2月21日(木)、主教会と正義と平和委員会は、『天皇の退位と即位に関する声明「大嘗祭への国の関与は政教分離の原則に反します」』 を出して、大嘗祭を公的な行事とし国費を支出することが日本国憲法第二十条の「信教の自由の保障・政教分離」に反していることを指摘しました。また大嘗祭を公的な行事として位置づけることで、天皇が特別な存在であること、さらに神格化のイメージを植え付けることを危惧し、強く抗議をしています。
教会が政治的な発言をすると、マタイ福音書22章21節「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という聖書の言葉を引用して、「政教分離の原則に反する」という批判を目にすることがあります。しかし、政教分離の原則は、わたしたちの日本では信教の自由と分かちがたく結びついていて、思想、信条自由や言論の自由とも深く関係するものです。憲法第二十条は次のように規定されています。
憲法 第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この憲法第二十条第三項にあるように、政教分離の原則とは国家が宗教と分離していることを意味します。言わんとしていることは「国家と宗教」の分離であって、国家が特定の宗教に関わりを持つことを否定する原則で、基本的人権の信教の自由を保障するものです。「政」という漢字が使われてはいますが、政教分離の「政」は「政治」でも「政党」でもなく、「政治と宗教」の分離を言っているのではありません。
日本国憲法第二十条第一項の後段「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」を引き合いに出して、宗教団体が政治活動をすると政教分離に反するという誤解もあるようです。この規定は、国から特権を受ける宗教を禁止し、国家の宗教的中立性を明示したものです。
日本国憲法の精神が求める政教分離の原則は、戦前に国家と国家神道が一体となってアジアの多くの人々と日本の国民の命と基本的人権を侵害したことへの反省から規定されているものです。このことを抜きにして、この政教分離の原則と信教の自由を考えることは出来ません。繰り返しになりますが、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているのではありません。
むしろ、日本国憲法は「結社の自由」を保障しており、宗教団体にも結社の自由があります。神を信じるものが集まって宗教団体を組織することはもちろん自由で、その宗教団体が、自らの信仰に基づいて政治活動をすることも禁じられてなどいないのです。
むしろ教会は政治体制に拘束されることなく、福音宣教によって神さまの言葉を宣べ伝え、イエスさまの言葉と行いに基づいた、キリストの価値観をこの世に示していくことが、わたしたち教会の大切な責任ですらあります。
ですから、今回の「天皇の退位と即位に関する声明」は、過去にキリスト教会が「社会的儀礼」であるとして、信徒の神社参拝を許してしまい、日本国家と国家神道が一体となって、戦争に邁進することに協力をしてしまったこと、預言者的使命を果たすことが出来なかったことへの反省としても、教会の意思を表明せざるを得ないものなのです。
基本的人権は神さまによって与えられたものです。国が政教分離の原則をないがしろにし、基本的人権を侵害しようとするときには、教会は、聖書の言葉に従ってそれを正して行く預言者としての役割を果たさなければならないのです。
司祭 アンブロージア 後藤香織
(名古屋聖マルコ教会・愛知聖ルカ教会牧師)