大型連休中、教区センターはお休みです

5月6日(水)まで、中部教区センターはお休みです。
この期間中のお問い合わせは留守番電話またはメールでお願いいたします。お急ぎの方は、総主事・諸岡研史携帯までお願いいたします。

また、当面の間、中部教区センターの営業時間を10:00~16:00まで短縮いたします。
ご理解の程、よろしくお願いいたします。

2020年イースター・メッセージ

2020年4月12日
主教被選者 司祭 アシジのフランシス 西原廉太

[Youtubeで字幕機能をONにすると字幕が表示されます]

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 私たちは、主のご復活を祝う復活日、イースターを迎えました。しかしながら、今年、2020年のイースターは、後のキリスト教の歴史においても、異常な事態の中で迎えたと特別に記録されることでしょう。本来は、主のご復活を、日本聖公会、中部教区のすべての教会で、豊かにお祝いするはずでしたが、今般の、新型コロナウイルス感染症の急速な蔓延、世界的なパンデミックという状況の悪化に直面し、教区としても、大変残念なことに、聖週、イースターも含めて、5月24日までの主日及び週日の礼拝は、教役者・信徒が一堂に会して行うことを休止する、という苦渋の決断をすることとなりました。3月28日に予定していました中部教区主教按手式も一度は5月2日に延期したものの、10月24日へと再度延期せざるを得なくなりました。その間は、横浜教区の入江主教さまが、私たち中部教区の管理主教を担ってくださりますので、どうぞご安心ください。

illust-anglican 教会に集うことができず、共に聖餐式や祈りをおささげできないことは、私たち聖職たち、そして信徒の皆さんにとって、これ以上に辛いことはありません。しかし、大切なことは、だからと言って、私たちは教会を閉じているわけではない、ということです。世界の聖公会、アングリカン・コミュニオンの公式ホームページを開きますと、このような素敵なイラストが出てきます。そして、ここに重要なメッセージが記されています。

「教会は閉じているのではありません。ただ、建物だけを閉じているのです。なぜなら、私たちが教会だからです。私たちこそが、主イエス・キリストの生ける<からだ>だからです。そして、私たちはこの世界中、至るところに存在しているからです」

皆さんお一人おひとりが教会なのです。仮に聖堂という建物に集うことができなくても、皆さんお一人おひとりが、それぞれの場で、心を合わせて祈られる時に、そこに、主イエス・キリストの生ける<からだ>が実現しているのです。ですので、ぜひ、この異常な事態の中にあっても、私たちは、主にすべてを委ねて、主を信頼して、共に祈りを合わせたいのです。今、それぞれの場で祈っている教会の仲間たちを覚えて、また、新型コロナウイルス感染症のために苦しんでいる方々、そのご家族、困難の中、治療にあたられている医師や看護師の方々を覚えて、この世界中で、言い知れない不安の内に、心を痛めているすべての方々を覚えて、心を合わせて祈りましょう。

さて、そのような恐れと不安の内にある私たちにとって、本日の復活日の福音は、深い励ましを私たちに与えてくれます。イエスさまが十字架に架けられ、墓に葬られた。その週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアが、墓に行った、とあります。なぜ葬られた直後ではなかったかというと、ちょうど安息日が重なり、彼女は何もできなかったからです。安息日が終わると、まだ夜も明けない暗い内に、彼女はすぐに、いてもたってもいられずに、イエスさまが葬られた墓に駆け出して行きました。

