初めまして。川島創士さん

 私は今年の4月から、名古屋聖マルコ教会の牧師館に移り住んでいます。聖マルコ教会は現在、聖堂の耐震工事が行われていて、毎日のように建設会社のトラックが駐車場に停まって木材などの建築材料が搬入されたりしています。工事現場である聖堂内には埃をかぶったブルーシートがオルガンや長椅子などを覆っています。入口の鉄門には、「工事関連で危ないため通行の際に注意して欲しい」というようなメッセージの紙が貼られています。確かに落ち着いてない環境です。
 そのような状況ではありますが、初日から私の目に入ったことがありました。それは、教会に入るためには駐車場に面している鉄門を通らなければならないですが、その門は多くの部分で塗料がはがれて、真っ赤にさび付いていたことでした。さらにそこから教会の方をみると牧師館に上がる外付け階段も真っ赤になっていることがまる見えです。
 「先ずあれを綺麗にしなきゃ」と思いましたが私も実施できず5か月が経ってしまいました。その5か月間、毎日階段を昇ったり降りたり、鉄門を開けたり閉めたりしながら言葉と思いにだけとどまっている自分の情けなさが鏡のようにさび付いた鉄門にうつっていたことを感じました。
 耐震工事が終われば今よりはきっと多くの方々が出入りするようになるでしょうし、それを期待して塗料を塗って綺麗にすれば、誰かがきても入口のほうから歓迎される感じを受けることが出来るのではないかと思いました。
 この度、川島創士聖職候補生の教区実習を私が指導することになりました。初日の主日は後藤香織司祭のもとで名古屋聖マタイ教会での実習、そしてその翌日からは、NPO法人ルカ子ども発達支援ルーム「そらのとり」と柳城幼稚園、名古屋学生青年センター、最後の日は愛知聖ルカ教会での奨励実習という計画で日程を組みました。その間に、名古屋聖マルコ教会での勤務を2日間入れました。1日目は「草むしり」、2日目はこの機会にということで「塗装作業」を入れました。単純に労働だけで終わることではなく、信徒さんに声を掛けて一緒に草取りをしてから彼を囲んで昼食の交流会を持ちました。お弁当を買ってきて、簡単なことではあるけれど皆で一緒に野菜を洗ってサラダを作ったり、お湯を沸かしてスープを作ったりデザートを作ってはわいわい楽しい時間を過ごしました。
 「塗装」予定の日は雨が降ったため残念ながら実施は休止としました。個人的には5か月前から思っていたことで、川島さんがいる今がチャンスだと意味づけて鉄門と階段の塗装作業をしようと塗料や道具まで買っておいたけれども、5か月前からの思いは叶いませんでした。その代わりに、川島さんと一緒に信徒さんを訪ねて食事とお茶をしながらリアルな教会の話を聞く時間も持ちました。
 私個人としても、聖職候補生の実習指導をしたことは初めての経験で非常に意味ある時間でした。川島さんとも今回初めてお会いしたので、新しい人に出会って色々なことを一緒にしましたし、彼を囲んで信徒さんとも様々な話し合い・交流会が出来たことなどを通して、交わることの大事さを改めて感じることが出来ました。そして新しい色々なことが見え始めて、新しい動機付けとともに名古屋でのこの5か月間を振り返るきっかけにもなりました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(名古屋聖マルコ教会牧師)

