〝コロナ時代における新しい神学を〟

去る3月20日(土)に開催されたキリスト新聞社主催のオンライン配信イベント「コロナ時代に問う『神学+教育2.0』」に、いずれも畏友の同志社大学の小原克博教授、関西学院大学の中道基夫教授と共に、パネリストとして参加しました。各パネリストが奉仕する大学の現状や、オンラインかリアルかという二者択一の議論を超えて、「ポストコロナ」のキリスト教、学校、教会が生きる道について語り合いました。私も小原先生や中道先生からさまざまな気づきを与えられました。
 中道先生は、「オンラインによって、教会に集まる意味や礼拝の本質が問われることになったと同時に、これまで多忙であった牧師が信徒と共に学ぶ時間が取れるようになり、普段は仕事などで主日に教会に行くことが困難な人々に対しての宣教のチャンスが生まれたのではないか」と指摘されました。小原先生は、「礼拝とは説教を聴いていれば良いというものではなく、教会はキリストの体であり、すべての者がキリストの体につながっていることを再確認する場である。そう考えるとき、本当にオンラインで十分なのか考える必要がある。私たちはあえて自由を放棄して、毎週教会に集っている。不自由で不便な教会には、世の中にはないものが教会にはあるのだということを示し続けなければならない」と問われます。
 私は聖公会の立場から、北海道教区の植松誠主教さまの牧会実践を紹介しながら、一人ひとりへの丁寧な顔と顔を合わせた聖餐を通した具体的なつながりが、私たちにとっていかに重要なものであるかを強調させていただきました。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックという危機を経験した私たちが、社会に通用する言葉で、新しい神学をどのように語っていくのかが、教会の宣教的・社会的責任であるという点で、私たちは一致しました。

麦畑(「ともしび」3・4月号)

 主教としての働きをはじめて、あらためて感謝なのは、教区の一つひとつの教会を訪問できることです。降臨節には、実に30年ぶりに一宮聖光教会を訪れる機会が与えられました。現在、聖堂の新築中ですが、旧聖堂での主教司式の最後の聖餐式を信徒のみなさまと共におささげすることができました。
 礼拝前、聖堂前の植え込みに、少し錆びた恐竜のオブジェが置かれているのを発見しました。信徒さんに伺うと、それは長い間司牧された菊田謙司祭の娘さんで、かつて私が名古屋学生センターの主事をしていた頃からの青年仲間の片岡真実さんが作られた、大学の卒業制作だとのことでした。
 真実さんは今や世界的なキュレーターとなられ、現在、東京・六本木にある森美術館の館長や国際美術館会議会長を務められています。先日も森美術館の特別展を、片岡館長直々のご案内で鑑賞させていただきました。1月5日付け朝日新聞夕刊にも一面を使って真実さんのインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で印象深かったのは、「名前『真実』は新約聖書の一節に由来する」と記されていたことです。
 昨年末、2022年に開催される国際芸術祭「あいち2022」(旧「あいちトリエンナーレ」)の芸術監督を、真実さんが担われることが発表されました。その記者会見の中で、未来のみならず過去の多様な人類の歴史にも光を当て、新型コロナウイルスや、人種、ジェンダー、民族的な差異に対する差別や不平等などの課題を、現代の問題としてとらえ対峙していくことの大切さを強調された上で、こう語られたのです。
 「生きることは学び続けること。未知の世界、多様な価値観、圧倒的な美しさと出会うこと」
 私は、これはまさに彼女の「祈り」なのではないかと思います。私たち教会が語るべきメッセージのひとつが、ここにあります。

麦畑(「ともしび」1・2月号)