彼女は、少しでも早く、イエスさまの遺体に香油を塗ってあげたかった。イエスが十字架に架けられ絶命し、さらに槍でわき腹を突かれ、血を流されたその姿を、マグダラのマリアは目の当たりにしていました。ヨハネによる福音書第19章25節にはこう記録されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。マグダラのマリアはその場にいながら、ただただ茫然と立ち尽くすしかなかった。彼女は、おそらく言い知れない無力感に打ちのめされたに違いありません。あれほど愛して、つき従っていた主イエスが今、死に行こうとしているのに、何一つすることができないのです。彼女の中には、「なぜ」という言葉が渦巻いていたはずです。「なぜ」私たちの主が、この地上から、私たちのもとから取り去られなければならないのですか。神さまは「なぜ」、私たちの愛する主をお守りくださらないのですか。「なぜ」このような試練を私たちにお与えになるのですか、と。

そんな彼女が、最後に主イエスにして差し上げられる唯一のことが、イエスさまのお体に香油を塗ることでした。しかし、マグダラのマリアがイエスさまの葬られた墓に辿りついた時、そこには驚くべきことが起こっていました。墓から石が取りのけてあり、墓の中にあるはずのイエスさまの体がなかったのです。彼女は、急いでペトロのところに駆けつけてこう報告しています。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません」。それを聞いたペトロたちも墓に走って確認しに来ます。この時の様子を伝えるヨハネによる福音書の記述は実に興味深いものです。ペトロたちは、墓の中を検分し、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れたところに丸めてあった」ことを確認し、それで、彼らは「信じた」、納得したというのです。きわめて冷静に墓の中を調べ、それで納得できてしまうものなのか、と正直思います。マグダラのマリアは違いました。20章11節にはこうあります。「マリアは墓の外に立って泣いていた」。彼女は、ペトロたちが納得して帰った後も、ずっと墓の外で泣き続けていたのです。彼女は言葉にもできない、悲しみと不安、恐れの中で、ただひたすらに、ぶるぶると震えながら、墓の外で泣き続けていた。彼女の中には、さらなる「なぜ」が溢れてたはずです。「なぜ」イエスさまのお体さえもが取り去られてしまうのですか。「なぜ」、主のからだに油を塗ることさえも許されないのですか。「なぜ」神さまは、こんな不安と悲しみ、恐れを私たちにお与えになるのですか、と。

そんな彼女のそばに、いつの間にかイエスさまが立たれていました。20章15節をもう一度お読みします。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

主イエスは、マリアにこう語りかけられるのです。「なぜ泣いているのか」と。あなたはなぜ泣いているのか。ここできわめて大切なことは、実は、イエスさまは、マリアが泣いているその理由を尋ねておられるのではない、ということです。彼女が立ち尽くし、打ち震えながら泣いているその理由は、すでにイエスさまご自身が十分に知っておられるのです。イエスさまがマリアに、「なぜ」とこう語りかけられたのは、彼女の涙の理由を知りたいからなどではなく、「あなたは、なぜ泣いているのか、泣く必要など何もないのだ」ということを、彼女に気づかせたいからでありました。私があなたの傍に今もいるのだから、何も恐れることはない、あなたはもう泣かなくてもいい。主はそのことを、彼女に伝えようとされていたのです。

実はこの「なぜ」というのは、マグダラのマリアがずっと抱えていた問いに他なりませんでした。「なぜ」私たちの主が、この地上から、私たちのもとから居なくならなければならないのですか。神さまは「なぜ」、私たちの愛する主をお守りくださらないのですか。「なぜ」このような試練を私たちにお与えになるのですか。「なぜ」イエスさまのお体さえもが取り去られてしまうのですか。「なぜ」、主のからだに油を塗ることさえも許されないのですか。「なぜ」神さまは、こんな不安と悲しみ、恐れを私たちにお与えになるのですか、と。

この「なぜ」という問いは彼女の「無力さ」とも裏表です。私には、十字架に架けられたイエスさまを前にして何もできなかった。ただただ茫然と立ち尽くすのみであった。唯一の彼女ができる最後の主に対する奉仕のはずであった、遺体に香油を塗ることすらも許されなかった。何という無力さでしょうか。

