〝更なる高みを目指して…名古屋柳城女子大学〟

今年、創立121周年を迎えた柳城学院は、この度、 4年制大学「名古屋柳城女子大学(こども学部)」の設置が認可されました。柳城学院では現在、名古屋柳城短期大学と附属幼稚園3園を設置していますが、新たに4年制大学が加わることになりました。

4年制大学の構想は一昨年から検討が始められ、理事会、評議員会の議を経て、昨年10月、正式に文部科学省に認可申請をしました。その後、申請が受理され、審査が進められてきました。法人としての適性さ、教育内容の精査、教員体制、施設整備等に関しての書類及び面接審査・実地審査を経て、今回の認可に至りました。わたしも何回か文科省に出向いて大学設置審議会の面接に臨み、また、短大に委員を迎えての審査も受けましたので、今回無事に認可され、ホッと胸をなでおろしているところです。

今日、乳幼児の保育・教育に対する社会的ニーズは多様化・複雑化しています。保育者には高度な専門性のみならず、幅広い社会的視野やかけがえのない命を預かる者としての使命感と包容力のある豊かな人間性が求められています。また、殊に、愛知県においては多文化共生という視点での保育も必要とされています。

そのようなニーズに対応するため、従来の短期大学での保育者養成に加え新たに教育課程を編成し、キャンパス環境も整え、4年制での保育者養成に取り組むことにしました。これまでの柳城の保育者養成の経験と実績の上に更なる保育者養成の高みを目指したいと願っています。

これから学生募集が始まります。学生確保のため奨学金制度の充実を含めた学生支援体制も整えつつあります。新たな柳城で更に多くの方々が学んでいただくことを願っています。教区の皆様方にも更なる柳城の発展のため、ご理解とご支援を心よりお願い申し上げる次第です。

主教 ペテロ 渋澤一郎

〝働き手が少ない!!〟

先日、聖公会神学院を訪れ、神学生の皆さんと交わる機会が与えられました。以前から神学院の校長先生が各教区主教たちに神学生と交流をしてほしいとの希望を持っておられ、今までにも何人かの主教さんたちが神学院を訪れていました。今回は中部のわたしに声をかけていただきました。久しぶりに学生寮にも入り、昔とはずいぶん変わっていましたが、大変懐かしい思いがしました。

初日の夕方にお邪魔して夕の礼拝を一緒に献げ、夕食も神学生と一緒に食堂でいただき、次の日は朝の祈りを献げ、朝食をいただき、午前中1時間半ほど中部教区のことや自分のことなどを話させていただきました。

現在、聖公会神学院には5名の神学生が在学しており、全員聖職候補生で、内4名は女性です。男性の神学生は1人です。最近の神学生は様々な社会経験を経て神学校に来ておられる方が多く、実際に教会に遣わされたとき、その経験が宣教や牧会の現場で大いに生かされることと思います。それに皆さん仲がよろしいようで何よりです。わたしたちの頃はよく神学生同士が殴り合いをしたこともありました。

ただ、現在の神学生4人が来年の3月には卒業・修了予定ですので、新たな入学生がないと神学生が1名になってしまいます。それは京都のウイリアムス神学館も同様です。

中部教区では相原太郎聖職候補生がこの3月に神学院を修了してから神学生(聖職候補生)はいません。これからの2年間でわたしを含め3名の聖職が定年を迎えます。イエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37〜38)と言っておられます。働き手が与えられるよう神様に願い求めてまいりましょう。

主教 ペテロ 渋澤一郎

イングランド聖公会・教会成長研究報告書

2017年、教区宣教局の教育部・礼拝部の共同作業によって翻訳されたイングランド聖公会・教会成長研究報告書2011〜2013(以下、報告書)について紹介したいと思います。その題は「逸話から証拠へ」(From Anecdote To Evidence)で、一般的にキリスト教会が衰退している西欧でも、成長している教会があるという事例を通して一緒に考えるために良い資料です。「成長」という言葉が使われているということは、現在は衰退の程度が激しいために「成長」が求められているという意味でもあります。