新主教コラムのタイトルを『麦畑』とさせていただきました。私が聖公会神学院在学中、教区のみなさまへほぼ隔月でお送りしていましたお便りのタイトルが『麦畑』でした(法用主教さまからは「毒麦」と茶化されていたのですが)。どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、昨年10月24日の主教按手式において、私は日本語、英語、韓国語でご挨拶をさせていただきました。それぞれ内容は異なるのですが、韓国語で何を話していたのか、とのご質問を多数頂戴しましたので、以下にその概要を紹介します。
 「私自身、今から40年ほど前に出会った韓国の聖公会、エキュメニカル青年たちとの関係において、多くのことを学んできました。中部教区も1995年に韓国聖公会ソウル教区と姉妹教区関係を締結し、深い相互交流を支援してきました。19
96年、日本聖公会は総会で『聖公会の戦争責任に関する宣言』を採択しました。その中で、戦時における日本国家の植民地支配と侵略戦争を支持、黙認した責任を認めて、その罪を告白しました。その後、日本聖公会は、韓国聖公会から多くの司祭さまたちをお迎えすることができ、日本全国で宣教活動に大きなご貢献をしてくださっています。この中部教区でも、丁胤植司祭さま、金善姫司祭さまが熱心に牧会にあたられています。これからも、ますます日本聖公会中部教区と韓国聖公会、そしてエキュメニカルで多彩な交流を深めてまいりたいと願っています」
 今、日本聖公会はどこの教区においても、韓国からの司祭さま方の存在なしには宣教・牧会は不可能です。しかし、このことが実現している意味とその歴史を、私たちは常にしっかりと意識しておきたいのです。

気が進まないことに向かう

前回の教役者協議会の開会礼拝の奨励はJ司祭でした。J司祭は当初、幼稚園や保育園のない教会での勤務を希望していました。実は子どもが少し苦手だったのです。しかし、教区の事情でそうも言っていられなくなり、ある時から幼稚園が隣接する教会の管理をすることになりました。当然、チャプレンにも任命されました。

彼は気が進まないまま子どもたちと関わり始めました。そんな彼の思いとは関係なく子どもたちは、気は優しくて力持ちの彼が大好きになりました。そのことが彼を変えました。子どもが好きになったのです。ある礼拝のあと、子どもたちが彼のところに来て、「先生、今日のお話良かったね!」と言ってくれたそうです。「教会ではなかなかそう言ってもらえないのですが…」と少し嬉しそうでした。

わたしたちにも気が進まないことがしばしばあります。時にはその気が進まないことから逃げてしまうこともあります。しかし、気が進まなくてもそこに留まるとき、J司祭のように思わぬ気づきと恵みがいただけるのです。

主イエスは十字架の直前、「父よ、…この杯(十字架)を私から取りのけてください」(マルコ14:36)と祈られました。イエス様にとって十字架が気が進まないことではもちろんありませんが、それでもイエス様の中にその大きさのゆえに多少の躊躇があったということを知るとき、少しほっとするのです。そういうイエス様だからこそ、わたしたちが気が進まないとき、〝大丈夫だから前に進みなさい〟と励ましてくれていると思うからです。

西原廉太司祭(主教被選者)の按手・就任式の準備が進められています。西原司祭は立教大学と聖公会神学院の教員も兼務します。主教職を務めるためには皆様のご理解と協力が必要です。どうか西原司祭のためにお祈りください。

主教 ペテロ 渋澤一郎

教区の歩み100年

この度、中部教区成立100周年記念誌である「教区のあゆみⅡ〜中部教区成立100周年記念〜」がめでたく無事に発行されましたこと、心よりお喜び申し上げます。編集に当たられた文書保管部の皆様のご努力と情熱と忍耐に感謝いたします。

この記念誌の発行が検討され始めたのは、編集後記にもありますように2007年になります。1962年には教区の50年史である「教区のあゆみ」が発行されていましたが、2012年の教区成立100周年を機に、教区成立50年以降の歴史をきちんとまとめなくてはという意図のもと、100年誌の準備が進められてきました。

2012年10月には国内外から多くの皆様方の参加を得て、教区成立100周年の記念礼拝とそれに関わる諸行事を行うことができました。100年誌は、必ずしもその時に発行できなくても、より正確な記録を残すことを目標に、時間をかけて編集が進められてきました。その成果が今ここに実現したわけです。

「教区のあゆみ」の編集後記には、「此の歴史には…教役者のみの事が出てきて信徒各位の事が出て来ない。これではほんとうの教区歴史とは言えない」と記されています。「教区あゆみⅡ」は教区・教会・関連施設の歴史が幅広く記されており、必ずしも「信徒各位の事」だけが記されているわけではありませんが、執筆者は各教会・施設に関わる信徒や職員の皆さんが中心になっています。

そういう意味から言いますと、「教区のあゆみ」が聖職者中心に編集されたものであるとすれば、この「教区のあゆみⅡ」は信徒と教役者が協働して執筆・編集されたものであり、「ほんとうの教区歴史」と言えるのではないでしょうか。