この「なぜ」という問いと「無力さ」は、マリアだけのものではなく、私たち一人ひとりの「なぜ」であり、「無力さ」でもあります。私たちもそれぞれの日常の中で、いつも何かしら、この「なぜ」を神さまに問い、「無力さ」に打ちひしがれる存在です。神さまはなぜ、私に、こんな抱えきれないような重荷を背負わされるのですか。なぜ、あなたは、こんな悲しみや苦しみを私にお与えになるのですか。あるいは、あの時、なぜ、私は、こうしなかったのか。私はなぜ、あの時に、あの人の傍に居てあげられなかったのか。私たちにはそのような「なぜ」もあります。

今、私たちは、新型コロナウイルス感染症の急速な蔓延、多くの方々が治療のかいなく死にゆく事態に直面し、まさしく神さま「なぜ」と叫ばざるを得ません。目には見えない得体の知れないものに対する恐怖と不安の中で、私たちの心も蝕まれています。医療や看護に献身的に、犠牲的に携わる方々は、必要な措置も出来ぬまま、救えなかった命を前にして、絶望と無力さに苛まれておられると聞きます。そのような医療従事者の方々ご自身が、感染されてしまうという事例を耳にする時、私たちには祈る言葉すらも見つからなくなるのです。

イタリア政府は、4月6日の時点で、新型コロナウイルスに感染した方が13万2547人、亡くなった方が1万6523人に至ったと発表しました。そのイタリアで、北部ロンバルディア州ベルガモ県カスニーゴのローマ・カトリック教会司祭長のジュゼッペ・ベラルデッリ神父さまは、新型コロナウイルスに感染され、重篤となられました。しかしながら、報道でもご承知のように、イタリアでは人工呼吸器が圧倒的に足りません。ベラルデッリ神父さまは、ご自分が使用していた人工呼吸器を、若い感染者に譲って欲しいと医師たちに懇願し、人工呼吸器が外されて間もなく、3月15日に、ベルガモ県の病院で息を引き取られ、主のもとに召された、ということです。72歳でした。ベラルデッリ神父が司祭長を務める地域の住民たちは、神父の死を知ると、窓越しから「慈悲の殉教者」と拍手で称えた、と言います。

今、私たちも不安でいっぱいです。また、無力さに打ちのめされています。本当は、こうして人々が極限の苦難に遭っている時にこそ、皆で教会に集い、祈り、そして、苦しんでいる人々のもとに駆け付けて奉仕をしたいのです。しかし、それは叶いません。私たち自身のいのちを守るためだけではなく、私たちが移動することによって感染を拡大し、私たちが教会に集うことによって、いわゆる感染のクラスターを発生させるということがあってはならないからです。私たちキリスト者、教会にとって、本来クリスマス以上に大切な最大の聖日である「復活日」すらも教会に集わない、集えないという、誠に苦渋の決断を、私たちもせざるを得ませんでした。私たちは神さまに問いたいのです。「なぜ」と。なぜ、ご復活日にさえも、教会に集って共に祈ることさえ許されないのですか、と。しかし、この私たちの「なぜ」は、主イエスのお体に油を塗ることさえも許されなかった、マグダラのマリアの「なぜ」とまさしく同じものなのです。

そんなマリアに、イエスさまは、「あなたは、なぜ泣いているのか」と語りかけられるのです。そんな私たち、一人ひとりに、主は語りかけられるのです。「あなたは、なぜ泣いているのか」と。主は、私たちの尽きることのない「なぜ」を取り上げられるのです。そして逆に、私たちに「なぜ」と問いかけられる。主は、私たちがなぜ泣いているのかは、すでに十分に知っておられる。主は、「なぜ」なのかと悲しみ嘆くその私たちの「なぜ」をそのまま引き受けてくださる。そして、こう私たちに語りかけられるのです。「あなたは、なぜ、泣いているのか。あなたはもう、泣く必要はないのだ」と。