「輝いて欲しい」と祈りましょう

 こども園には運動会、展示会、発表会などの催しが多いです。そういう時になると、子どもたちは親に見てもらう(声掛けに丁寧で慎重に応えてもらう)ことで大きな喜びと成就感を味わいます。そしてその応えを通して子どもも成長していくのだと思います。私はそういう時に子どもたちから輝きを感じ取ります。
 昨年のこども園のクリスマス礼拝の練習の際に年長の子どもたちから聞いた言葉で驚いたことがあります。先生から「クリスマス礼拝のお歌は大きな声で歌いたい?」と子どもたちに聞いたら、子どもたちの口から「綺麗な声で、優しい気持ちで礼拝したい」という答えが出てきたことでした。聞いた瞬間鳥肌が立ち、子どもが言ったとは信じられないほど感動しました。子どもたちも礼拝は他の催しとは違って何かがあるということに気付いていた訳で、その時私は子どもたちから輝きを感じさせて頂きました。
 コロナの拡散以降3年間、私は韓国へ一度も帰れなくなっていました。たまに電話でもすると耳も遠くなった母親は恋しい息子の声で泣いたりします。母の声を聴くことは嬉しいけれど泣き声には、こうやって日本に来ている自分が恨めしくなってしまいます。
 そう言っても、コロナ拡散以前も、韓国の親のところには年1~2回ほどしか行っていませんでした。しかも、実家に行っても、親のそばで長く時間を一緒に過ごすことは出来ませんでしたが、受話器の向こうから母の涙を呑む様子が感じられたり、泣き声が漏れて小さく聞こえたりするといろいろなことを考えさせられるようになります。そして母は電話を切る頃になると、最後にはいつも忘れず「電話してくれて、声を聴かせてくれてありがとう」と言ってくれます。
 かつて、韓国の教会に居た時、私は主に一人暮らしのお年寄りの方をよく訪問していました。その中に、息子が司祭で海外に出ているため、なかなか母の所に戻れない宣教師のケースがありました。そのお婆さんは何も言わないのに、そのお家を訪れる近隣のいろいろな方々は海外に行っている息子の悪口を言っていました。まるで同じ司祭である私に聴かせるように繰り返して言っていたことが思い浮かびます。「自分の親の面倒もみれないくせに宣教?」のような皮肉だったのかもと思います。海外宣教師の活動ってとても意味深いものであるけれど、当時は私も、一人暮らしの自分の母親をほったらかしている息子は理解できませんでした。しかも息子への近隣の方々のいろいろな悪口を、残った一人の母親が全部飲み込むように黙っているとは何ごとかと思っていました。しかし、こうして今考えてみるとそれは私自身のことだった訳であります。
 韓国を離れてこの地に着いた20年前からの私の課題の一つであり、すぐ解決できる問題ではありませんが、私はまたこうして新しい年を迎えてしまいました。少なくとも昨年よりは、私が関わるすべてのところに、より丁寧で慎重に声をかけて応えたいと思います。「私の魂よ、輝いて欲しい」と自分に声をかけながら、祈りたいと思います。そして皆さんも、殊に自分の親を含めてお年を召したすべての方々にも、常に共に輝いて(喜び溢れて)欲しいと願っています。

司祭 イグナシオ 丁胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

イングランド聖公会・教会成長研究報告書

2017年、教区宣教局の教育部・礼拝部の共同作業によって翻訳されたイングランド聖公会・教会成長研究報告書2011〜2013(以下、報告書)について紹介したいと思います。その題は「逸話から証拠へ」(From Anecdote To Evidence)で、一般的にキリスト教会が衰退している西欧でも、成長している教会があるという事例を通して一緒に考えるために良い資料です。「成長」という言葉が使われているということは、現在は衰退の程度が激しいために「成長」が求められているという意味でもあります。

教会成長の意味は、大きく数値的な成長と質的な成長に分けられます。西欧が帝国主義植民地政策を広げていた時代から現代に至るまで、長い間教会はマタイ28章の宣教命令を用いて数値的成長を最優先の価値として考えてきました。数値の増加ということは勿論、教会運営に直接関係するところであるために、端的には問いにくいことでもありますが、数値的成長と共に、今は質的な成長(輝かしい生き方)がキーワードとしてもっと大事に取り上げられ、内的成長・霊的成長・社会的成長の部分が重んじられています。