装丁もしっかりしていますので、今後何十年の使用や保存にも十分耐えられます。多くの皆様に是非目を通していただき、宣教の励みと力にしていただければ幸いに思います。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝更なる高みを目指して…名古屋柳城女子大学〟

今年、創立121周年を迎えた柳城学院は、この度、 4年制大学「名古屋柳城女子大学(こども学部)」の設置が認可されました。柳城学院では現在、名古屋柳城短期大学と附属幼稚園3園を設置していますが、新たに4年制大学が加わることになりました。

4年制大学の構想は一昨年から検討が始められ、理事会、評議員会の議を経て、昨年10月、正式に文部科学省に認可申請をしました。その後、申請が受理され、審査が進められてきました。法人としての適性さ、教育内容の精査、教員体制、施設整備等に関しての書類及び面接審査・実地審査を経て、今回の認可に至りました。わたしも何回か文科省に出向いて大学設置審議会の面接に臨み、また、短大に委員を迎えての審査も受けましたので、今回無事に認可され、ホッと胸をなでおろしているところです。

今日、乳幼児の保育・教育に対する社会的ニーズは多様化・複雑化しています。保育者には高度な専門性のみならず、幅広い社会的視野やかけがえのない命を預かる者としての使命感と包容力のある豊かな人間性が求められています。また、殊に、愛知県においては多文化共生という視点での保育も必要とされています。

そのようなニーズに対応するため、従来の短期大学での保育者養成に加え新たに教育課程を編成し、キャンパス環境も整え、4年制での保育者養成に取り組むことにしました。これまでの柳城の保育者養成の経験と実績の上に更なる保育者養成の高みを目指したいと願っています。

これから学生募集が始まります。学生確保のため奨学金制度の充実を含めた学生支援体制も整えつつあります。新たな柳城で更に多くの方々が学んでいただくことを願っています。教区の皆様方にも更なる柳城の発展のため、ご理解とご支援を心よりお願い申し上げる次第です。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝働き手が少ない!!〟

先日、聖公会神学院を訪れ、神学生の皆さんと交わる機会が与えられました。以前から神学院の校長先生が各教区主教たちに神学生と交流をしてほしいとの希望を持っておられ、今までにも何人かの主教さんたちが神学院を訪れていました。今回は中部のわたしに声をかけていただきました。久しぶりに学生寮にも入り、昔とはずいぶん変わっていましたが、大変懐かしい思いがしました。

初日の夕方にお邪魔して夕の礼拝を一緒に献げ、夕食も神学生と一緒に食堂でいただき、次の日は朝の祈りを献げ、朝食をいただき、午前中1時間半ほど中部教区のことや自分のことなどを話させていただきました。

現在、聖公会神学院には5名の神学生が在学しており、全員聖職候補生で、内4名は女性です。男性の神学生は1人です。最近の神学生は様々な社会経験を経て神学校に来ておられる方が多く、実際に教会に遣わされたとき、その経験が宣教や牧会の現場で大いに生かされることと思います。それに皆さん仲がよろしいようで何よりです。わたしたちの頃はよく神学生同士が殴り合いをしたこともありました。

ただ、現在の神学生4人が来年の3月には卒業・修了予定ですので、新たな入学生がないと神学生が1名になってしまいます。それは京都のウイリアムス神学館も同様です。

中部教区では相原太郎聖職候補生がこの3月に神学院を修了してから神学生(聖職候補生)はいません。これからの2年間でわたしを含め3名の聖職が定年を迎えます。イエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37〜38)と言っておられます。働き手が与えられるよう神様に願い求めてまいりましょう。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝譲渡令書〟

一昨年も触れましたが、岐阜市の「岐阜空襲を記念する会」による「子どもたちに伝える平和のための資料展」が今年も岐阜市・メディアコスモスで開催されました。今年は「お宮さんもお寺さんも火に追われた〜岐阜空襲のときの神社・お寺・教会」というテーマで展示が行われ、戦前の岐阜聖公会の建物疎開に関する資料も展示されました。

実は、相原太郎聖職候補生が教会の事務室から当時の強制疎開の命令書である「譲渡令書」を発見し、その写しが展示されたのです。そういう命令書が残っていること自体大変珍しいそうで、岐阜新聞や京都大学の関係者も関心があるようです。

