「立てパウロ、立ちてゆくべし、地の果てまでも」

 昨年末、立教学院創立150周年記念特別企画として、新作能『聖パウロの回心』が立教大学にて開催されました。26世観世宗家の観世清和家元はじめ、観世宗家、狂言演出の野村萬斎先生の特別なるご厚意での再演となったものですが、観劇しながら言葉を失うほどに心揺さぶられる感動的な舞台でした。
 新作能『聖パウロの回心』は、「切支丹(キリシタン)能」の存在を大切にされておられた観世清和先生が、書誌学者であられる林望先生とご一緒に、聖書の物語、とりわけ使徒言行録の「パウロの回心」の物語を忠実に能として表現されたものですが、能舞台開演前には、林望先生による切支丹能などをめぐる詳細な歴史的考証があり、大変な学びを与えられました。1563年(永禄6年)に来日したポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは、有名な『日本史』をはじめとする多数の著作を今に残しています。それらの中には「能」に関する記録も登場し、当時の「能」がどのように演じられたかを知る貴重な記録ともなっています。
 新作能『聖パウロの回心』の台本創作は林望先生、能作・演出は観世清和先生ですが、その詞章の一部にはこのようなイエスと地謡(じうたい)の台詞が登場します。
 「立てパウロ、立ちてゆくべし、地の果てまでも、ゆけパウロ、異邦人(とつくにびと)の光として、あまねき救いをもたらさむそのために、我はそなたを立てたるなり。よしよし、そなたいづこに荒磯の、海山越えてはるかなる、道のあなたにありとても、我は必ず護るベし、ゆけパウロ、これまでなりと曰(のたま)ひて、イエスは空へ昇りゆく、祝福の声こそめでたけれ」
 私たち中部教区は今年、宣教開始150周年を迎えています。「ゆけパウロ」と命じられた主の促しに応えて、私たちもまた、新たに〈裸足の宣教〉の道を歩みたいのです。

祈り、祈り、祈り続けて目を泣き腫らすこと

 「日本聖公会北海道教区宣教150年記念礼拝」に説教者としてお招きいただきました。厳粛かつ感動的な礼拝で、北海道教区が、笹森田鶴主教を中心にした素晴らしい信仰共同体を形成されておられることに心から感銘を受けました。
 また、説教準備を通して、中部教区と北海道教区との間には深い歴史的なつながりがあることにあらためて気づかされました。中部教区宣教開始は、ファイソン司祭が1875年に新潟に到着し、1883年まで新潟で宣教を担ったことに遡るものです。そして、まさしくそのファイソン司祭こそが北海道教区初代主教として着座されるのです。その他、新潟においてファイソン司祭から受洗し、その後、北海道教区でバチラー司祭のアイヌ伝道を助けた芥川清五郎師、1920年の夏、主教不在時に北海道に滞在し、信徒の堅信、聖職按手を手伝ったハミルトン中部教区主教など、百年前の教区を超えた信仰のつながりに驚かされます。
 アイヌの女性で、バチラー司祭の養女となったバチラー八重子師は、聖公会の伝道師であると同時に歌人としても大変有名で、日本の文学史においても重要な歴史を刻みました。バチラー八重子師の『若きウタリに』と題された本がありますが、国語辞典の編纂で有名な金田一京助が書いた序文があり、その中にはこのような一文があります。
 「聖書を抱いて、いじらしきものの頭をなでては祈り、罪あるものの背に向かっては跪いて祈り、明け暮れを幼いもの弱いもののために祈り、祈り、祈り続けて目を泣き腫らしてきた八重子女子の声は、ついに『若きウタリに』の一巻を成したのである」
 中部教区も来年の宣教150周年に向けて、「裸足の宣教」を再び歩もうとしています。その原点とはまさしく「明け暮れを幼いもの弱いもののために祈り、祈り、祈り続けて目を泣き腫らす」ことなのです。

