、とても嬉しかったことを覚えています。今年のイースターはいかがでしょうか。
 最近、大きい変化の一つは今までの蓄える生活から減らす生活に変えたことです。施設や病院へ行けなくなり信徒訪問も自粛、オンラインの会議が多い中、家で過ごすことが多くなりました。今まで買い集めた本は本棚いっぱいでいつも整理ができず、溢れていました。読まない本を捨て、読んでいる本は手の届くところに、読みたい本は目立つところに整理しながら、食器も衣服も片づけています。自然に本を読み、勉強する時間も増えています。そして、手料理と運動でシンプルな生活を心がけています。食事会や飲み会、愛餐会やお茶会もなく、孤立感がある中、最近私の心の支えになっているグループをご紹介します。
 新潟聖パウロ教会は幸い毎週礼拝が続いており、最近は毎月第4水曜日に平日の集いが行われています。カトリックより転入した信徒の聖公会への受け入れ式(2021年2月)の為、準備会を行ったのですが、以前より洗礼堅信の準備会は教父母になる方々と一緒に集まり聖書を読み、祈り、交わることを大切にしてきたことから、去年は大斎節中に毎週集まりました。その後は月1回集まっていて今も続いています。
 まず、お祈りして聖書を読み、近況報告をします。マルコによる福音書を読み、今はヨハネによる福音書を読んでいます。聖書の背景を説明したり、「私はこの物語の中のどこにいるのか」と黙想したり、今ここでどのように読めて私とどんな関係があるのかを考えてみたり、普段礼拝を通して結ばれている私たちはそれぞれの経験を分かち合い、豊かな時となっています。
 お互いを覚えてお祈りをする時も、具体的なお祈りができ、その方々が覚えてお祈りすることも共有して一緒にお祈りし、私たちがひとりでないこと、いつも主イエス・キリストが私たちと共にいるように、お祈りの信仰の友がいつも近くにいることを実感できる「主が与えてくださる平安」をも味わっています。
 参加する多くの信徒さんたちは、私より人生の先輩で、
全員女性です。一人暮らし、家族の介護の後、死によるお別れを経験している方、年齢と共に少しずつ弱くなっている中で、聖書を読み、「私はだれか」、「どのように生きるか」、「どのように死ぬか」。今、ここで、何が大切なのかを分かち合いながら過ごしているのです。
 最近は新型コロナウイルスによりオンラインの集まりが増えているのですが、他の教会の方々はどのように聖書を読み、お祈りし、交わることができているのでしょうか。
 ご希望の方々はオンライン環境があれば、一緒に聖書を読み、お祈りができるのでいかがでしょうか。聖書を読み、お祈りしたい、一緒に安心して交わりたい方々をお待ちしています。

司祭 フィデス 金善姫
(新潟聖パウロ教会牧師・直江津聖上智教会管理牧師)

〝この地上における〈正義・平和・いのち〉の実現のために〟

 ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻と、いのちの蹂躙に心を痛めます。世界のキリスト者たちと共に、一日も早く平和が回復されることを祈り求めます。
 今回の事態の背景には、14世紀以来のロシアとウクライナにおける正教会間の歴史的緊張関係があります。1991年にウクライナは国家として独立しましたが、従来の「ウクライナ正教会|モスクワ総主教庁」はロシア正教会の枝教会であり、モスクワ総主教の精神的な権威の下にあり続けていました。それは、多くのウクライナ人にとっては受け入れがたいものでした。そうした中、モスクワから独立したウクライナの真の国民教会の創立が試みられ、2019年1月、全世界の東方正教会の精神的首位者であるコンスタンティノープル総主教バルトロマイ1世は、ついに新しい教会である「ウクライナ正教会」を正式に承認しました。
 この2つの正教会をめぐる対立は、ロシア人とウクライナ人の関係についての2つの異なる歴史的視点を反映しています。ロシア正教会にとって、ロシア人とウクライナ人はあくまでも1つの民族であり、単一の教会が彼らを統合しなければなりませんでした。プーチン大統領は、最近の論考の中でまさにこの主張を展開し、「ウクライナ正教会」をロシア人とウクライナ人の「精神的統一に対する攻撃」と激しく批判しました。
 一方で、「ウクライナ正教会」の初代首座主教であるメトロポリタン・エピファニーは、「ロシア帝国の伝統」を断固として拒絶し、独自の文化を持つ独立した民として、ウクライナ人は独立した教会を必要としていると明言します。
 同じイエス・キリストを主と告白する者たちの対立が、国家の軍事的暴力の一つの根拠とされることは大変悲しいことです。であるからこそ、この地上における〈正義・平和・いのち〉の実現を願い求める「エキュメニカル運動」は、きわめて重要な私たちのミッションなのです。

