『A・C・ショー宣教師の足跡に学ぶ ―ショー祭に事寄せて―』

私たちの長野伝道区には、明治時代に活躍された聖公会の宣教師を讃える祭りが二つもある、というのは珍しい思いがします。その一つは毎年6月に上高地で行われるウェストン祭であり、もう一つが、毎年8月1日に当礼拝堂と境内地で町民祭として行われるショー祭です。もっともこちらは最近に始まったばかりで今年で3回目ですが、これは10年前に軽井沢在住の有志が始めた別荘建築等の調査保存の運動から、それらを生み出す根元となったショー師の存在と精神こそ軽井沢町の精神であることが再確認され、感謝と将来への指標として行われるようになった祭典です。
アレクサンダー・クロフト・ショー司祭は1873(明治6)年にSPG(英国聖公会福音宣布協会)の宣教師として来日し、在日英国公使の助言もあって三田の大松寺という寺に居住して日本語を学びつつ日本の文化・伝統・宗教への理解を求めて行きました。それは当時のSPGの宣教方針でもあったようです。更に師はこの時期に福沢諭吉氏と出会い終生の深い交わりを持ったこと、慶應義塾で倫理(実は聖書)を教えつつ向学心に燃えた学生たちと親しく膝を交えたこと、更に英国公使館付牧師として在日欧米人のため、また当時海外列強から不当に扱われていた日本の地位確立のために大きな貢献をしたこと等、実に幅の広い優れた宣教者であったことを知るのです。
1879(明治12)年、ショー師は芝栄町に聖アンデレ教会を創立しその後の働きの拠点としました。ここでも師は、日本の伝道は日本人によって為されるべきだと、若く優れた聖職の育成に力を注ぎ、日本聖公会の指導者たちを生み出したのでした。また彼等と共に東日本地区の責任者として各地に伝道の足を伸ばし、現在の中部教区の基礎を築いたのです。師は高潔な性格の人で自分の業績を公にするような人ではなかったのですが、師の創り上げた基礎は非常に確固たるもので、その働きの結果は今日でも日本聖公会の伝統の一部となっています。
1885(明治18)年、ショー師は伝道の旅の途次に軽井沢を通り過ぎたことが避暑地軽井沢開発の発端となりました。その翌年から夏の休暇にはここで家族と共に過ごし、多くの人々にこの地の素晴らしさを伝えると共に村人達との交流を深め、自然と共に生きる喜び、人種階級を超えた自由で平等な交わりという今日の軽井沢の精神を遺されました。そのことが今日、ショー祭という祝典として今年も200名を越える人々が集まる祭りとなったのです。今年は師逝去100年記念の年、その遺徳は礼拝堂と共にいつまでも語り伝えられ、神の御業を讃美する声となることでしょう。青山霊園に眠る師の墓標には「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」(ミカ7・9)と刻まれています。正に師の生涯にふさわしい聖句です。
司祭 ミカエル 村岡 明
(軽井沢ショー記念礼拝堂嘱託)