『歩きましょう 毎日を 人生を』 

二人の弟子がエマオに向かって歩いています。 エルサレムから60スタディオンといいますから11キロぐらいのようです。 歩いて2時間半ぐらいでしょう。 今、 私は直江津と高田の2つの教会、 幼稚園を毎日往復していますが、 丁度10キロです。 残念ながら車でです。
私たちが交通手段として歩くということは、 極めて少なくなっています。 日本において車と交通網の発達が、 社会に及ぼした影響は、 大きなものがあります。 私自身もかつて子どもの頃は、 今よりは歩いていました。 昔、 豊橋にいた時に教会学校に通うのに途中から市電を利用していたのですが、 だんだん慣れてくると、 帰りは弟と二人で歩いて帰り、 電車賃でお菓子を買ったものです。 1時間は歩いたでしょう。
人は歩いている時は、 他のことは何もできません。 頭の中で、 あれやこれやと考えるだけです。 二人連れであれば、 ひたすら話し続けて、 話の種がなくなれば、 後は黙々と歩くだけです。 しかし、 この肉体的行為と考える営みが、 人間に及ぼす影響には大きなものがあると思います。 洋の東西を問わず巡礼が行われる理由は、 そこにあるのでしょう。
私たちは、 常にこれからの教会の歩みについて考えています。 教会が社会に対して何が出来るのか、 多くの人に対してどのようにしたら関われるのか? その考えは、 なかなか発展せず、 いつも同じ所に留まっているような感じがあります。 それは、 二人の弟子が、 イエスを失って途方にくれているということと、 これから先の見通しが見えないということでは、 共通している部分があるかもしれません。
なすべきことの明確な答えはなかなか見出せませんが一つヒントと思えることは、 「歩き続ける」 ことです。 歩き続けるということをどのようなことの比喩として考えるのかは、 はっきりとは分かりません。 ただ、 私たちが信仰のゴールに向かって歩き続けることははっきりしています。 そして、 そこにいつの間にかイエス様が一緒に歩いてくださることも。
私たちは、 何かをしようとしたときに、 実行した先のことや、 その効果について考えます。 無駄なこと、 失敗することをついつい避ける習慣があります。 それは、 必要なことではありますが、 そのことが現実的な行動を生み出せず、 いつも同じ所に留まっているということにつながっているとも言えます。
4月は新学期、 幼稚園にも新しい子どもたちが入って来ます。 子どもたちは、 新しい世界に入って興味を感じたことに飽きることなく何度でも挑戦していきます。 そして、 一つ一つ出来ることが増えていきます。 そんな姿を見ながら、 そこから力を得ていきたいと思います。
雪国の4月は、 一斉にたくさんの花が咲きます。 水仙も、 梅も桜もパンジーも、 色とりどりです。 こうした自然の恵みも私たちの気持ちに新たなものを与えてくれます。 たまには車を降りて歩いてみましょう。 信仰の道を歩き続けることによって後になって、
「道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」 と思える時が来ると思うのです。

司祭 ペテロ  田中  誠
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)