この時、私たちは気づかされるのです。本当は、この「なぜ」を問うことができるのは、唯、主のみであることを。私たちが「なぜ」と問う時に、私たち自身の人生の主人公はあくまでも「私」です。けれども、私たちが主から、「あなたは、なぜ、泣いているのか」と問われる時に、「なぜ」を語るのは主のみであり、私たちは、神さまによって、息を与えられ、私たちの人生は主のみによって導かれていることに、あらためて気づかされるのです。「あなたは、なぜ泣いているのか。私を信じ、すべてを私に委ねなさい。私は必ずあなたと共にいる。だから、あなたはもう泣かなくていい」。私たちは、その主の問いかけに、ただひたすらに、ただ一言、「アーメン」と応えて、主につき従うだけでいい。

マリアは、最初、「なぜ泣いているのか」と問われた方が、どなたかは分かりませんでした。聖書には、園丁だと思っていた、とあります。しかし、20章16節には、さらにこう記されています。

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

まだ朝早く暗い中で、「マリア」と呼びかけられたその声は、彼女にとって忘れもしない、あの懐かしく、優しい主の声であったに違いありません。私たちは、それぞれの人生の中で、それぞれの日々を生きる中で、決して答えの出ない「なぜ」という問いに躓き、私たちの無力さに、涙を流します。しかし、「私はよみがえりであり、命である」と宣言されるご復活の主は、そんな私たちを無条件に抱きしめてくださる。迷える子羊を見つけ出して、その両手でしっかりと抱きかかえる羊飼いのように、ご復活の主はどこまでも皆さんお一人おひとりを愛し、包んでくださる。そして、あの優しく懐かしい声で語りかけてくださる。「あなたは、もう泣かなくても良い。私が必ずあなたと共にいるのだから」と。

私たちのあらゆる「なぜ」を引き受けてくださる主に、すべてを委ねましょう。そして、ただひたすらに「アーメン」と応えながら、主のご復活の道を共に歩みましょう。

 

お祈りいたします。いつくしみ深い神さま、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神さま、世界のすべての人々と共に手を携えて、助け合って、この危機を乗り越えることができるよう、お導きください。
ご復活の主なる神さま、あなたは、言い知れない不安と恐れの内にあるマリアに、「あなたは、なぜ泣いているのか」と語りかけられました。「私は必ずあなたと共にいる。だから、あなたはもう泣かなくていいのだ」と招かれる主に、私たちが、ただひたすらに「アーメン」と応え、主につき従うことができますように、どうぞ、強め、導いてください。
この祈りを、ご復活の主イエス・キリストのみ名を通して、み前におささげいたします。

アーメン

新型コロナウイルス感染症への対応について2

中部教区の皆さま

2020年 4月3日
日本聖公会中部教区
管理主教 イグナシオ 入江 修
常置委員会

✛主の平和がありますように。

聖週を目前にして、新型コロナウイルス感染症の対策に心をお砕きのことと存じます。

残念ながら、感染が収束し主のご復活の日をお迎えしたいという願いは叶わず、ご承知のとおり私たちの想像を超える速度で世界的規模の感染拡大(パンデミック)が続いており、日本政府から緊急事態宣言が発令されることも現実味を帯びてきました。中部教区は、2月26日付の教区方針及び3月17日開催の常置委員会決議に基づき、主日礼拝は十分に衛生・健康管理を徹底した上で執り行う(聖餐式は一種陪餐)ことを各教会にお願いしてきました。また、主日以外の礼拝については極力自粛し、教会委員会をはじめその他の行事や集会等も原則中止か延期、どうしても必要な場合は感染に十分注意しながら最小限に留めることを勧めてきました。

 しかし、今般の急速な新型コロナウイルスの感染拡大に鑑み、緊急常置委員会をメール会議にて開催し、下記のとおり新たな方針を決定しました。〔復活日〕をはじめ、主日に教会に集い、共に礼拝を献げることができないという、本当に辛く苦しい決断ではありますが、神さまに与えられた「一人ひとりの尊い命を大切に守る」ことを最優先に考えることが、地上に生きるキリスト者の責任であると思います。皆さまには、ご理解を賜りますよう切にお願い申し上げます。


