『祝 主イエス御降誕』 

クリスマスは、今や私達の国でも国民的行事になりました。今年も街をクリスマスの飾り付けが美しく装い、クリスマスキャロルが聞こえてくるという季節になりました。

私はこの季節になるといつも想い出される事があります。それは十数年前の事ですが、ある求道者の方でしたが、「自分はこの雰囲気の中で一緒にクリスマスを喜べない!」と発言されたのでした。さらにその方は言われました。「ローソクや照明を多用し、うれしい楽しい歌ばかりが歌われ、み子イエスの誕生をうんとロマンチックに演出する。そしてサンタクロース、クリスマスプレゼントと神の愛・人の愛を甘く語られ強調される…そのようなクリスマスを私は受け容れられない」と。

私はこの時、軽いショックを受けました。何故なら私にとってクリスマスは、子供の頃からはしゃぎまわりハイテンションで過ごす時だったからです。しかし私は同時に次の事に気付かされました。

キリスト教(聖書)のメッセージが日本に土着化され、クリスマスの行事が国民的行事になる程発展したにもかかわらず「すべての人を照らす光」(ヨハネ1・9)や「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)から漏れたり、届かなかったりする事があるのだ、そのような多くの人々がいらっしゃるのだという事に。これは大切な発言・指摘だと、今もこの時の事を感謝して思い出します。その時以来、私はクリスマスを迎える時に、ただ「メリークリスマス」を演出するような事をちゅうちょするようになりました。「先生、もう少し教会内の飾り付けを豊かに華やかに致しましょうよ(街に負けないように)」「いや、教会のクリスマスは出来るだけ素朴にシンプルな方がいいですよ」と、こんな会話を何回か交わしてきました。

クリスマスは、最初の福音書マルコ福音書には記述がありませんし、ルカとマタイ伝では、最初にみ子の降誕を知らされた人は特定の人で、他の人は知らなかったり排除したりというような記述、ヨハネ伝は、み子の降誕の描写は全くなく理屈で説明しているというような聖書の記述でわかるように、最初からクリスチャンの関心事ではありませんでした。

ですからキリスト教会は、クリスマスは「み子イエスの誕生日」としてお祝いするのは、とても大切な信仰的行為として勧めていますが、同時にどのようなメッセージを意識して、この時をお祝いすべきなのかを定めてはいないと言っていいと思います。

私はこの文の冒頭に記した出会いがあって以来、毎年繰り返しあらためて問い直します。クリスマスの意味は何か?と。今年この文を書くにあたり黙想いたします。

それは、「山上の説教」の「八福の教え」(マタイ5・3~10)にて語られている人々が、文字通りそのようになり救われる為にみ子イエス様の誕生という出来事があったのではないかと。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、

柔和な人々は、…(略)」

司祭 パウロ 松本 正俊
(一宮聖光教会牧師)