ウクライナのための祈り

カンタベリー大主教とヨーク大主教の連名で作成された祈りの日本語版をお届けいたします。(日本聖公会管区HPにも掲載があります。)

大斎始日や主日礼拝の中でも覚えてお祈りください。

ウクライナのための祈りについて
2 月 27 日(日)にカンタベリー大主教とヨーク大主教から、ウクライナとロシアのために、そして平和のために祈るようにキリスト者に呼びかけられました。また 3 月 2 日の「灰の水曜日」には、フランシスコ教皇が「世界平和祈願・断食の日」を守るように呼びかけています。Thy Kingdome Come のホームページや英国聖公会のホームページでも、世界の平和のための祈りへの参加が呼びかけられています。
また、WCC や NCC でも声明が発信され、祈りの呼びかけがなされています。 以下に、カンタベリー大主教とヨーク大主教の連名で作成された祈りの日本語訳をお届けいたしますので、大斎始日の礼拝や主日の礼拝の中で用いてくだされば幸いです。

正義と平和委員⻑ 主教 上原榮正
管区事務所宣教主事 司祭 卓 志雄

ウクライナのための祈り
正義と平和の神よ、

わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。
明日を恐れるすべての人々に、 あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。
平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、 み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、 あなたが抱き守ってくださいますように。
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

ジャスティン・ウェルビー大主教
スティーブン・コットレル大主教
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A Prayer for Ukraine
God of peace and justice,
we pray for the people of Ukraine today.
We pray for peace and the laying down of weapons.
We pray for all those who fear for tomorrow,
that your Spirit of comfort would draw near to them.
We pray for those with power over war or peace,
for wisdom, discernment and compassion to guide their decisions.
Above all, we pray for all your precious children, at risk and in fear, that you would hold and protect them.
We pray in the name of Jesus, the Prince of Peace.
Amen.

Archbishop Justin Welby
Archbishop Stephen Cottrell

主教座聖堂の礼拝について(2022年3月2日)

中部教区各教会・教役者御中
関係者各位

♰主の平和

主教座聖堂はまん延防止等重点措置期間の終了翌日3月7日からは再開の予定でしたが、期限が延長される可能性がありますので、3月いっぱい下記の礼拝を休止することといたしました。変更がありましたら、再度ご連絡いたします。

・毎週水曜日の聖餐式

・教区逝去教役者記念聖餐式(レクイエム)

