年の瀬が近づくと十大ニュースなどが取り上げられ、これも今年だったかと思うことがあります。江戸時代、庶民は除夜の鐘を聞きながら「七味、五悦、三会」を家族で話し合ったそうです。この1年食べて美味しかったものが七つ、楽しかったことが五つ、新しい出会いが三人いれば、「今年はいい年だったなあ」と喜び合ったそうです。なかなか粋な年末の過ごし方だと思います。スマホが身近なものになってきたこの頃ですから、撮りためた写真などを見返してみると色々出てきそうです。どんな年も悲しいことや災害が起こります。それでも少しずつ記憶をたどりながら、嬉しいことや感謝すべきことがあったと気がつかされるのではないでしょうか。そんなふうに行く末から来し方を待ち望むことができるならば、きっと新しい年も静かな気持ちで迎えられることでしょう。
「主の救いを黙して待てば、幸いを得る」(哀歌3:26)
神様を待ち望むことはたやすいことではないと誰もが思います。神様の摂理は大きくて遠いものです。長い時間神様を待ち望むなかで受け入れ難いことが起これば、主の救いを疑ってしまい、理性も信仰もゆすぶられ、私たちの思いは乱れてしまうかもしれません。クリスマスの礼拝でイザヤ書が読み上げられます。
救い主降誕の700年以上前にも関わらず、それはすでに起こったかのように「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と語っています。キリストの誕生は、神の語る言葉であり神の意思ですから、確実に実現され、「もうすでに」起こった出来事としてイザヤは心に受け止めたのです。救い主を待ち望むことは起こるかどうかわからないことをただ待つのではなく、心惑わされることなく、時の長さにも動揺することなく、ひたすら神を信頼するというところに真理である救い主が与えられるのです。
主の言葉に従って旅立ったアブラムは、なかなか土地を得られず、子も与えられる気配もありませんでした。彼には、砂漠の乾いた風の音は虚しく、「そんなことはあり得ない」と聞こえたかもしれません。
しかしアブラムは、遠くの星、暗闇の中の光を見つめながら、神に対する信頼を持ち続けました。クリスマス物語の始めに、ルカ福音書は天使の言葉に戸惑い不安になるマリアを描いています。「どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ1:34)しかしマリアは、神様の最大の約束が救い主の誕生であり、神ご自身であることに気づき、待ち望む者とかえられました。わたしたちもまた主を待ち望む者です。
「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:24b〜25)
クリスマスの準備が始まっています。喜び待ち望むことは、それが確かな喜びだからです。救い主が私たちの間に生まれます。神様がすでに始められた救いと愛と赦しを信頼しつつ、降臨節をすごしてまいりましょう。
司祭 マタイ 箭野直路
(軽井沢ショー記念礼拝堂協働司祭 旧軽井沢ホテル音羽ノ森出向)