裸足の宣教

 次年2025年は中部教区宣教開始150周年にあたります。すでに教区宣教開始150周年記念プログラム実行委員会を中心にさまざまご検討いただいていますが、中心的なキーワードは「裸足の宣教」となります。「裸足の宣教」は、2009年に日本聖公会宣教150周年記念礼拝において説教者としてお招きしたローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教が主題とされたものでした。ウィリアムズ大主教が語られたのはこういうことです。
 裸足となることは、生活を簡素にすることであり、不快さや痛みを受け入れる、あるいは傷を負う覚悟のしるしである。自分の評価や成果に拘らないことでもある。地の石くれや遠い道のりによって痛みを負う覚悟が宣教には必要である。イエス・キリストのみ足は、その旅路において汚れ傷つけられ、そして最後には拒絶の釘によって深い傷を負われた。死からよみがえられる時にもなお、そのむき出しの足には困難と苦悩に満ちたそれまでの旅の傷痕が遺されていた。私たちが主イエスと共に歩むなら、アザや傷を避けられないことも覚悟しなくてはならない。肉体や心に苦しみを持つ人々と同じ道を歩む時、私たちの宣教は最も確かなものとなる。
 確かに、私たちの主はいつも私たちの前を歩かれているのです。真の宣教とは、主が道を整えるためになさったことの〈しるし〉を探すことなのです。宣教においては語ることだけでなく聴くことが必要です。語る前に聴くことが求められます。それによって、私たちは道を整えてくださった主に、心から「アーメン」と応じることができるのです。
 私たちの中部教区は、財政的にも人的にも厳しい状況の中におかれています。しかしながら、宣教開始150周年にあたり、今こそ原点に立ち返って、「0ベース」からの「裸足の宣教」に祈りを合わせて取り組んでまいりましょう。

「種まき人」としての働き

 去る4月20日(土)、高田降臨教会において、フランシス諸岡研史師の執事按手式が行われました。とても豊かな按手式でした。諸岡先生は、名古屋フィルハーモニー交響楽団で32年にわたりオーボエ奏者として活躍された方です。その後、愛知聖ルカセンター、一宮聖光幼稚園園長、中部教区総主事など、教会の働き人として誠実に奉仕してこられました。そして、新たにフランシス諸岡研史新執事として、公会の宣教・牧会の働きに加わっていただくことになりました。引き続き、認定こども園もみじ幼稚園の園長、さらには直江津の聖上智オリーブこども園の園長も担っていただきます。
 昨年末のクリスマス、12月25日、高田降臨教会での降誕日聖餐式の際に、もみじ幼稚園の子どもたちがたくさん参加してくれました。みんな少し緊張した面持ちながらも、しっかりとお祈りの姿勢にアーメンと応えてくれて感激でした。その時に、私の横で、諸岡先生が、一人ひとりの子どもたちの名前を伝えてくれました。きっと、幼いながらも、子どもたち一人ひとりの中に、その時の記憶が残っていくのだと確信するのです。
 高田降臨教会では、今年に入って、主のもとに召された方が続きました。そして火葬場でお待ちしている間、お食事をいただくのですが、ご遺族の中に、もみじ幼稚園ご出身の方も多く、みなさん、幼稚園時代に毎日、唱えていた食前の祈りを良く覚えておられるのです。このお祈りは、たとえその後、教会から遠のいたとしても、心と体に刻まれていて、いつでも暗唱できるのです。それはすごいことです。
 私たちのキリスト教教育は、種蒔きなのです。それをいつかは神さまが必ず芽吹かせくださる。そのことに信頼しながら、ぜひこれからも精一杯に、自信をもって、日々のキリスト教幼児教育・保育を担っていただければと願います。

