ひさかたの

 この原稿を書いているのは4月、桜が満開の時期です。わたしの勤めている新生病院でも、患者さんが看護師やリハビリスタッフと中庭に出て、お花見をされています。
 主日の礼拝後にも信徒さんのアイデアで、中庭に皆で集まり、お茶とお菓子でお花見の時を持ちました。散歩に来ていた患者さんとも、声をかけあって過ごしました。誰もが嬉しそうに、白やピンクの花々に囲まれてお茶を飲んでいる様子、それは楽園を思わせるような光景でした。
 数日後の昼休み、桜の花びらが空から降り注ぐ中、わたしは礼拝堂への道を歩いていました。長い冬が終わり、春が来たことを感じながら、つれづれなる思いは、聖書のみ言葉に向かっていきます。
 イエス様が生涯でなさったことはたくさんありますが、その中でも「共食」、つまり誰とでも分け隔てなくご一緒に食事をしたことは、大きなことだったと言われています。「開かれた共食」、イエスと共に多様な人々が一堂に会し、食事を楽しむこと、それはユダヤ人と異邦人、豊かな人と貧しい人、健康な人と病の人、また男性と女性など、様々な「区別」によって分けられ、ばらばらに食事をとっていた人々にとって、驚きに満ちた体験だったに違いありません。
 死からよみがえられ、弟子たちの前に姿を現わされたイエス様は、再び皆と食事をされました。それは「いのちそのものを分かち合う」という食事の神秘を私たちに知らせ、「隔てを越えて皆が共に食べる」という経験をすることに、神様の深い思いと願いがあることを示してくださっているのだと、わたしは思います。
 食事はわたしたちの生きる根源です。日々、様々な動植物のいのちをいただいて、わたしたちは生きています。その事実が持っている厳粛さと、ささげられたいのちを無駄にできないという思いを、大切にしていきたいです。
 わたしたちはまた、日曜日ごとに皆で教会に集まって、聖餐式ではご聖体をいただき、身も心もイエス様と結ばれ、養われる経験をします。わたしたちの教会は、実は毎週宴会をしているといってもよいのです。そして聖餐式は、いずれイエス様が再びわたしたちの所にやって来られる時、悩み苦しむすべての人の涙をぬぐってくださり、重荷をおろさせ、共に席に着いてくださるという、新しい宴会の先取りであるともいえます。
 信仰は空想や思い付きではなく、食事のようにわたしたちのいのちや生活に関わる、きわめて具体的な現実の中に形をとってあらわれていくものだと思います。…。
 「チャプレン、患者さんがスタッフと一緒に、今から中庭にお花見に行きますから、お迎えに来てください」。
 そんな看護師からの内線電話で、我に返りました。「神の国は、あなたがたの中にある」(ルカ17章21節)。「ぼんやりしていないで、私と一緒に来なさい」。そのようにイエス様に言われたような気がしました。花を見てうっとりしたり、感傷的になったりしている場合ではありません。神の国、神様の思いの満ちた場所は、出会いと祈りの中で、今ここに、わたしたちの間に実現するのです。
 そこに立ち会わせていただく恵みを、これからも感じさせてもらいながら、日々働いていきたいと思います。

司祭 洗礼者ヨハネ 大和孝明
(新生礼拝堂牧師)