教会成長の意味は、大きく数値的な成長と質的な成長に分けられます。西欧が帝国主義植民地政策を広げていた時代から現代に至るまで、長い間教会はマタイ28章の宣教命令を用いて数値的成長を最優先の価値として考えてきました。数値の増加ということは勿論、教会運営に直接関係するところであるために、端的には問いにくいことでもありますが、数値的成長と共に、今は質的な成長(輝かしい生き方)がキーワードとしてもっと大事に取り上げられ、内的成長・霊的成長・社会的成長の部分が重んじられています。

特に英国に於いてこの報告書は、今は、伝統的な教会から離脱していく現代人、若い世代の人たちと多文化住民たちに教会が合わせていくべき時代であると語っています。これからさらに急変していく時代を迎えて、そういう時こそ教会は敷居を低くして、「いらっしゃい」と言いながら待つ宣教ではなく、外に出て世の中の声を聞かなければなりません。時代の流れの中で、大きな変化への挑戦もなく、今までそのように待ってきた西欧の教会が、その危機の中でどう対処して来たかを覗き見ることが出来る報告書でもあります。

勿論、このようにすればわたしたち日本の教会も成長するという方法を提案している文書ではありません。どうやってキリスト教を伝えるかではなく、どうやって神様の御国の価値を伝えるかという観点から読んで頂きたいと思います。

聖書の「善きサマリア人」の物語を見ると、当時のユダヤ人の考えにはサマリア人は隣人の範囲に入っていませんでした(絶対破れない思考)。しかし、「誰が私たちの隣人なのか」という問いと答えを重ねながら、今のこの時代に於いて、私たちの新しい隣人を探し出すことが大切です(絶対破れない思考は無いという思考)。

現代の教会は、新しい隣人を積極的に探す働きを通して結果的に今までの伝統的な信仰の教会も共に成長することが出来ると思います。勿論、英国とキリスト教文化が主流ではない日本の教会の間には一定の距離がありますが、宣教的な状況には似ている点が多くあります。若い世代の移動によって既存の地域共同体が崩れつつあり、高齢化現象がより大きく浮き彫りにされていて、教会自体が若い層からの呼びかけの力を失っていく現象がその共通点だと言えます。

教会のこれからの宣教の対象は、現在、教会に出席している信徒のみではなく、教会が属している生活エリア全体がその対象であるという共通認識を信徒全体が共に持つことが大事です。そして信徒同士のみが宗教的安静を得ることではなく、社会を構成する皆が輝かしく豊かに生きるところ(神様の御国を味わうことが出来るようにするところ)に教会の目的があると思います。そういう意味からでも、また茶話の内容に用いて頂くためにも是非読んで頂きたいと思います。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

軽井沢ショー記念礼拝堂 第4回音楽のつどい

軽井沢ショー記念礼拝堂 第4回音楽のつどい
〜美しい紅葉の中、神様への感謝を込めてお送りする 声楽家によるコンサート〜

日時:
2019年10月20日(日)
11:30 開演(礼拝終了後)
*入場無料

出演:
テノール 澤﨑一了(Sawasaki Kazuaki)
バリトン 寺田功治(Terada Koji)
ピアノ  廣瀬充(Hirose Mitsuru)

詳細はチラシ画像をご覧ください

軽井沢ショー記念礼拝堂 第4回音楽のつどいチラシ

教会の「宗教活動」

先日、東京教区の教役者研修会で、「教会の財務」がテーマになりました。その中で、近年バザーの収益に課税されたり、教会の倉庫を地域の防災用に開放したところ宗教活動ではないと見なされ、固定資産税課税の対象になったりした事例が紹介され、驚くと同時に、教会と直接関係を持たない役所が、教会の働きを勝手に限定するような振る舞いに、正直憤りをも覚えました。そして、このような税務署の見方は、わたしたち自身の教会観を問い直すものでもあるとも思いました。

「教会とは何であるか」とは神学の根本的なテーマの一つで、「教会論」と呼ばれますが、この分野で近年注目されている「コミュニオン(交わり)教会論」というものがあります。これはひとつの「考え方」であり、様々なバリエーションを含むものですが、小生はこれを日本における教会の強力なモデルであると考えています。