特に英国に於いてこの報告書は、今は、伝統的な教会から離脱していく現代人、若い世代の人たちと多文化住民たちに教会が合わせていくべき時代であると語っています。これからさらに急変していく時代を迎えて、そういう時こそ教会は敷居を低くして、「いらっしゃい」と言いながら待つ宣教ではなく、外に出て世の中の声を聞かなければなりません。時代の流れの中で、大きな変化への挑戦もなく、今までそのように待ってきた西欧の教会が、その危機の中でどう対処して来たかを覗き見ることが出来る報告書でもあります。

勿論、このようにすればわたしたち日本の教会も成長するという方法を提案している文書ではありません。どうやってキリスト教を伝えるかではなく、どうやって神様の御国の価値を伝えるかという観点から読んで頂きたいと思います。

聖書の「善きサマリア人」の物語を見ると、当時のユダヤ人の考えにはサマリア人は隣人の範囲に入っていませんでした(絶対破れない思考)。しかし、「誰が私たちの隣人なのか」という問いと答えを重ねながら、今のこの時代に於いて、私たちの新しい隣人を探し出すことが大切です(絶対破れない思考は無いという思考)。

現代の教会は、新しい隣人を積極的に探す働きを通して結果的に今までの伝統的な信仰の教会も共に成長することが出来ると思います。勿論、英国とキリスト教文化が主流ではない日本の教会の間には一定の距離がありますが、宣教的な状況には似ている点が多くあります。若い世代の移動によって既存の地域共同体が崩れつつあり、高齢化現象がより大きく浮き彫りにされていて、教会自体が若い層からの呼びかけの力を失っていく現象がその共通点だと言えます。

教会のこれからの宣教の対象は、現在、教会に出席している信徒のみではなく、教会が属している生活エリア全体がその対象であるという共通認識を信徒全体が共に持つことが大事です。そして信徒同士のみが宗教的安静を得ることではなく、社会を構成する皆が輝かしく豊かに生きるところ(神様の御国を味わうことが出来るようにするところ)に教会の目的があると思います。そういう意味からでも、また茶話の内容に用いて頂くためにも是非読んで頂きたいと思います。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

「行っていらっしゃい」、「ただいま~、お帰り~」

3月末、長野県から新潟県に移りました。4月6日現在は新潟聖パウロ教会の司祭館に荷物を解き、片づけているところです。住まいは新潟で、管轄は三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会、そして聖公会聖母こども園にチャプレンとして関わっています。

10年ぶりに入ってみた新潟の教会ですが、「あーそうだ。おもにこの部屋を事務室として使っていたし、ここにはあれそれが置いてあった」というような記憶がもどってきます。そして私の跡がそのまま残っているところがあって、一方では不思議感まで漂います。これから新潟の信徒さんに徐々にお会いできる機会があると思いますので、また楽しみにしています。

4月の最初の主日は三条で復活日礼拝を献げ、イエス様のお墓に向っていた婦人たちが「誰があの大きな石を転がしてくれるだろう」という話をしていたところについて説教をしました。それは単純なお喋りではなく「主よ、石の扉を開けてください。そして墓から出てきてあなたの教えていた通り自由を生きてください。そしてわたしたちもその自由を生きることができるようにしてください」という祈りではなかったのかな~という話をしました。そして普段日常の中で心を分かち合っていた信仰の仲間たちが一緒に祈ることによって力を合わせていたことを意味するということだろうとメッセージを伝えました。人間誰だって心に大きな石を抱えているはずだから、もし私が皆さんに「そこの誰か石を転がしてください」と叫ぶ時は是非耳を傾けて欲しいですし、皆さんも「そこのだれか石を転がしてください」と叫ぶ時には私も応えられる、そういう関係をつくっていけたら嬉しいと言いました。

長岡聖ルカ教会は今度の主日に行く予定ですが、樋口正昭さんと連絡を取りながら信徒さんの安否や牧師館の使用不可状況の話、そしてベストリーの屋根の修理について情報を得ています。皆さんと一緒に礼拝を献げて、長岡教会の方々が今まで手を合わせて祈ってきたことについてその悩みを分かち合うことから始まる長岡での主日を期待しています。