そういえば、わたしが岐阜の牧師時代、小笠原主教様から教会の強制立ち退きの話を伺ったことがありました。当時、神田町にあった教会が空襲に備えるため強制的に立ち退きをさせられ、美濃太田に疎開したということでした。県の命令なので立ち退き料など一銭もなかったと言っておられたのを記憶しています。

譲渡令書は岐阜県知事名で、「(岐阜聖公会に係る)建築物ハ防空疎開事業施行ノ爲必要ニ付…岐阜縣ニ譲渡スベシ…防空法…ノ規程ニ依リ命令ス」というものでした。令書の日付が4月25日で、5月5日までに譲渡すべしというもので、極めて短時間での立ち退き命令です。その後、7月9日の空襲により岐阜市の中心部は灰燼と化し、約900名の方々が命を落とされました。

いざ戦争になれば一切の個人的な状況は配慮されず、すべてが「お国のため」に犠牲にされます。時代が変わってもその状況は変わらないでしょう。戦争を知らない世代が人口の8割以上を占める時代になりました。戦争が起こったらどうなるのかということへの想像を大いに働かせ、そうならないように努めなければならないのです。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝北海道教区と中部教区〟

去る5月16日(木)から18日(土)、北海道教区の教役者会と教区成立145周年記念の教区礼拝に参加させていただきました。教役者会では講話を、教区礼拝では説教をさせていただきましたが、北海道教区の空気を肌で感じることもでき、また、中部教区のことも少し報告させていただきました。他教区のことはなかなか分からないことが多いのですが、小さくてもこのような交流を通してお互いをより良く理解することができるのではないかと感じました。

実は、北海道教区と中部教区とはお互いに初期の宣教段階では関わりがあります。中部教区の宣教は1875年(明治8)、英国聖公会宣教師のP.K.ファイソン司祭によって新潟で始められましたが、ファイソン司祭は後に北海道教区初代の主教になっておられます。ですから、ファイソン司祭(主教)の働きを通して中部教区と北海道教区とはつながっているとも言えるのです。

ファイソン司祭は新潟で7年間宣教されましたが、その間、10名ほどの受洗者があったと「教区のあゆみ」には記されています。その内のお一人が後に中部でも働かれた牧岡鐵彌司祭で、もうお一人が芥川清五郎師です。芥川師は後に北海道教区で伝道師になり、バチェラー司祭のもとでアイヌ伝道にも従事された方です。そんなつながりも北海道教区と中部教区にはあるのです。(芥川先生のお孫さんたちにもお会いできました。)貴重な経験に感謝でした。

7月10日(水)には教区逝去教役者記念聖餐式が行われますが、当日は丁度、森紀旦主教様の逝去1周年に当たっています。敦子夫人と主教様の妹さん、弟さんも出席される予定になっています。主教様の葬儀は東京で行われましたので、当日は教区としての逝去記念式の意味も含まれます。皆様のご出席をお願いいたします。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝塗油のすすめ〟

去る4月18日・聖木曜日、聖油聖別の聖餐式が行われました。聖油は祈祷書の「病人訪問の式」の「塗油」で使用されます。祈祷書には、「教会はその初めから病人に塗油し、その体と魂の回復を祈ってきた」とありますが、新約聖書のヤコブの手紙の「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」から来ています。また、福音書にも使徒たちが油を塗って病人を癒したこと書かれていますので、塗油はイエス様の大事な業の一つなのです。

塗油は病気の人の体と心の癒しを目的としていますが、多くの場合、病気がかなり重篤になってから用いられることが多いようです。塗油は決して終わりに用いるものではなく—もちろん、その場合にも使われますが—体と魂(心)の回復を祈るものですから、どんな病気に用いてもいいのです。風邪をひいて熱がある、というような時でもいいのではないでしょうか。塗油は決して魔術ではありません。主イエス様の名によって祈ることが大事なのです。その祈りと共にイエス様がいてくださり、病気の人が身体的にも精神的にも元気になるように—起き上がることができるように—力を与えてくださるのです。聖油が大いに用いられますように。

4月6日、退職されて大阪にお住まいであった村岡明司祭が91歳で逝去されました。村岡司祭は1986年、大阪教区から中部教区に移籍され、主に上田、軽井沢で宣教・牧会に従事されました。今日の軽井沢ショー記念礼拝堂の基礎も築かれました。村岡司祭の魂の平安をお祈りいたします。