イースター・メッセージ<暗闇の中に輝く〈命の光〉と出会う場所

 聖土曜日の礼拝では、復活のろうそくに火が灯されます。その灯火は眩しいものです。それは、暗闇の中であるからに他なりません。イエスさまが十字架に架けられた。そして十字架の上で息絶えられた。
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ(マルコ15章33節)
 主イエスの時代は、まさに暗闇の時代であったことを、私たちはまず思い起こさなければなりません。
 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った。そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した。その時、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き、慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから」(マタイ2章16―18節)
 争いと分裂の中、子どもたちの命が奪われていく。そのような暗黒の時代に、主イエスはお生まれになった。イエスさまは、暗闇の中に光として、平和の君としてこの世に遣わされました。洗礼者ヨハネの父、ザカリアは、このように預言します。
 幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く(ルカ1章76―79節)
 暗闇を照らし、平和の道を切り開くこと。それは洗礼者ヨハネが告げていた主イエスの使命でした。イエスさまはガリラヤの地で、辺境とされた地で、さまざまな人々の痛みや苦しみ、叫びがこだまする地で、一筋の光としての働きを担われたのです。
 こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現したのである。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った。」その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた(マタイ4章14―17節)
 主イエスは、この暗闇の中に光を灯すために、自らを燃え尽きさせられました。一粒の麦は地に落ちて死に、そして何倍もの実を結ぶ。
 「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)
 主イエス・キリストが十字架の上で息絶えたのは、それは、この世に〈命の光〉を生み出すためでありました。その〈命の光〉こそが、よみがえりの主に他なりません。よみがえりの主と出会える地はどこでありましょうか。福音書には、明確に示されています。それは、「ガリラヤ」でありました。イエスさまが、人々と共に泣き、共に生きた地、「ガリラヤ」に行くことで復活の主と出会える。そこで、一筋の灯、〈命の光〉を見い出すことができる。暗闇の中で、平和への道が備えられる。
 主イエス・キリストは、私たち一人ひとりがガリラヤを目指し、平和への道を歩むよう促されます。そして、ガリラヤの地で、暗闇の中に輝く〈命の光〉が私たちの内に生まれるようにと導いてくださいます。それでは、「私にとってのガリラヤとはどこなのか」。今年の復活節、深く黙想できればと願います。

祈りをあわせて

 1月1日(月)の16時過ぎ、能登半島を中心とする大地震が発生し、多数の方々が犠牲となり、日常の生活を奪われました。新潟伝道区内の諸教会、信徒のみなさんには幸いにも大きな被害の報告はありませんでしたが、それでも本当に怖い思いをされたことと思います。昨年から、中部教区の高田降臨教会は京都教区北陸伝道区の松山健作司祭、柳原健之司祭にご協力をいただいており、北陸のみなさんとは親しいつながりを与えられています。
 中部教区では、とりわけ能登半島で困難な状況にある人々を覚えて特別な代祷を作り、教区内の全教会で祈りをあわせました。
 「いつくしみ深い神よ、1月1日の能登半島地震により、世を去った人びとを、あなたのみ手のうちに抱いてください。愛する者を失い、悲しむ人びとに、あなたの慰めといやしがありますように。
 いまこの地震の被害を受け、生きることの困難さに直面している人びとと共に祈ります。住まいを失った人、生活に必要なものを得られない状況にある人、病やけがを負った人、心身の不調を感じている人、弱い立場に置かれている人を、主が守り支えてくださいますように。救援のために働いている人を力づけ、必要な支えが届けられますように。わたしたちが心を合わせ、隣人としてのあゆみを起こしていくことができますように。
 これらの祈りを、悩み苦しむ者の助け主、いのちの糧である、み子イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。アーメン」
 この祈りを主教会にご紹介したところ、多くの教区で用いてくださいました。また、英語版の祈りは、アングリカン・コミュニオンはじめ、アジアの諸聖公会でもおささげくださいました。すぐにかけつけることが難しい時にも、私たちは何よりもまず共に祈ることができるのだということを、あらためて確認した時でもありました。