コミュニオン教会論は、様々な「コミュニオン」に焦点を当てることにより、教会の法的・制度的な理解を超える可能性を持ち、世界に広がる普遍の教会と個々の教会との間にある相互の関係を強調するものです。小生なりにこれを言い換えると、「教会とはただじっと立っている建物のことでも、組織として運営されている団体のことでもない。キリスト者がさまざまに動き、周囲とのさまざまな関係を作ろうと努める中で、そこに生まれる『コミュニオン』のうちにこそ教会の真の姿がある」ということです。

日本のような社会で、教会がこのようなコミュニオンを築こうと動く時、それが旧来の意味での「キリスト教」的な範疇にとどまらず、地域社会や様々な団体などとの交わりとなっていくのはむしろ当然のことであり、そこに日本の教会の可能性があると思います。小生は学校勤務の機会を長く与えられてきましたが、その経験から言っても、キリスト教学校の中には「教会」の姿が確かにあり、「キリスト教」の枠を超えたところでキリストが働いておられるということを確信しています。教会の活動はこのような意味においてなされているのであり、従来考えられてきた「教会」の枠を飛び越えたところに生まれる「コミュニオン」を様々な姿で拡げていくことが、日本という地における教会の大切な働きではないでしょうか。

最初の税務の例に戻れば、ここで私たちが問わねばならないのは「宗教活動」をごく狭い領域に限定する視点、バザーや地域との協力は「宗教活動」ではないとする考え方に対し、「キリスト教はそんな了見の狭い宗教ではない」ということを宣言し、実際に示していくことです。逆に、「教会は主日の礼拝さえしていればよい」という方向に教会が向くならば、それはこのような世間の見方を自分たちで肯定するものであると言えるでしょう。

「教会がコミュニオンである」ということをわたしたちが形にしていこうとする時、そこには今まで想像もしなかったような教会の姿が現われるはずです。そこにキリストが共におられ、共に働いてくださることを信じて、さまざまなアイデアを出し合っていきませんか。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(東京教区出向・岡谷聖バルナバ教会協力司祭)

〝譲渡令書〟

一昨年も触れましたが、岐阜市の「岐阜空襲を記念する会」による「子どもたちに伝える平和のための資料展」が今年も岐阜市・メディアコスモスで開催されました。今年は「お宮さんもお寺さんも火に追われた〜岐阜空襲のときの神社・お寺・教会」というテーマで展示が行われ、戦前の岐阜聖公会の建物疎開に関する資料も展示されました。

実は、相原太郎聖職候補生が教会の事務室から当時の強制疎開の命令書である「譲渡令書」を発見し、その写しが展示されたのです。そういう命令書が残っていること自体大変珍しいそうで、岐阜新聞や京都大学の関係者も関心があるようです。

そういえば、わたしが岐阜の牧師時代、小笠原主教様から教会の強制立ち退きの話を伺ったことがありました。当時、神田町にあった教会が空襲に備えるため強制的に立ち退きをさせられ、美濃太田に疎開したということでした。県の命令なので立ち退き料など一銭もなかったと言っておられたのを記憶しています。

譲渡令書は岐阜県知事名で、「(岐阜聖公会に係る)建築物ハ防空疎開事業施行ノ爲必要ニ付…岐阜縣ニ譲渡スベシ…防空法…ノ規程ニ依リ命令ス」というものでした。令書の日付が4月25日で、5月5日までに譲渡すべしというもので、極めて短時間での立ち退き命令です。その後、7月9日の空襲により岐阜市の中心部は灰燼と化し、約900名の方々が命を落とされました。

いざ戦争になれば一切の個人的な状況は配慮されず、すべてが「お国のため」に犠牲にされます。時代が変わってもその状況は変わらないでしょう。戦争を知らない世代が人口の8割以上を占める時代になりました。戦争が起こったらどうなるのかということへの想像を大いに働かせ、そうならないように努めなければならないのです。

主教 ペテロ 渋澤一郎

聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂聖歌隊『2019サマーコンサート』

軽井沢ショー記念礼拝堂にて、聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂聖歌隊による『2019サマーコンサート』が行われます。

