旅 の 途 中

 5月に入って軽井沢はこれからが新緑の季節となります。
私が出向しています旧軽井沢ホテル音羽ノ森にも、観光や結婚式、ビジネスや競技参加など様々な人々が宿泊しています。宅配便の普及によって挙式衣装やゴルフバッグ、スキー板がフロントのバックヤードには所狭しと並びます。
旅行者の目的は違っても、ホテルスタッフは皆さんに心地よく宿泊していただくためにできる限りの心配りをしています。しかもそれがごく自然な振る舞いの中でなされることに、私もすごいなーと感心することがあります。
新郎新婦の中には客船や航空会社に勤める人たちも少なくありませんし、挙式後すぐに転勤で海外に行かなければならない方々もいます。家族に軽井沢旅行も楽しんでもらいたいと願うお二人もいます。
私も結婚式の説教の中で、これからの人生の歩みを旅にたとえてお話することがあります。
人生という旅を通して、これまでなかなか気がつかなかったことに目を留め、大切なことに心を向けるようにお話します。そして私も、自分自身が愛されてきたことの一つ一つを感謝しなければと思い返します。
コロサイの信徒への手紙には第3章12節に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と教えています。
私たち一人一人はあまりにも情けない者ですが、神様によって「お前ほど清め甲斐のある者はいないぞ!」と思われ、愛されているのです。私たちは主によって赦され、愛されている。だからこそ憐れみの心や慈愛、謙遜や柔和、寛容を身に着けなければならないのです。
コロサイの信徒への手紙の結びにパウロは、ティキコとオネシモをコロサイへ遣わします。パウロ自身は行きたくても行けない、囚われの身です。自分も「川の難、盗賊の難、同胞からの難……寒さに凍え、裸でいたことも」(二コリ11・26~27)経験した旅でした。きっと彼らを派遣することのつらさを身にしみて感じていたことでしょう。しかしその弱さを誇ることができるほど、その弱さの中にイエス・キリストの力が発揮されるのです。
聖書を開いてみれば、不思議と旅をする人々の話があふれています。アダムとイブから始まってノアやエジプトを脱出するユダヤ人、預言者やダビデまでもがサウル王から逃げて旅をしています。追い出されたり、逃げ出したりという気のすすまない旅もあります。「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマがありましたが、誰でも一度は逃げ出したくなる経験があると思います。
人生を主イエスとともに旅をするということは、このように逃げ出して枕する所がないような旅なのかもしれません。しかしそれは、神様とともにある永遠の命への旅でもあるのです。
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン、軽井沢ショー記念礼拝堂協働司祭)