『教会は何が出来るのでしょうか』 

神学院を卒業し、 松本聖十字教会に赴任して4ヶ月が経ちました。 教会は松本城の近く、 奇麗な山々が見える所にあります。 静かで平穏な町、 季節毎に可愛い花がいっぱい咲きます。 教会の近所を散歩していると、 私はこの世が平和で、 何の困難も無いように感じることさえあります。 しかし、 そうではない事を私たちは知っています。
教会に助けを求めてくる人々がいます。 お腹を空かせている人、 お金を求めてくる人、 話を聞いて欲しい人、 病気や死への不安に苦しむ人々…。
そして、 暴力と戦争に満ちた世界に気が付きます。 全世界が北京オリンピックに注目し応援している時も、 独立を願うチベットのような少数民族に対する中国の弾圧は続き、 南オセチア自治州を巡るグルジア紛争も含め、 様々な暴力と人権侵害は絶えません。 敗戦63年を迎える日本で、 広島の平和礼拝に出席し、 日韓青年たちと沖縄を訪問し、 平和について考える時を与えられました。 戦争を経験した人々が戦争を知らない世代へ戦争の悲惨さ・残酷さを伝えています。
また、 神学院での実習で訪問したフィリピンは深刻な貧困の中で、 政治的殺害や環境破壊 (外国資本による開発という名目でのダム建設や埋立て、 伐採によるはげ山化)、 海外労働者への人権侵害はとても深刻な状況です。 その状況が日本と深く関連付けられている事に私は大きなショックを受けました。
教会はこのような人々の苦しみに対して、 何が出来るのでしょうか。
現在多くの教会が信徒の減少と高齢化によって沈滞の中にあります。 その沈滞によって、 傷ついた世界より教会の現状が切実であるという声もあります。 しかし、 イエスの愛 (生と死、 苦難と復活) の記憶を共有し、 「共に苦しむ (コンパッション)」 イエスの記憶が私たちに勇気と希望を与えてくれます。 教会は苦しむ人々と手をつなぎ、 連帯する勇気を得られるのです。
神は何故、 戦争、 貧困、 飢餓、 病気、 拷問、 不幸を無くさないで、 多くの人が寂しく、 孤立したまま苦しむのを放置するのかと多くの人々は問います。 私もその中の一人です。 まだ答えを得ていませんが、 私は韓国の教会で学んだ事が一つあります。 独裁政権に抵抗し、 学生運動・民主化運動に参与する青年たちは、 苦難のイエスの記憶を持っていました。 その記憶から希望を見出していたのです。 貧しい人々は貧しいイエスの記憶を持っていました。 逮捕され拷問を受ける人々は、 同じく逮捕され拷問を受けるイエスの記憶を持って耐えました。 そのイエスの記憶が、 多くの人々に連帯への勇気と希望を与えたのです。
私たちは礼拝と交わりを通して、 イエスの記憶を共有し、 イエスの教えを聞き、 イエスの体と血を分け合い、 主の平和を求め、 世の中に派遣されています。 「共に苦しむ」 イエスと共に行きましょう。 傷ついた世界と、 傷ついた人々と共に!

聖職候補生 フィデス 金 善姫
(松本聖十字教会勤務)