今年の初め、 NHKで 「男はつらいよ」 全48作放送のCMがあった。 その中で 『それを言っちゃーおしまいよ』 と言うおなじみのフレーズがあった。
職場や公の場に限らず、 家族や夫婦の間でも 『それを言ってしまったら元も子もない』 ということがある。
人はみな感情を持って生きているが、 その感情にすべてを任せてはいない。 理性や知恵、 あるいは責任などをもってどうにかコントロールしている (つもりでいる)。 この4月から 「旧軽井沢ホテル音羽ノ森、 旧軽井沢礼拝堂」 でチャプレンとして結婚式をおこなっている。 それまで同じ長野県にある新生病院のチャプレンであったので、 よく 『これまでと違って大変ですねー』 と言われるが、 自分の中ではそうでもない。
確かにこれまでと勝手も違うが、 結婚式を教会で望むカップルのまじめな態度にはこちらのほうが毎回、 彼らからその謙虚さを教えてもらっている。
ホテルの従業員の態度も自分たちのホテルやその仕事に誇りと愛着を持っている仕事振りをみていると、 教会が一般社会の人々と作る接点の、 その一つを自分はどれだけ 「キリストに仕える熱心」 を持ってやってきただろうかと反省させられる。
この時勢だから病院もホテルも生き残りの時代の中で、 目の前にいる人々への対応や配慮への姿勢は、 どのような場であっても大切なことだろう。 そう言えば新潟のあるホテルマンが 「私たちがおこなっている 『サービス』 ってお祈りのことですよね」 と言われたことがあった。
祈ることがキリストに仕えることであるはずなのに、 私たちは神様への手段や方法のように思ってしまっていないだろうか。
確かに神様に向けて私たちは祈るのであるが、 仕える心を持って祈っているだろうか。 あるいはその祈りがいつも自分と神様だけの間のものになってしまっていないだろうか。 結婚式の中で、 二人のために祈る場面では必ず参列者に向かって、 お祈りにある 「アーメン」 を一緒に唱えてもらうようにその意味を伝えてお願いしている。
それはその祈りが私一人や結婚した二人だけがおこなうものではないからである。
そこでみんなで共に祈るということは、 人と人をつなぐことである。 その場にいる人々が共に祈るということはその人々が神と共につながり、 お互いも共につながっているということであって、 人々が祈ることを通して喜びも悲しみも共有し、 神に生かされていることを覚えることなのである。 それによって再び、 それぞれの場に帰ることができるのである。 そしてキリストに仕えるように、 神に仕えるように祈りをもって互いに仕え合うのである。 目に見ることのできない神へ祈ることはしんどく、 むつかしい時もある。 しかし 『それを言っちゃーおしまい』 なのである。 私たちはいつも、 祈る私たちの傍らに共に祈る主の姿があることを願いながら祈るのである。 結婚式の参列者の中に主の姿をいつも求めていきたいと願っている。
司祭 マタイ 箭野 直路
(旧軽井沢ホテル音羽ノ森・旧軽井沢礼拝堂チャプレン、 軽井沢ショー記念礼拝堂協働師)