三条聖母マリア教会の集会室に信徒の西川愛子さんがお描きになった和画が掛けられています。広い草原に一人の少女が草場に座って、鳥かごの中から小鳥たちを出して自由に放ってあげている絵です。少女が座っている草場にはクローバーがいっぱい生えていてそのクローバーは白やピンク色のお花を咲かせて単純な緑ではなく他の種類の草も細かく描かれています。絵の中の少女の顔からは小鳥を自由に放ってあげることによる喜びの表情だけではなく、小鳥たちとの別れを寂しく思うような表情も感じられます。小鳥たちも少女から離れることに未練が残っているのか、少女の肩に座っている小鳥や少女の手のひらから離れない小鳥もいます。

しかし、もうすぐ小鳥たちは青い空に向けて飛んでいくでしょうし、少女とは別れなければなりません。長野を去る時に長野の方々が渡してくださった挨拶はサヨナラではなく、「行っていらっしゃい」でした。小鳥を放して飛ばそうとしている少女の心は、小鳥たちの旅立ちを応援するとともに名残惜しさも多くあったかと思います。その心を受けて新潟に着いた私は、主において兄弟姉妹となった新潟県の信徒の方々の心の扉の前に立って「ただいま~」と声を上げてみます。絵の中の上の部分に教会が見えますが、遠くから「お帰り~」という声が聞こえてくるような気がします。

司祭 イグナシオ 丁 胤植(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

祈りと実りと歌がある庭園

昨年度の飯山復活教会の教会委員会にて承認された今年度事業計画の一つは、テモテ田井安曇(本名:我妻泰)さんの歌碑建立でした。今年、前管理牧師から引き継いで6~7回教会委員会を重ね、歌碑建立について話を詰めてきました。田井さんについて出来るだけ多くの方々に知って頂きたいと考え、長野伝道区合同礼拝の日(9月11日)に歌碑除幕式を行うことを提案しました。教会委員会は勿論、「田井安曇の歌碑建立有志の会」(以下、有志の会)でもその提案が受諾されました。
歌碑を教会の敷地内に建てたいという希望は、最初は有志の会から出されたことですが、飯山復活教会としても、歌碑が建てられる教会の庭に新たな名前を付けて整備しようということになりました。単に教会の敷地の奥にぽつんと一つ歌碑が立っているのではなく、教会堂そして庭と調和するように考えました。
教会の庭には「ラビリンス」もあります。ラビリンスとは、古代ギリシャ神話の巨大な迷宮に由来するものです。しかし、ラビリンスは迷宮や迷路とは大きく異なるものです。普通の迷路は外に出ようとする人を不安にさせるものですが、教会のラビリンスは人を真ん中へと誘導するもので、ゴールが分かっているため平安な心で歩いていくことができます。真ん中に着くまでゆっくりと歩むことを通して、考えたり祈ったりすることができるようになっています。自分を振り返り自分をもっと愛する心を持つことがこのラビリンスの目的です。
『短歌』という雑誌の第53巻第12号に田井さんが書かれた文章があり、自分の人生には二つのアジール(救いの手)があったと記しています。その一つが「教会(司祭)」でした。具体的な名前まではありませんでしたが、書かれた年から寺尾平次郎司祭であると考えられます。寺尾先生は、牧師館の2階に何人もの人を住まわせていたのですが、その中に元海軍下士官で靴職人の高橋富士雄さんという方がいました。その彼が当時中学生だった田井さんに歌を教え、そんな関係の中で田井さんは歌人としての人生の方向が決まったと思われます。

