「どうすれば、古びた教会が、新しい生命に満ちあふれて生まれ変るのだろうか」。何とか手を打たなければ、このままでは教会は沈没してしまうとする危機感は今に始まったことではない。
3人寄れば、教会、伝道区、教区そして管区の現状を憂い、(文殊の知恵を合わせて)教会を活性化するための論議を重ね、色々な方策を(小泉総理の構造改革にも負けずに)次々に編み出してきているが、今もって決定的な処方箋を入手できたためしはない(独断と偏見によれば)。
そこで思いつくのが、主イエスを夜陰に乗じて訪ねた、ファリサイ派の論客の一人、ニコデモが発した「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」という質問だ(ヨハ3・4)。
ニコデモは開口一番、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と低姿勢で相手にせまり、色々な角度から議論をしかけて、何とか言質を取ろうとする。しかし、主イエスは、ただ、言葉少なに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることばできない」と語られた。
そして「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」となお食い下がるニコデモに、主は「肉から生まれたものは肉、…霊から生まれたものは霊である」と答えられるのであった。
ニコデモは、当時の社会では指折りの論客だったし、色々な情報を手にすることができた人物に違いない。しかし、主イエスを表面的にしか理解しておらず、人格的にではなく、知的にしかとらえきれず、「あなたは…こんなことが分からないのか」(ヨハ3・10)とイエローカードをもらってしまう。
変革を求めて、話し合いに徹し、会議に会議を重ね、又、さまざまな情報や統計、資料などを持ち出してきている私たちだが、ニコデモがそうだったように、表面に現れた事象だけにとらわれ、その背後にあるもの、あるいはその対局にあるものを注視することをしないと、肝心なものを見失ってしまい、どうして、なぜという深い泥沼に落ち込んでしまう。
「なぜ、どうすれば」と今もなお教会の再生を求めて問い続ける私たちに、表面的な、自然の道理、人間的な考えだけに目を奪われることをしないで、それらを越えた反対側に勇気をもって立ち、今一度、見直してみてはと、主は今も語られているのではないか。
時には奇跡という形を用いてでも、自然の成り行きや常識を超えて働いておられる神をもっと素直に信じ、もっと謙虚に神に聞き、もっと大胆に、そのみ心に従って歩むことができれば、古びた教会の再生も意外なところから実現していくのではないだろうか。
司祭 ルカ 森田 日出吉
(高田降臨教会・直江津聖上智教会牧師)