軽井沢ショー記念礼拝堂は旧中山道の碓氷峠の手前にあります。静かなところのように思えるかもしれませんが、実はいろんな音が聞こえてきます。夜明け前に鳥の鳴き声で目を覚ますことがあります。感謝の気持ちでまどろんでいると、誰かが訪ねて来て戸を叩く音がして驚いて飛び起きました。壁の板を突くコゲラのようです。深夜にはどこかの隙間から入った正体不明の動物が天井裏を走り回る音がします。雨風のときは木の枝がトタン屋根に落ちる音。いろんな生き物たちの音に、新参者のニンゲンは驚いたり戸惑ったりしています。司祭館に住み始めて半年たった頃、隣のリゾートマンションの建設が本格的になり、その1年後には反対側の土地で保養所の建築が始まりました。礼拝堂と司祭館を挟むように両方で工事が行われ、その音にも驚いたり困ったり。考えてみれば自分の耳に心地いい、感触のいい音というのは勝手なものかもしれません。フィールド・レコーディングに関する本の紹介で、町の雑踏や自然の音をありのまま記録しても、何をどのように録音するのかという録音者の視点、価値観が録音内容に反映されるとありました。私たちは気づかないうちに聞きたい音を選んで聞いているようです。町の中で聞こえるさまざまな音の中で自分に都合がいいように音を聞こうとしているようです。家の中で、車の中で、鳴始めるさまざまな電子音には危険を知らせるものもあります。さまざまな音の中で実は選んで聞いているのです。私たちがその音の意味に気がつかずに、聞き逃しているかもしれない音はどれほどあるのでしょうか。結婚式の中で新郎新婦に対して互いの思いを語り合い、共感できる存在が与えられたことは感謝ですと話します。大変な時もあるが、互いの思いを聞いていくこと、受け止めて行く努力が大切だと話します。コロナ禍のために、店先でマスクやビニールシートに隔てられ、互いの声が聞き取れない経験があります。聞きたい音や声と聞きたくないものとの間に、本当に聞かなければならないものがあるのではないでしょうか。主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を語られます。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と教えられます。さまざまな人々が耳にする福音の種としてのみ言葉は、受け取る人々によって届かないことが多い。けれど、み言葉をまかれた人々がどうであれ、主イエスは語り、教えられるのです。たとえ無駄な種となっても、思いっきり福音の種は撒かれるのです。雨が降らなくても、土が固くても、鳥に食べられても。
今も「種を蒔く人」は聖霊を通してたくさんの種(祝福に満ちたみ言葉)を蒔くのです。それは大いなる無駄になるかも知れません。十字架の上の主イエスを見た人々も最初はそう思ったでしょう。しかし捨てられたように思っていた弟子たちは、その心にあふれるほどの種を与えられていたのです。絶望が希望となっていく、無駄に思えていた「十字架の言葉」という種は「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙1 1章18節)
司祭 マタイ 箭野直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森チャプレン・軽井沢ショー記念礼拝堂協働)