  1. 4月5日(日)から5月24日(日)までの主日及び週日の礼拝は、教役者・信徒が一堂に会して行うことを休止する。
    但し、緊急決定のため4月5日の礼拝については、各教会の判断で実施も可としますが、その場合は十分な感染予防の配慮をお願いします。

    • 教役者は定時に礼拝を献げ、信徒の皆さんは各自宅で祈りを合わせてください。
    • 信徒の皆さんは祈祷書と聖書をご準備の上、以下の順序で礼拝を献げることをお勧めします。
      1. 定時になったら、 「父と子と聖霊のみ名によって アーメン」 と唱える。
      2. 「主の祈り」を唱える。
      3. その日の「特祷」を唱える。
      4. その日の聖書日課「旧約聖書(使徒言行録)、使徒書、福音書」を朗読し、黙想する。
      5. 諸祈祷、感謝(祈祷書106ページ以下)の中から適当な祈りを用いる。
      6. 最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように アーメン」 と唱える。

      また、東京教区で用いられているオンラインによる礼拝もお勧めします。以下のWebサイトから入ることができます。
      http://www.anglicancathedral.tokyo/index.html
      「自宅で行う主日礼拝」をクリックしてください。自宅で行える、み言葉の礼拝式文、聖書日課、聖書の黙想、聖餐式の録画ビデオ等が提供されています。

    • 5月24日以降の対応については、5月18日に開催される常置委員会において協議し、早急にお知らせします。
  2. 上記期間中の教会委員会を含む集会、行事等は、原則中止か延期する。

    開催が必要な場合は、できればWeb会議、メール会議等での実施をご検討ください。
    どうしても少人数での開催が必要なときは、3密(密閉空間、密集場所、密接場面)の回避、マスクの着用、手指消毒の徹底を心掛けるなど、十分注意を払い実施してください。

  3. この間の諸献金(信施金、月約献金、大斎克己献金、イースター献金等)は、主日礼拝の再開時にお献げください。
  4. 葬儀については、十分な感染予防対策を講じた上で執り行ってください。
  5. 教区の礼拝、会議、行事等についても、同様の対応をお願いします。

最後になりますが、新型コロナウイルスに感染された方々、懸命に治療に当たっている方々、また様々な影響を受けて困難な状況にある方々の上に、神さまの癒しと慰め、励ましとみ助けが豊かにありますように。そして、尊い命を失われた方々が神さまのみ許で安らかに憩うことができますように、心よりお祈りいたします。

在主

PDFファイル:新型コロナウイルス対応2.pdf(282KB)

「エクレシア」としての教会―新型コロナウイルスに向かい合う―

新型コロナウイルス感染症が世界的な流行を見せる中、教会でも感染の防止のため様々な対策を取ることが求められています。

本稿執筆の時点(3月15日)で、日本聖公会の11教区中5教区が公開の礼拝を休止しています。中部教区では、今のところ全面的な礼拝休止はしていませんが、近隣での感染者発生のため一時的に主日礼拝を休止した教会があり、今後の状況によっては当教区でも礼拝休止に踏み切らざるを得ない可能性もあります。

今回のウイルスは具体的症状がないうちに他人に感染する場合があり、これは自分で自覚がなくても感染源になる、また周囲にいる人から感染している、という状況が確率の問題で起こりうるということです。また厚生労働省からは、感染を防ぐために「換気が悪く、人が密に集まって過ごすような空間に集団で集まること」を避けるよう勧められていますが、多くの教会はまさにこの条件に当てはまりますし、教会には不特定の方が出入りする可能性もあります。このことから考えれば、緊急対応としての礼拝休止にはやむを得ぬところがあります。

