軽井沢ショー記念礼拝堂の手前の山道を東に登っていくと、標高1200メートル、碓氷峠の「見晴台」という観光名所に到着します。
2月のある晴れた寒い日に、この場所に出かけてみました。高台からは見渡す限りの青空が広がっており、首をめぐらすと群馬県側の妙義山、そして長野県側の浅間山の姿をみることができます。また後で知ったことですが、この場所は太平洋と日本海の分水嶺にあたり、降った雨は利根川を通って太平洋に、また千曲川を通って日本海に注いでいくそうです。群馬・長野両県の境目ということで、見晴台にはモニュメントが建っており、その中央を境目に県が分かれるのです。
このモニュメントの真ん中に立って、最初はふざけていたのですが、その後考え込んでしまいました。その場所に立つことに、痛みを感じることなく過ごしている自分を、恥ずかしく思いました。
青空には全く切れ目がなく、どんな境界線も引くことができません。天上を、静かに鳥たちが渡っていきます。しかし地上にある人間の世界は、人為的に境界を定め、分けることによって成り立っています。国境により生活が分断され、家族が離れ離れになり、また軍隊が武器によって血を流しあう、そのような状況が、世界中で続いているのです。
見晴台に着いてすぐの広場には、インドの詩人、ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)の彫像があります。タゴールは1916年に軽井沢を訪れ、日本女子大の講習会にて「祈り」をテーマに話をしたそうです。徹底した平和主義者であったタゴールを記念し、彫像の台座には「人類不戦」の文字が日本語とベンガル語で刻まれていました。見晴台に立って、「タゴールもこの青空を見たのだろうか」と思いました。
降り注ぐ雨水が海へ流れゆくような、神様や自然が造り上げた分岐ではなく、エゴと権力によって強引に引かれた境界線と、それをめぐっていのちが傷つき、失われていくことに、人間の愚かさを感じました。天と地、青空と境界線の対照的な姿をみながら、神学校の研修旅行で訪れた韓国の38度線付近、そしてその近くの村で和解と一致、傷ついた人々のために力を尽くされている信徒・教役者の方々のことを思いました。
わたしたちが本当の意味で境界線を乗り越え、自分たちの心に青空を回復するのは、いつのことでしょうか。やはりそれはキリストの十字架という真実により頼むこと、そして小さなことしかできなくとも、自分たちも和解と一致の使者として、ささやかながら働いていくことでしか、実現できないと、私は感じます。
私自身も、人びとの心の内に引かれた目に見えない壁を、(暴力的に越境するのではなく、また人の大切な境界線は尊重しながら)、境界をめぐって共に悩み共にあることによって、少しでも乗り越える働きがしたいと願いました。
「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し…十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです」(エフェソ2章15~16節)。
司祭 洗礼者ヨハネ 大和孝明
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)