2019年8月25日(日)
午前10時の礼拝後すぐ
*礼拝時間は約1時間くらいです
聖路加国際大学聖歌隊コンサートチラシ/軽井沢ショー記念礼拝堂

「キリスト教公開講座」日時・会場変更のおしらせ

7月18日(木)10:30から予定されておりました主教座聖堂理事会・中部教区センター共催「キリスト教公開講座(旧約聖書・担当箭野司祭)」ですが、担当牧師急用により7月24日(水)10:30からに変更になりました。

場所も教区センターではなく、隣接の名古屋聖マタイ教会ホールに変更となります。

楽しみにお待ちくださった方には申し訳ございませんが、ご理解の程、よろしくお願いいたします。詳しくは中部教区センター(052-858-1007)までお問い合わせください。

子どもたちに伝える平和のための資料展

2019年7月3日(水)〜11日(木)9時~21時(3日は12時から・11日は15時まで)、ぎふメディアコスモスにて開催されます岐阜市主催の「子どもたちに伝える平和のための資料展」におきまして、岐阜空襲に関係して岐阜聖パウロ教会の史料が展示されます。
7月2日(火)付の岐阜新聞の1面及び社会面に掲載されました建物疎開のための「譲渡令書」(複写)も展示されています。どうぞお立ち寄りください。

教会の政治的発言は、「政教分離」に反するの?

2月21日(木)、主教会と正義と平和委員会は、『天皇の退位と即位に関する声明「大嘗祭への国の関与は政教分離の原則に反します」』 を出して、大嘗祭を公的な行事とし国費を支出することが日本国憲法第二十条の「信教の自由の保障・政教分離」に反していることを指摘しました。また大嘗祭を公的な行事として位置づけることで、天皇が特別な存在であること、さらに神格化のイメージを植え付けることを危惧し、強く抗議をしています。

教会が政治的な発言をすると、マタイ福音書22章21節「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という聖書の言葉を引用して、「政教分離の原則に反する」という批判を目にすることがあります。しかし、政教分離の原則は、わたしたちの日本では信教の自由と分かちがたく結びついていて、思想、信条自由や言論の自由とも深く関係するものです。憲法第二十条は次のように規定されています。

憲法 第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この憲法第二十条第三項にあるように、政教分離の原則とは国家が宗教と分離していることを意味します。言わんとしていることは「国家と宗教」の分離であって、国家が特定の宗教に関わりを持つことを否定する原則で、基本的人権の信教の自由を保障するものです。「政」という漢字が使われてはいますが、政教分離の「政」は「政治」でも「政党」でもなく、「政治と宗教」の分離を言っているのではありません。

日本国憲法第二十条第一項の後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」を引き合いに出して、宗教団体が政治活動をすると政教分離に反するという誤解もあるようです。この規定は、国から特権を受ける宗教を禁止し、国家の宗教的中立性を明示したものです。

日本国憲法の精神が求める政教分離の原則は、戦前に国家と国家神道が一体となってアジアの多くの人々と日本の国民の命と基本的人権を侵害したことへの反省から規定されているものです。このことを抜きにして、この政教分離の原則と信教の自由を考えることは出来ません。繰り返しになりますが、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているのではありません。

むしろ、日本国憲法は「結社の自由」を保障しており、宗教団体にも結社の自由があります。神を信じるものが集まって宗教団体を組織することはもちろん自由で、その宗教団体が、自らの信仰に基づいて政治活動をすることも禁じられてなどいないのです。

むしろ教会は政治体制に拘束されることなく、福音宣教によって神さまの言葉を宣べ伝え、イエスさまの言葉と行いに基づいた、キリストの価値観をこの世に示していくことが、わたしたち教会の大切な責任ですらあります。

ですから、今回の「天皇の退位と即位に関する声明」は、過去にキリスト教会が「社会的儀礼」であるとして、信徒の神社参拝を許してしまい、日本国家と国家神道が一体となって、戦争に邁進することに協力をしてしまったこと、預言者的使命を果たすことが出来なかったことへの反省としても、教会の意思を表明せざるを得ないものなのです。

基本的人権は神さまによって与えられたものです。国が政教分離の原則をないがしろにし、基本的人権を侵害しようとするときには、教会は、聖書の言葉に従ってそれを正して行く預言者としての役割を果たさなければならないのです。

司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マルコ教会・愛知聖ルカ教会牧師)