今こそ〈裸足の宣教〉を

 9月17日(日)、18日(月・休)の2日間、上田聖ミカエル及諸天使教会を会場にして、中部教区研修会が開催されました。コロナ禍と昨年の台風による延期もあり、実に4年ぶりの対面での教区研修会となりました。私が教区主教に就任してから初めて、信徒、教役者が一同に会しての研修会でもあり、私自身、本当に励まされ、力を与えられた時でした。
 昨年の教区研修会で予定していた、私の「ランベス会議報告」もようやくさせていただくことができました。初日夜の教会ごとのご挨拶も非常に盛り上がり、対面での顔と顔を合わせることの重要性を確信した次第です。
 2日目には、丁胤植司祭、相原太郎司祭、大和玲子司祭、土井宏純司祭が、それぞれ明快なプレゼンテーションをしてくれました。教区が置かれる厳しい現実を前にして、茫然とせざるを得ませんが、しかしながら、私は今回の教区研修会で、私たちの中部教区には間違いなく夢も希望も可能性も満ち溢れているということを確信しました。
 今回のキーワードは「裸足の宣教」でした。この言葉は、2009年に日本聖公会宣教150周年記念聖餐式説教でローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教が語られたものです。「宣教とは、地面の石くれによって、私たちの現実によって、傷つくこと、私たちの足の皮で直に地面を踏むことをも、進んで引き受けるということなのです。キリストの御足は、人間の歩みから生ずる妨げによって汚され傷つけられ、そして最後に拒絶という釘によって傷つけられるのです」(ウィリアムズ大主教)
 「今こそ原点に立ち返り裸足の宣教をしよう!裸足とは貧さを示す〈しるし〉。旅の終わりには必ずや足を洗ってくれる誰かがおられるのだ」
 これこそが、今回の教区研修会で私たちが共に確かめたことなのです。

「やさしいまなざし」

 『日本経済新聞』の文化面に「交遊抄」というコラムがあります。私は著名人でも何でもないのですが、お声をかけていただき、先日9月1日に、掲載されました。タイトルは「やさしいまなざし」。森美術館館長の片岡真実さんとのつながりを紹介しましたが、片岡真実さんのお父さんは、私たち中部教区の先達である菊田謙司祭です。以下に、「交遊抄」で書かせていただいた記事を紹介させていただきます。
 約250万の発行部数を誇る日経新聞という全国紙に、日本聖公会中部教区、そしてこの9月にちょうど逝去8周年を迎えた野村潔司祭の名も登場したことは、誠に嬉しいことでもありました。

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 森美術館館長の片岡真実さんは飲み友だちであり、同志でもある。その出会いは1980年代後半、私が京都大学工学部を卒業し、英国国教会の流れをくむ日本聖公会中部教区の名古屋学生センター主事として赴任したころに遡る。
 片岡さんの父は同教区の司祭を務める牧師だった。キリスト教と身近な環境で育った彼女とは、日雇い労働者への炊き出し、偏見や差別に苦しむ人々への支援を通じて会話をするようになった。
 その後、片岡さんは大学を卒業して本格的に美術の世界で活動し、私も神学の道に進んだこともあって交流は途絶えていた。片岡さんがキュレーター(学芸員)として海外で活躍する姿を知ったときなどは、うれしい気持ちになった。
 再会のきっかけは2015年、共通の恩師である野村潔司祭の葬送式でのこと。「野村先生は常に社会的に弱い立場にある人々に手を差しのべ一緒に行動した」という私の説教を聞き、深く心に響いたとメールを寄せてくれた。教会の果たす役割に悩んできた私が歩むべき道を確かめることができた言葉でもあった。
 縁あって今夏の森美術館での企画展で立教大生や教員が協力している。いまも人へのやさしいまなざしを忘れない片岡さんとの対話を大事にしていきたい。

(にしはら・れんた=立教大学総長)