蝉のこえ
充てる胡桃の木の下に
アンゴラと牧師と遊ぶ夕暮

田井安曇自選50首の一番前に載ったこの歌が歌碑に刻まれます。牧師という単語が出ていることを見ると、寺尾先生が田井さんの人生にどれ程大きな影響を与えたのかが分かります。
教会の庭園には柿やラズベリーなど、実を結ぶ各種の木々があります。そして美しい花々が咲き、風にそよいで自然に踊っています。歌碑はその中に建てられます。庭は単なる教会の庭ではなく、「祈りと実りと歌がある庭園」と命名されました。祈りのある人生によって多くの実が結ばれ、自然の中で希望の歌を歌うことができる、そんな道へといざなう庭園になればと思います。飯山復活教会を訪ねてくる方々が、たとえ一瞬でも幸せが感じられることを願っています。その中で歌碑は飯山復活教会の大切な物語を語り続けます。
(長野聖救主教会牧師、飯山復活教会管理牧師)

『青年期の自分に出会う。そして、友達…。』 

先日、韓国に行ったときのことです。高校卒業で離れ離れになり、その後探し続けていた親友とやっと電話がつながりました。彼を通して、他の同窓の友人たちの近況も聞くことができました。さらに今回、大学の親友にまで会うことができました。彼らと話ができたのは、1993年の卒業以来ですので、約20年ぶりのことです。電話一本ですぐ会えたのに、何故こんなにも会うのが難しかったのか。何故こんなにもその道のりは遠かったのか。
4年間の大学時代は、私の人生の花と言える時期です。信仰を通して交わるという初めての経験、その中で築いた親友との格別な友情、友達の狭い部屋に上がり込んで文字通り体をぶつけ合いながら過ごした貧しい暮らし。時には友人の痛みに深く関わり、時には少し離れて見守りながら、お互いに支え合った時期。出会いと別れ、慰めと励ましを共に経験した時期でした。
親友と再会している内に、学生時代にお世話になった沢山の顔が目に浮かんできたのですが、その中でも特に二人の先輩を思い出しました。人生の目標が明確ではなかった私に、信仰の灯火を点けてくれた先輩です。その一人は、イエスは生きていて私を愛しておられることを私のこの胸にしっかりと気づかせてくれた人です。もう一人は、大学職員として就職した後、全てを捨てて牧師の道に進み、さらに詩人へと変貌を遂げながら、素敵に生きていた人です。すでに二人とも神様のもとに旅立ってしまったのに、「ありがとう」の言葉を直接伝えることができませんでした。豊かではなかった時代、本当の兄弟姉妹のように後輩の面倒を見て、食べ物を用意してくれた先輩たち一人一人の顔が浮かんできます。希望が見いだせず、暗く、袋小路に迷い込んでいた私に、柔和な表情を一変させて鬼の顔になって怒鳴ってくれた先輩たち。「こんにちは」ではなく「幸せでね」「幸せに生きるのよ」と、挨拶する人たちでした。
さて、大学4年間、一緒に暮らしていた友人の一人にインムクという名前の人がいました。インムクは、1年生の時から偶然同じ下宿の同じ部屋を使うようになって以来の親友です。ある日、インムクの実家から連絡がありました。「弟が死んだ」と。インムクは受話器を下ろすと、急いで家に向かいました。私も翌日、何も考えずに彼の実家に向かいました。しかし若かった私にはインムクに慰めの言葉を言うこともできません。とにかく、ただインムクの近くに座って顔を見ていただけでした。その時のインムクの一言、「弟とあまり話ができなかったことを後悔している」の言葉は、今でも耳に強く残っています。私たちは顔と顔を合わせて出会い、話を聴くことを大切にしようとしていたはずなのに、自分たちにはそれができていない。私自身も、友人が辛い時に何もできない自分に、至らなさを感じていました。ところがインムクは、後になって、「大変だったときに、一緒になって座っていてくれた人」と、私のことを表現してくれたのです。
今回、久々の再会を通して、あの頃を思い出し、出会うこと、交わることとは何かを振り返ることができました。神様は、あらゆる方法で、出会いと交わりを通して和解の業を成し遂げようとされています。倒れて立ち上がることも困難な人たちと共に、まず一緒に座ることのできる私でありたいと、今、改めて思っているところです。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

『歌い続ける物語』 

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(1コリ2・7)