一方、教会がその本質として「エクレシア(集会、集まること)」であることを考えれば、「危険なので礼拝を止めます」で済む話でないことは言うまでもありません。しかし、今回の感染症は条件によっては命の危険につながるものでもあり、通常の風邪などと同様に扱うことはできません。教会がいのちを大切にする共同体であればこそ、この問題には慎重に対処することが求められます。

小生が出向中の東京教区では、礼拝休止中の対応の一つとして、主教が捧げた聖餐式の録画映像を配信しており、多くの方にご利用いただいています。その中で、予想しなかったような使われ方が浮上してきました。

ある牧師が病院におられる信徒さんを訪問し、この映像をスマホで見せたところ、「ずっと教会に行けないのでとても嬉しい」と涙を流して喜ばれたそうです。また、自宅にいる時間が長い年配の方が、毎日ビデオを繰り返し見て、聖歌を歌っておられるとも伺いました。私たちは日曜日教会に行けない、聖餐にあずかれない、と言う前に、こういう方々をこれまでどれほど心にかけてきたのかと省みるべきではないか、と思わされました。

先日、カトリック教会やルーテル教会とのエキュメニズム対話の会合でも、この問題が話題になりました。ルーテル教会では当面聖餐式を執行しないこととし、またカトリックの長崎教区ではミサを中止している間、家族などで一緒に当日の聖書を読み、分かち合いをするよう勧めておられるとのことでした。今回の出来事は、私たちがみ言葉によって生かされ、それを身近な人びとと分かちあうように招かれていることを思い起こす時でもあると、両教会から教えられたように思います。

エクレシアである教会は、いかなる時にも「集まる」ことをやめてはなりません。しかし、具体的な「集まり方」には多くの可能性があることにも開かれていなければなりません。神さまは、この困難なときに、教会がどこを向いて、どう行動するように促しておられるのでしょうか。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(主教座聖堂付 東京教区出向)

新型コロナウイルス感染症への対応について

✛主の平和

新型コロナウイルス感染症による発症が国内においても多数報告されています。感染症に関して、様々な情報が⾶び交い、不安な思いをされている⽅もおられることと思います。感染予防、また他⼈に感染をうつさない努⼒が必要です。つきましては、新型コロナウイルス感染症により逝去された⽅々、発症された⽅々を覚え、祈りつつ、各教会・礼拝堂において以下のことを⼼に留めてくださるようお願い申し上げます。

PDFファイル:新型コロナウイルス対応について.pdf(668KB)

Coronavirus Disease 2019 (COVID-19) Prevention Measures

✛Peace of the Lord

There have been many cases reported of the Coronavirus Disease 2019 (COVID-29) in Japan with much information about the infectious disease, making some people feel nervous. We need to prevent ourselves from being transmitted and transmitting it to others. We give our condolences to those who have sadly passed away from this new Coronavirus Disease 2019 (COVID-19). Please remember and continue praying at each church and chapel.

PDF: Coronavirus Disease 2019 (COVID-19)

教区の新しい方向に向かって!

〝ともしび〟に現職として執筆させていただくのは今回が最後になります。3月31日、定年退職を迎えます。想い起こしますと1976年4月に実習聖職候補生として名古屋聖マタイ教会に赴任してから足掛け44年、中部教区で働かせていただいたことになります。

その間、勤務した教会は定住教会としては8教会、管理を含めますと20教会になるでしょうか。そして、最後の10年は教区主教として働かせていただきました。すべてにおいて十分な働きができたかどうかは分かりませんが、この小さな器を神様の働きのために用いていただいたことは感謝以外の何ものでもありません。今までの皆様からのお支えに心より感謝申し上げます。