・英語聖餐式

ご不明な点がございましたら、中部教区センターまでお問い合わせください。                       

在主
主教座聖堂理事長
司祭 テモテ 土井宏純

中部教区センター  
電話:052-858-1007

「輝いて欲しい」と祈りましょう

 こども園には運動会、展示会、発表会などの催しが多いです。そういう時になると、子どもたちは親に見てもらう(声掛けに丁寧で慎重に応えてもらう)ことで大きな喜びと成就感を味わいます。そしてその応えを通して子どもも成長していくのだと思います。私はそういう時に子どもたちから輝きを感じ取ります。
 昨年のこども園のクリスマス礼拝の練習の際に年長の子どもたちから聞いた言葉で驚いたことがあります。先生から「クリスマス礼拝のお歌は大きな声で歌いたい?」と子どもたちに聞いたら、子どもたちの口から「綺麗な声で、優しい気持ちで礼拝したい」という答えが出てきたことでした。聞いた瞬間鳥肌が立ち、子どもが言ったとは信じられないほど感動しました。子どもたちも礼拝は他の催しとは違って何かがあるということに気付いていた訳で、その時私は子どもたちから輝きを感じさせて頂きました。
 コロナの拡散以降3年間、私は韓国へ一度も帰れなくなっていました。たまに電話でもすると耳も遠くなった母親は恋しい息子の声で泣いたりします。母の声を聴くことは嬉しいけれど泣き声には、こうやって日本に来ている自分が恨めしくなってしまいます。
 そう言っても、コロナ拡散以前も、韓国の親のところには年1~2回ほどしか行っていませんでした。しかも、実家に行っても、親のそばで長く時間を一緒に過ごすことは出来ませんでしたが、受話器の向こうから母の涙を呑む様子が感じられたり、泣き声が漏れて小さく聞こえたりするといろいろなことを考えさせられるようになります。そして母は電話を切る頃になると、最後にはいつも忘れず「電話してくれて、声を聴かせてくれてありがとう」と言ってくれます。
 かつて、韓国の教会に居た時、私は主に一人暮らしのお年寄りの方をよく訪問していました。その中に、息子が司祭で海外に出ているため、なかなか母の所に戻れない宣教師のケースがありました。そのお婆さんは何も言わないのに、そのお家を訪れる近隣のいろいろな方々は海外に行っている息子の悪口を言っていました。まるで同じ司祭である私に聴かせるように繰り返して言っていたことが思い浮かびます。「自分の親の面倒もみれないくせに宣教?」のような皮肉だったのかもと思います。海外宣教師の活動ってとても意味深いものであるけれど、当時は私も、一人暮らしの自分の母親をほったらかしている息子は理解できませんでした。しかも息子への近隣の方々のいろいろな悪口を、残った一人の母親が全部飲み込むように黙っているとは何ごとかと思っていました。しかし、こうして今考えてみるとそれは私自身のことだった訳であります。
 韓国を離れてこの地に着いた20年前からの私の課題の一つであり、すぐ解決できる問題ではありませんが、私はまたこうして新しい年を迎えてしまいました。少なくとも昨年よりは、私が関わるすべてのところに、より丁寧で慎重に声をかけて応えたいと思います。「私の魂よ、輝いて欲しい」と自分に声をかけながら、祈りたいと思います。そして皆さんも、殊に自分の親を含めてお年を召したすべての方々にも、常に共に輝いて(喜び溢れて)欲しいと願っています。

司祭 イグナシオ 丁胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

〝マリア・グレイスの主教按手を覚えて〟

 昨年、11月3日(水)に行われた北海道教区主教選挙で、マリア・グレイス笹森田鶴司祭が選出されました。日本聖公会主教会の同意、被選者の受諾を経て、同月26日、笹森司祭は正式に主教被選者となられ、主教按手式が4月23日(土)に予定されています。按手が実現すれば日本聖公会、また東アジアで初の女性の主教が誕生することになり、私のもとにも世界中から祝福のメッセージが殺到しています。日本聖公会において最初の女性の執事、女性の司祭を誕生させたのは、いずれも中部教区(渋川良子師)であり、そういう意味でも、この度の主教按手は私たちにとっても大いなる祝福となります。
 一方で、私にとっては、長年に亘って共に宣教の働きに参与してきた信頼すべき同僚が主教として召されることを喜ぶものであって、その方がたまたま女性であったということでもあります。『1995年日本聖公会宣教協議会・宣言』の草稿を、文字通り夜を徹して書き上げたのは、当時二人とも執事であった田鶴先生と私、そして私たちの畏友、故八幡明彦兄の30代同期青年でした。「宣言」の中で、私たちはこう記しました。
 「私たちは、支配者の物語にではなく、民の物語に聴き続けます。そこから、私たちは、私たち自身の〈物語〉を語ります。自らの言葉で日本聖公会の歴史と現在、そして未来を語ります。こうした努力をして初めて、私たちは主イエス・キリストの福音を受肉化できると信じます」
 これは同時に、私たち自身の「宣言」でもありました。私たちのこの盟約は、今に至るまで、いささかも揺らいではいないと確信しています。そのことを再確認するために、私は、一昨年の主教按手式において田鶴司祭にチャズブルを着せてもらいました。今度は、私が彼女の主教按手の証人となり、そして、主教団の同僚性(collegiality)の教理のもとに、彼女がこれから担う重荷を私も共に担います。