神の御国は永遠に語り続けられるからこそ意味があるものだと思います。聖書はファンタジー的な要素をたくさん含んでいます。そのファンタジーは聖書を物語として聞かせるときに非常に大きな感動をもたらします。

第2回世界聖公会平和協議会があって沖縄に行ってきました。沖縄は美しい自然環境の中に大きな痛みを抱いている、とても切ないストーリーの物語の世界として比喩することが出来ます。今回の沖縄の旅の中でも、いつもと同じく語り部(平和ガイド)さんがお話の風呂敷を解いてくれました。沖縄の緑溢れる自然景観の裏にどのような苦しみがあったのか、どのような歴史が広げられて、どのような神様がどのような命を造られて彼らと共に生きていたのか等について…。

韓国の古典童話には虎がよく登場します。子どもがねだったり泣いたりすると、今も不思議ながら大部分の韓国の親は「虎が来てワアオするよ」と言い、子どもが泣くのを止めています。虎が出てくる韓国の物語は非常に多いですが、虎は単純に怖い存在だけではなく、山を守る仙人として自然と命を守る存在でもあります。

沖縄にもこれと似た存在があると聞きました。キジムナーという妖精です。沖縄には本土には無いガジュマルという木があります。キジムナーはその木に住んでいたそうです。ガジュマルは枝についているひげ根が下に伸びて派手な姿の太い枝になります。そして、その実は鳥やコウモリの餌になるので、その木自体が自然と命を守る象徴的な存在であることを感じさせられます。その木に住む妖精のキジムナーも、物語の中では悪戯っ児に現れる怖い存在でもあって、子どもの躾のため親たちによってその名前が使われています。キジムナーも単純に子どもにとっての恐怖の対象ではなくガジュマルと一緒に沖縄の命を守る神的存在だった訳であります。平和ガイドさんは、「戦争でガジュマルが燃えたとき、キジムナーも一緒に死んだと言われていた」と非常に寂しげに言いました。

沖縄を守って、山を守って、この地に住む人々を守る木の妖精が戦争によって人工的に作られた爆弾で燃やされ傷ついたとき、この地を守る妖精も一緒に死んだのかもしれないと、幼い心に傷を抱いているその子どもは、今は白髪の大人として、この地を訪ねてくる大勢の方々に心そのままを伝える平和ガイドになりました。

キリスト者として、わたしたちは聖書を読んでイエス様の愛を通して命の物語を語って、世の中に平和を妨げる艱難と逆境があっても(憲法改正問題等)、わたしたちの人生はそれを切り抜けて生きる価値があると伝え続けてきました。

沖縄のその子どもが今も希望を失わず平和を語り続けているように、たとえ弱い力しか持っていなくとも、小さな手を取り合うことによって、決して平和は消えないと歌い続ける勇気が欲しいと思います。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

『私の祈りを紹介します。』 

今年に入って、私は最初の祈り(観想祈祷)として「私自身の存在」について神様に尋ねました。

「主よ、私の名前は何でしょうか」と。

「内容(心)が分からない者」という答えが聞こえてきました。

私はまた聴きました。

「主よ、こんなに単純な私がなぜ分からないのでしょうか」

主は答えてくださいました。

「しかし、希望を持っている者、期待される者。私はお前と共にこの新年を開こう」

再び聴きました。

「新年を開くとは何でしょうか」

主の答えは「呼吸、生きること」でした。

その答えを聞いて、私はすぐにこういう内容で新年の最初の祈りを捧げました。

「新年を開く方は主ですけれども、私をあなたの御働きに参加させてください。そして私の新年に主が参加して頂き私の人生を開いてください」

意図的に何かを考えた祈りではなく瞬間的に出てきたことだったので、本当に不思議に思いました。

ところが一つ、「あなたは内容が分からない者」という言葉で気持ちがすっきりしなくて、今自分は主にさえも何か隠そうとしているのかなという思いで悲しくなりました。そんな気持ちのまま翌日を迎えました。ヨセフとマリアが赤ん坊のイエス様を連れてナザレのほうに逃げたという聖書の部分を読みました。ナザレという単語にふれたとき、ほんの1秒にもならない短い時間に、この「ナザレ」は「内容が分からない者」と同じことを示しているということに気づかされました。メシアとはふさわしくなさそうな田舎のナザレ、しかし赤ん坊のイエス様がそこに行かれたことによって希望があり期待される所となった、そこが私自身の心であるということを知らせてくださったわけであります。