わたしは現職を退かせていただきますが、西原廉太司祭が次期の教区主教に決まり、西原主教のもと−もちろん主教だけではなく教区の信徒・教役者みんながその役割を担うのですが−中部教区の礼拝・宣教・牧会の働きがますます豊かにされますよう祈っています。もちろん、わたしも退職聖職として可能な限り協力をさせていただきたいと思っております。

西原主教の教区主教就任は中部教区の礼拝・宣教・牧会の働きに大きな変化をもたらすことになるでしょう。教区主教としての働きがわたしまでの主教の在り方とは異なってくると思われるからです。具体的な変化はこれからのことになると思いますが、信徒も教役者も意識を変えその変化に対応していかなければならないでしょう。

そういう意味で、西原主教の就任は中部教区に新しい方向性を与えるものであり、聖霊の導きがそこにあるのです。ですから、かねてから懸案であった教区組織の変革もためらうことなく思い切って行っていいのではないでしょうか。

また、管区的には現在の教区制についての在り方に問題提起がなされています。「伝道教区制(仮称)」という考え方も主教会から出されていますが、今年の日本聖公会総会の大きな議論になってくるのは間違いないでしょう。中部教区として教区制の課題にどう向き合うのか、それも教区のこれからの在り方に深く関わってきます。

しかし、いろいろ課題があっても大事なことは、どんなに組織や体制が変わろうとも神様へのわたしたちの信仰は変わらないということです。教会は組織ではありません。一人一人の信仰があるところに教会があります。ですから、わたしたち一人一人の信仰をしっかりと保ちましょう。難しいことではありません。わたしは、礼拝も宣教も牧会も何か特別なことをしなければ前に進まないとは思いません。むしろ、信仰的に基本的なことを大切にし、一人一人の小さな魂に、また、一つ一つの小さなことに心を向けること。それが宣教や牧会の基本になるのであり、そこに誠実で丁寧であることによって、その先の宣教や牧会の新たな展望が見えてくると信じるからです。

イエス様の働きはガリラヤ地方における小さな働きでした。しかし、その小さな働きこそが父なる神様の偉大な働きだったのです。各個教会のごく小さいと思われる活動や関わりを大切にすること、それが教区、教会の更なる活性化につながるのです。

主イエスの祝福と恵みが皆様と共にありますように。

主教 ペテロ 渋澤一郎

聖職按手式のお知らせ

当教会勤務の相原太郎聖職候補生が、2月22日に聖職(執事)に叙任されます。按手式の予定は以下の通りです。

日時:2月22日(土曜日)午前10時30分〜
場所:中部教区主教座聖堂 名古屋聖マタイ教会
司式・説教:中部教区主教 ペテロ渋澤一郎師父

気が進まないことに向かう

前回の教役者協議会の開会礼拝の奨励はJ司祭でした。J司祭は当初、幼稚園や保育園のない教会での勤務を希望していました。実は子どもが少し苦手だったのです。しかし、教区の事情でそうも言っていられなくなり、ある時から幼稚園が隣接する教会の管理をすることになりました。当然、チャプレンにも任命されました。

彼は気が進まないまま子どもたちと関わり始めました。そんな彼の思いとは関係なく子どもたちは、気は優しくて力持ちの彼が大好きになりました。そのことが彼を変えました。子どもが好きになったのです。ある礼拝のあと、子どもたちが彼のところに来て、「先生、今日のお話良かったね!」と言ってくれたそうです。「教会ではなかなかそう言ってもらえないのですが…」と少し嬉しそうでした。

わたしたちにも気が進まないことがしばしばあります。時にはその気が進まないことから逃げてしまうこともあります。しかし、気が進まなくてもそこに留まるとき、J司祭のように思わぬ気づきと恵みがいただけるのです。

主イエスは十字架の直前、「父よ、…この杯(十字架)を私から取りのけてください」(マルコ14:36)と祈られました。イエス様にとって十字架が気が進まないことではもちろんありませんが、それでもイエス様の中にその大きさのゆえに多少の躊躇があったということを知るとき、少しほっとするのです。そういうイエス様だからこそ、わたしたちが気が進まないとき、〝大丈夫だから前に進みなさい〟と励ましてくれていると思うからです。