キリスト教と科学

 BSA(一般社団法人日本聖徒アンデレ同胞会)から「信徒叢書23」として、拙書『キリスト教と科学』が発刊されました。本書で書き記したかったことは、キリスト教と科学の本来的な近接性です。
 西欧においては「科学」と「技術」の間に明確な分岐があり、住み分けがなされていました。「科学」(自然哲学)は「知」の領域として「大学」において担われ、工学で扱うような「技術」はむしろギルドなどの職人の人々によって、しっかりと為されていました。日本には、最初から「科学」と「技術」の峻別は存在しませんでした。私たちも「科学技術」とひとかたまりで呼称し、理解することの方が多いのではないでしょうか。それは、まさに日本が、「知」とは何かという問いや、「神学」と「科学」の歴史的な親密性という文脈を抜きに近代化に踏み出したからにほかなりません。なぜ「神学」ぬき、「工学」ありの学校を西欧では「大学」と呼ばないのかを理解できなかったのです。
 ニュートンまでの自然科学者たちが目指していたのは、実は神の存在証明でした。それ以降は、「神」を一切介在させずに、自然や宇宙の成立やシステムを合理的に完璧に説明できる、神学から完全に独立した科学の確立という方向性に向かったことは間違いありません。いわゆる「科学万能」の世界です。しかし、ビッグバン理論など、現代科学の一つの結論は、宇宙発生以降、生命発生以降のプロセスについては科学によって説明可能であるけれども、では、そもそもビッグバンがなぜ起こったのか、原初の生命がなぜ発生したのかについては「分からない」と言わざるを得ない、ということです。
 現代科学によって、すべてを説明することはできません。そして、そこにおいて、神学が貢献すべき領域と責任は限りなく大きく、深いのです。

93年前のある女性の伝道師を覚えて

 6月の教区教役者レクイエムで覚える逝去教役者の中に、広瀬鋹子伝道師のお名前を見つけました。教区の資料では、1875年生まれ、1955年6月8日に、79歳で主のもとに召されたとあります。その他、「1902年に伝道師に認可、名古屋聖ヤコブ教会等でミス・トレントと共に働く」という記述がありますが、それ以上の情報はありませんでした。
 ただ、ふと以前、カナダ、トロントにあるカナダ聖公会の資料室を調査した際に、カナダ聖公会の機関誌である『リヴィング・メッセージ』の中に、「Miss Trent and Mrs. Hirose」というタイトルがつけられた一枚の写真があったことを思い出しました。それは、1929年にカナダ、ヴァンクーバーで撮影されたもので、花束を持った広瀬伝道師の満面の笑みが輝く、忘れ難い一枚でした。さらに調べると、広瀬伝道師はトレント先生と共に、1929年6月から10月にかけてカナダへの修養の旅に出られていたこと、また帰国後に教区の各教会を訪問し、カナダでの経験を報告されていたことを伝えるトレント先生の手記を発見したのです。松本、新潟、長岡、稲荷山、長野の各地で熱情をもって、貴重な経験を語られる広瀬先生の姿が生き生きと描かれています。中でも、岡谷での報告会の記事には胸を揺さぶられました。
 「岡谷には世界最大級のシルク工場があり、3、4万人の若い女性たちが働いています。H.H.コーリー司祭と夫人がこの地を宣教の拠点とし、彼女らのために教会(セント・バルナバス)を建てたのは、この地が必要とすることに応えたからです。夕方の集まりには約40人の工女たちが集まってきました。晩祷の後、広瀬さんは彼女たちに、彼女の幼い頃に経験した困難と、その後いかにしてキリストに召されたか、そして、『救い主のもとに来なさい』と愛情深く訴えたのでした。彼女たちはどれほど心を動かされたことでしょう!」
 93年も前の中部教区には、船で海を渡って海外の地で豊かな経験をし、その後、中部教区のそれぞれの地にある者たちに熱い思いで証をし、主の救いを宣べ伝えていた女性の宣教者が確かにいたことを、私たちも覚え、そして倣いたいのです。