その後、もう既に1ヶ月半が経ちました。その間、私の祈りは次のように進んできました。創世記25章19~34節とマルコによる福音書9章30~41節を読んで黙想していた時、感じたことがあります。創世記に、リベカがお腹の双子が喧嘩していたため神様の御声を聴こうとして(祈るため)出かけたと記されています。とにかく、リベカの二人の息子たちは仲が良くなくて、兄は弟に騙されてパンとレンズ豆の煮物で長子の権利を譲ってしまう過ちを起こしました。軽々しく扱った長子の権利とはいったい何を意味しているのか気になりましたが、そのまま継続してマルコによる福音書を読みました。

弟子たちはイエス様の話に対して議論をしましたが、怖くてイエス様に聴こうとしませんでした。イエス様は一人の子どもを彼らの真ん中に立たせてこうおっしゃいました。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マコ9・37)

私は、長子の権利ということは、とても小さな者を受け入れることと関係があるということに気づきました。

一緒に祈る仲間の人からこういう話を聞きました。「マルコによる福音書に、イエスの弟子でもないのにイエスの御名で奇跡を行う人たちについての話が出ていますが、考えてみれば彼らは力を持って働いたことで弟子たちは逆に弱い者だったという感じを受けます」と。

その時、主は私にこうおっしゃいました。

「弱さをあなたの真ん中に置きなさい、弱いことを嬉しく思いなさい。私が助ける」と。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

『「だから、 やめよう」 と言わず「だけど、 やってみよう」』 

皆さんはきっと、 「求道者が与えられて欲しい」 「若者、 子どもたちが加わって活気溢れて欲しい」 等という言葉を言ったり聞いたりしたことがあるでしょう。
もちろん、 信仰を通して夢を語り、 幻を見ることはすごく大事なことですが、 若者がほとんどいない状況で、 何の動きもせず、 ただ、 若者が入ってくることを待つだけでは限界があると思います。 本当に若者、 子どもに加わって欲しいなら、 彼らを迎え入れる準備が必要であるのは当然のことです。 彼らをただ礼拝、 またはプログラムに誘うのではなく、 彼らが関与して作り上げる集会でなければならないと思います。 つまり、 彼らの意見・考えが受け入れてもらえる雰囲気が必要であり、 そのためには、 どういう意見でも遠慮なく、 互いに話し合うことの出来る、 気軽に入れる輪作りが大切だと思います。
私は教会の中に、 新しい信徒 (求道者含) を担当する奉仕の役割があったら良いとずっと思っていました。 それは礼拝の案内をするだけではなく、 興味を引く魅力ある何か (温かい心・証を交えて) を一緒に分かち合える、 救いについての話 (ある意味、 教理) を柔らかく紹介する役割を言います。 これは、 信徒教育システムのことです。
このような話を聞くとすぐ、 「そういうのを我々にさせても、 それは無理だ」 とか 「信徒が、 教えることまですると教役者は何するんだ」 等の反論が出るかも知れません。 しかし、 これは今日の教会のトレンドである 「小グループ運動」 に当たるものです。 小グループの勉強会を通して、 信徒同士が励まし、 慰め、 祈り、 分かち合うことによって、 関係を密にし、 教会のリーダーを育てるという大きな意味を持ちます。
それのためには、 教会内で 「教理教育クラス」 が随時運営されることが必要です。 できれば毎日のように、 毎週のように勉強会があって、 最初は信徒さんが気軽に参加し、 その教育を繰り返して受けているうちに自然に自信を持って福音を語ることができるようになります。 適切な段階に入ったら、 リーダークラスを別に結成し訓練を深めることによって、 準備は整えられます。
その後、 例えば全体10回日程の教育なら、 その中の科目の講義を一人一つずつお願いします。 信徒数が少ない教会では大変な企画になる可能性はありますが、 できるだけ多くの方が参加できるように、 牧師を含め教会委員の積極的なお勧め・お誘いが必要です。
10人の信徒が、 それぞれ自信がある科目を通して新しい人と交わり (勉強より、 人が大切) を持ったとしたら、 その新しい人が洗礼・堅信を受ける頃には、 もう既にその10人のリーダーと新しい信徒の間では人格的な良い関係ができているので、 一石二鳥以上の効果があると私は確信します。 しかし、 皆さんのご心配の分、 確かに相当の努力が必要となるでしょう。
イエス様が十字架に掛けられる前に、 「だから、 やめよう」 となされたとしたら、 私たちの大切な救いへの約束も希望・夢なども何の意味もないこととなってしまうでしょう。
十字架に掛けられる前のイエス様の知られてなかった言葉はきっと、 「だけど、 やってみよう」 ではなかっただろうかと思います。
司祭 イグナシオ 丁胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『「私は夢見る人です」 と堂々と言いたいのですが…。』 