西原廉太司祭(主教被選者)の按手・就任式の準備が進められています。西原司祭は立教大学と聖公会神学院の教員も兼務します。主教職を務めるためには皆様のご理解と協力が必要です。どうか西原司祭のためにお祈りください。

主教 ペテロ 渋澤一郎

クリスマスの招待状

稲荷山くるみこども園では、この冬もクリスマス会のページェントが行われました。ページェントの始めに聖書朗読とお話をするチャプレンの私にも、手作りの招待状が届きました。練習が始まると、はちきれそうに元気な子どもたちの歌声が礼拝堂に響きます。望んだ役になれず、涙したと聞いた子どもたちも一生懸命頑張っています。衣装を着けた姿に、私が子どもの頃もあんな衣装だったと、当時の思いが鮮やかによみがえってきて驚きました。

普段元気な子どもたちが、本番が近づくと緊張した面持ちになります。イエス様のお誕生という大きな喜びの知らせを受け取ったマリア、ヨセフ、羊飼いらに、天使が「恐れるな」と語ったことが思われました。彼らは初め、驚き、恐れた。けれど神様からの知らせを受けて、簡単ではない旅に出発するのです。

見慣れたはずの子どもの顔、声としぐさが聖書の人物に重なり、聖書に記された出来事が生き生きと迫ってきました。ヨセフさんにはこんな表情もあったのかもしれない。二人で宿屋を一軒一軒たずねて歩き回るのはどんなに大変だったことだろう。小さいと思っていた子ども一人ひとりが意思を持って動く姿に、頼もしさを感じます。

本番当日、礼拝堂いっぱいに詰めかけたお家の方たちが見つめる中、白いコッターを着た年中の子どもたちの語りで物語が始まりました。年少の「星の子ども」たちが可愛らしいしぐさで歌い、年長の子どもたちが、ヨセフとマリア、天使たち、宿屋の主人たち、羊飼い、羊、そして博士を演じます。親切な宿屋さんは、「ほんとにお気の毒、うちはただいま満員で」と歌い、隣の宿屋を指さします。羊飼いと羊の歌が本当に素晴らしく、クライマックスで博士一人ひとりが宝物を捧げて歌う姿に、誰もが主役なのだと思わずにはいられませんでした。

クリスマスの物語は、それぞれの場所で生きる私たちへの、神様からの喜びの招待状と言えるのではないでしょうか。神様はきっとこんなふうに皆のことをかけがえのない存在として見ておられる。そして、クリスマスの主役、神の御子イエス様は、招かれる全ての命を輝かせてくださる。

脚本が素晴らしいと思ったのは、羊飼いと羊、博士、宿屋の主人たちが皆、「マリアさん、ヨセフさん、おめでとう」と言って、生まれたイエス様を拝みに馬小屋に来るところでした。天使も加わり、全員がイエス様を囲みます。「おめでとう」それはマリアたちだけが受けた言葉なのではない。「クリスマスおめでとう」とは、主があなたのところに来られた、神様がこの私たちのただ中に来てくださった、という喜びの挨拶なのだと気付かされる場面でした。子どもたちの声と姿、その命を通してみ言葉を聴き、見ることのできるページェントは、何とクリスマスに相応しいのだろうと思います。

先日、教会のクリスマスイブ礼拝に初めて来られた女性がいました。聞くとミッションスクールの卒業生で、「クリスマスらしいことをしたいと思って」と笑っていました。彼女もかつてクリスマスの物語を聞いたに違いありません。2020年も、主が私たちのところに来られた、この喜びをこの地で共に語り継ぎ、歌い続ける教会でありたいと祈ります。

執事 マリア 大和玲子
(長野聖救主教会牧師補)