私は新潟に来てから、夏のキャンプのシーズンがやってくると同じ夢を見る人になります。この2年間はキャンプから帰ってきたらいつも、子ども日曜学校を作ろうと思いました。夢見るだけの人でとどまっているのかも知れませんが……。
さて、今年も子どもたちに大きなことを学んだキャンプでした。チャレンジキャンプの日程は8月の10日からでした。新潟からは3人の子どもたちが参加しました。柏崎あたりを通っていたところ、急に、雷を伴う滝のような激しい雨が降り始め、前方が何も見えない状況の車の中でこういう話をしました。
「去年もキャンプファイアが出来なかったのに、今日も無理かな~? 残念だね」
そのとき、小学2年生の風間剛くんにこう言われました。
「先生、でもね、僕は雨がずっと続いて降って欲しいな」
「なぜ?」と聞いたら、
「雨が止んだら、虹がすごく綺麗に見えるでしょう」と答えました。
なるほど。夢とは今すぐ自分がやりたいキャンプファイアを求めるようなことではなく、思わぬところで現れる小さな感動を期待するようなことではなかろうかと気づかされました。結局、雨は止み、初日の夜はキャンプファイアが楽しめました。
キャンプの最後の日のことです。小学5年生の佐藤菫ちゃんが入っていたグループから、キャンプの中でいろんなことを教えてくれたり、手伝ってくれたりした大人の方々にお礼の歌をプレゼントしたいので、集まってもらいたいという話がありました。
初めて聞いた歌でしたが、最後の歌詞が「アイ ビリービン フューチャー 信じてる」で、メロディーも綺麗でした。何より感動したのは、子どもたちの心が感じられたことです。その感動を忘れたくなかったので、そのときの心をそのまま短い曲として残してみました(写真)。
夢とは心を動かせることで、動けば動くほどその動きが大きくなるようなことだと感じさせられました。
キャンプの間、プログラムディレクターとしてキャンプ全日程を活発にサポートしてくれた漆原隆二さんという人がいました。帰りの車の中で、小学4年生の風間光くんにその人の話をしながら、
「チョン先生はね、その人の明るい性格がうらやましいんだ」と言ったら、光くんはこう言ってくれました。
「先生もきっとそうなれるよ」って。
ただ、うらやましいと言うだけの夢、そして日曜学校を作りたいと思うだけの夢などは、何の力もなく無意味のように見えるかも知れません。しかし、いますぐでなくてもいつかは綺麗な虹が現れるだろうと、そして私と同じ夢を見る人が一人二人現れるだろうという期待をもって、激しい雨の中、ハンドルを握っていたときをもう一度思い浮かべてみました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)